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あんたはここでふゆと死ぬのよ

起き抜けに最近日光を殆ど見ていない気がするなを思った。とうとうの昼夜逆転した生活習慣に準じて20時に目覚め、22時に食事を摂ろうと多少健康を意識したチョイスで回転寿司に向かうが正直この魚介類らが普段の食事に比べてどの程度健康に貢献してくれているのかはよくわからない。だいぶディストピアな味わいだし。確か魚にはビタミンが多く含まれており加熱によって失われがちなビタミンを無傷で摂取できるのなら普段不足がちな栄養素を何かしら補えているのかもしれないなと曖昧な知識に基づいた理屈を腑に落とした。脳死注文でえび→はまち→サモン→えんがわ×2→あさり汁のルーティーンをこなし→お会計→路上のキャッチと目を合わせないように注意しつ来た道を戻る。

帰宅して郵便受けを開くとAmazonで注文した明日届く予定の本が届いていたので自宅の寝床に寝転がりフォロワーさん(声が良い)のOD自傷配信をBGMに本を読み進める。一章を読み終え少し目を休めようと栞(線香花火)を挟み寝返りをうつと配信画面の中でタテタテヨコヨコにみみずが走った(京都碁盤の目)皮膚に新たに3本の線(ヨコヨコヨコ)が追加されるのが見え、しばしカミソリの鋭利な動きを目で追う。ぷくぷくと浮かぶ血の玉を眺めながらリスカって誰がやっても絵面はそこまで変わんないのだなあとIQ3の感想を抱いた。鮮血の色ってほんとおもちゃみたいに鮮やかすぎるばかな色なんだよな。足の絆創膏を揉むと今朝ぶつけた足の傷は時間経過で死に切った赤血球のこげ茶が染みたリンパ液の黄色に縁取られてしっくりと皮膚に馴染んでいた。

ここ最近どうも周囲の人間が総じて希死念慮気味なのはふゆだからなのだろうか。自律神経が失調していると体温調節がきかなくなるので冬は寒暖差が堪える、ので精神も沈みがちになる傾向はあると思うがしたってみんな病みすぎじゃないか。友人Aは夏から既に様子がおかしいし、友人はBは体を売って安楽死の費用を稼ぐと自暴自棄な発言をしている。俺は人の貞操に煩い方では無いので(そうなんだ)と思わいでも無いが、強いて言えば一応日本の法律上売春は違法で万が一なんかしらの事件に発展した場合に法的庇護を十分に受けづらいので短期で性風俗店に務めた方が安全なんじゃ無いのと思うが彼女の人格と文脈から察するに彼女にとって売春は不可逆で少なからず心理的負担が大きいであろう一種の自傷行為的サムシングであり、自傷は不健全なので可能な限り止めねばならない。好きなフォロワーさんCはここ2日くらいずっとODをしているけれど発端はプライベートの人間関係なので例の如く俺は何ができるわけで無く、無職メンヘラ友人Dもここ1ヶ月の間過去最低の精神状態を見せており、フォロワーさんEは最近ようやく一山越えたかなという感じ。これがメンヘラ界隈で生きるということなのだ、と冷たいな、ほんとびっくりするくらいの冷淡さだ。

俺は一度懐に入れた人間は極力幸せであって欲しくて死なれるのは悲しいタイプの人間だったはずで、加えて今病んでいる内の何人かは俺がだめだった時に少なからず励ましたり心配してくれていて、であるのに現状の俺は別人のように冷めたテンションで俯瞰している。不思議だ、なんでだろうと白々しい疑問符を浮かべているけれど答えは無関心に徹することで自衛してるからです。俺は人の鬱に簡単に引きずられる程度には精神的余裕が無いけど、それでも一緒に沈んでもいいよと思える程度にはみんなのこと好きだけど、それとは別問題で上記のメンバーは根本的に俺によって救われることは無く俺以外の救世主を待ち望み続けている。そして俺は好きな人間の態度からそれ自覚させられるのが一番しんどい。

死んでほしく無いと俺が縋るのを相手が求めていないことを俺が理解している以上俺の乞いは自己満足に成り下がり、自己満足を避けた言葉は空虚で、俺はそういったメッセージを送るたびに自己嫌悪で死にたくなる人間らしい。そういうのをうまく無視できればいいのにとか思う。多分こういう言葉は本気さとかが求められるものでは無いのだし、深刻な自己肯定なりの欠乏を質より数で急場凌ぎに解消して欲しい需要に対してドラマチックでヒロイックな陶酔の伴う自殺を止めるムーヴの供給が発生しているのだあれらは(斜に構えた嫌な視点だ)。そういったドロついた面を抜きにしても人の自殺、これを発見した場合、未然に防げる可能性がある場合は極力防ぐための努力をせねばならない、その代表的且つローリスクローコスト&概ね誰にでも実行可能な手段として説得が挙げられる。よって見るからに精神状態がヤバくて場合によっては死にかねん人間に効果の有無はさておき死ぬなと一応でも声を掛けるのは社会常識面でも寧ろしない方が悪というか、あれらは人としての常識的行動とかの立ち位置に置かれている。

理屈の上では理解しているのになんで割り切れないんだろう。こういうとこほんと生きるの下手だよなと思う。でもテンプレートの言葉をかけるのはその空虚さを相手に見抜かれて軽蔑されるなり嫌われるなりの可能性を思うと恐ろしく、かと言って本気で感情的になって縋り乞うのを(お前の縋り乞いは求めて無いな)の表情で曖昧にあしらわれあまつさえスルーされたら不可逆のダメージと自己嫌悪で俺の方が死んでしまう。

記憶を手繰ってみると当時世界一仲の良かった故人に俺の縋り乞いを無視されたのを界に俺は人の希死念慮に縋り乞うのがすごく下手になっている。別に小2の頃に友人のリスカと希死念慮を見た俺の反応を思い返す感じ元来そういったことが下手な部類だったのかもしれないけど、でも高2の頃の俺が旅立ちセット一式と共に樹海へ行った友人をなんとか繋がった電話越しに必死で説得していたのも確かだ。やっぱり昔と比較すると俺は格段に考えすぎるようになっていて脳内はフルで無限のパターンのシュミレーションと議会を繰り広げているのに肉体は硬直して何もできないまま自己嫌悪が累積され続ける。いつか累積が臨界点を超えたらどうなるんだ(おそらく俺の番)。ぐつぐつと煮詰まり続けて粘性を高めてゆく沼の感触があって、それを丁寧に腑分けするともうこれ以上人死にで精神的ダメージを負いたく無いの利己心が心臓部だった(もう何も見たく無い)(やんなる)(これ以上人が死ぬなら俺が一番最初に死んどこかな)。

煮詰まった精神に突如として生じた凪がいつまで続いてくれるのかはわからない。ただ後悔が全て後払いな点に目を瞑れば無関心に薄情に無感動であり続けられるのはほんとうに楽で、ここまで精神的リソースの支出が無い穏やかな日々を過ごすのはだいぶ不思議な感覚だ。穏やかな日差しの浜辺で未来方向の遠景に見える後悔の津波をぼんやり眺めながら溺れ死ぬかもしれないなあと危機感の欠けた感想を抱いた。

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