アパート
0-9
僕はアパートに住んでいる。ボロい2階建て全6室の小さなアパートで、2階は4室、1階は2室で1階の101号室には大家さんが住んでいる。一階には大家さんが住んでいるからあまりうるさくすると追い出されるからと僕が癇癪なんかを起こして地団駄を踏んだ時にわりかしお母さんは本気で俺を殴る。僕はそのうちこの家では絶対にうるさい音を出してはいけないということ、スーパーのものであれば駄々をこねればわりかし融通がきくということ、休日のお父さんの睡眠を絶対に邪魔してはいけないということ、お母さんの料理は嘘でも美味しいと言った方が好きなおかずが出やすく、おせじでもお母さんを美人だと褒めるとお母さんは機嫌が良くなるということ、その他様々なルールと法則性を理解していった。小学校に上がる頃になって僕と同い年くらいの子供が僕よりおもちゃを買ってもらったり休日に家族で遠出をしたり、そもそも一軒家に住んでいるかマンションに住んでいるかで僕の家はだいぶ貧乏だということに気が付いたが、特に現状に満足していた。僕の部屋は202号室で、一つ飛ばして204号室には2つ年上のお兄ちゃんが住んでいて僕は保育園に通っていなかったので小学校に上がる前はよくこのお兄ちゃんと近所の神社とかで遊んだり、お兄ちゃんの部屋に遊びに行ったりしていた。お兄ちゃんの家は僕の家とそんなには変わらないけれど角部屋で日当たりが良く、僕はそれが少し羨ましかった。僕たちの住んでいるアパートは2部屋の間取りで、いつ遊びに行っても奥の部屋にはいつもお兄ちゃんのお父さんがいて、奥の部屋には決して入ってはいけなくて、あまりうるさくするとお兄ちゃんのお父さんはわりかし容赦無く怒鳴ったり殴ったりするけど機嫌がいい時は駄菓子屋さんに行くお金をくれたりした。お兄ちゃんのお母さんは僕のお母さんよりだいぶ若くて家にいないことが多かったけどたまに夜遅くまでお兄ちゃんの家にいた時は夕飯なんかを作ってくれたりして、僕はうちのお母さんよりも優しくて若くて綺麗なお兄ちゃんのお母さんがだいぶ羨ましかったけど僕のお母さんは若くなくて美人でもないしよく怒るけどパートで疲れてることとか自分の服よりも僕の靴とかを優先して買ってくれてること、夕飯の唐揚げはいつも僕の方が多いことをちゃんとわかっていたからそういうことを考えるのは罪悪感があって決して口にしたことはなかった。は小学校に上がる頃には学校の友達と遊ぶことの方が多くなってだんだんお兄ちゃんとは遊ばなくなった。ある時お兄ちゃんの部屋に遊びに行ったらお兄ちゃんはいなくて、どうもいつの間にか引っ越していたらしかった。やがて僕が小学校の4年生に上がる頃にお父さんとお母さんは離婚して、僕とお母さんはこのアパートを引っ越すことになった。
9-18
お母さんはお父さんと離婚して増して貧乏になったので次に引っ越した先もやっぱりボロいアパートだった。僕は初めての引っ越しに少し期待していたので引っ越し先についた時は一瞬がっかりはしたもののまあ、こんなもんだよねという腑に落ちた感触が余韻として大きかった。アパートは2部屋から1部屋になって、今度は2階建アパートの1階の102号室に住むことになった。隣の部屋には大家さんが住んでいて、お母さんは大家さんと顔合わせる機会多いかもね、と気まずがっていたけどこのアパートに越してきてから一回も大家さんを見ることはなかった。小学校の頃はあまりピンとこなかった貧乏ということが中学に上がる頃からだんだんと解像度を増していって、お母さんがなんでいつもしんどそうなのかがなんとなく理解できるようになった。貧乏はしんどいのだ。高校に上がって俺は週6でバイトを入れるようになったけどそのお金をお母さんに渡すほど殊勝な息子ではなかったのでカラオケに使ったり欲しい漫画を買ったりしていたが、やっぱり多少の罪悪感はあったので服や靴なんかは自分で買っていて、床屋や病院なんかも勝手に自分で行っていた。じ早く高校を卒業して一人暮らしをしたいと思い続けるだけの高校3年間が終わり、あまり偏差値は高く無い国立の大学に合格し、さしたる感慨も無く俺は家を出た。
18-27
一応高校3年目からのバイト代はなるべく貯金しておいたけれど結局その辺りで家賃がわりかし底値の築年数の行った2階建アパートの2階に入居することになった。7畳一部屋で3点ユニットだが自室がなかった頃を考えれば全然良い環境で、近所のゴミ捨て場に粗大ゴミ回収されないまま放置さてたボロい机とか家具一式を拾ってきたりして念願の一人暮らしが始まった。大学の4年間もバイトばかりしていて留年こそしなかったものの特に仲のいい友達とか、彼女ができた訳でも無いし何かサークルに入った訳でも無く気がついたら4年が経過していて俺は大学を卒業し、そのままなんと無く無気力に鬱病になって就職はせずフリーター生活が続いた。働いていたバイト先で6年目にバイトリーダーになり、7年目にバイトの部下の女子大生を妊娠させてそのままバイトを辞め、ほとんどの荷物と家具をゴミ捨て場に放置して夜逃げみたいにひっそりと引っ越した。
27-36
急な引っ越しだったので引っ越した先はだいぶボロいアパートだった。2階建のアパートの2階の204号室で、角部屋だったので日当たりが良いのが嬉しかった。入居して半年目に珍しく玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けたら例の女子大生が立っていた。俺は誰にも引っ越しを伝えていなかったはずなのになぜここがわかったのか不思議だったが、それ以上に不思議だったのはこいつが子供を堕ろしていなかったことだ。彼女を孕ませた時の俺が妙に冷静だったのは俺は貯金も職も無くて責任とは程遠い存在だったし俺と彼女は特に付き合っていた訳でも無く彼女も学生なので絶対に堕ろすだろうという確信があったからだ。なのに彼女は臨月だった。もう堕ろせない時期だった。大学は辞めたらしく、そのまま俺の家に居座ってほどなくして子供が生まれた。そのまま彼女は働きはじめ、俺は彼女のヒモになった。この頃の俺はずっと酒を飲んでいたのであまり記憶は無いが、半分ネグレトの環境で育ったせいか子供はわりかし静かで手がかからなかったように思う。友達がいないのか同じアパートの年下の子供とよく遊んでいてその年下の子供はよく騒ぐので俺は何度かその子供を殴ったように思う。やがて8年目に彼女は息子を連れて突然蒸発した。夏の日で、荷物もそのままで友達の家なんかに泊まりに行ってるのかと思ったけれど結局帰ってこなかった。8年とちょっと一緒に暮らした割に俺はあの女のことがいまいちよくわからないままで、そもそもなんで堕ろさなかったのか、俺のことが好きだったのだろうか。の割にはあまり喋らなかった。淡々と働きに出て淡々と金を渡してくるだけで俺が酒を飲んで一日中寝てても特に何も言わなかったし息子と同じくらい静かな女だった。俺は正直息子なんていない方がいいと思ってたので彼女が息子と一緒に消えてくれたことは結構感謝していて、彼女の気が変わってまた俺の所へ戻ってくる前に俺は別の場所に引っ越すことにした。
36-45
引っ越した先は前の家とそう大差ないボロいアパートの2階で、203号室だった。両隣に子連れが住んでいるらしい。こんなボロくて狭いアパートなのに家族連れが入居するもんなのか。9年ぶりに私は働き始めて、毎日工場でねじを閉め続けた。毎日工場と家を往復して1日12時間ねじを締め続けているとだんだん時間の感覚とか何かがおかしくなってきてもう精神科には何年も通っていないけれど多分俺は未だに鬱なんだろう。そのうち髪も切らなくなって風呂にも入らなくなったので工場で私に話しかけるやつはいなかった。ねじをしめつづけて、あたまのねじが外れ続けてる。時間の感覚がおかしくなっていたのでいつの間にか私は45歳になっていた。9年間ループし続けるみたいに変化の無い生活を送っていて、じんわり腐敗していくみたいに意識がぼやけ続けて機械的に繰り返した同じ動きだけが体に染み付いていた。その日はたまたま休みの日だった。夏日で、ベランダは日差しが強過ぎたので日陰のアパートの共用廊下に出て柵にもたれてぼんやり酒を飲んでいた。空が青く、入道雲が白くテンプレみたいな夏日で、近所に木々の多い神社があるせいか、蝉時雨がうるさかった。階段を登る音が妙に軽くて振り返ると小学生の男の子がいた。多分両隣に住む子連れのどちらかで、私を通り越そうとして廊下が狭いのと私が太っているので通り越せず、まごまごしてるので多分204号室の方の子供だろう。その時なんと無く私はいわゆる小児性愛者だったことを思い出した。幼い男の子が好きで、そういったことを誰にも言わずに今まで生きてきたことを思い出した。私はその少年に声をかけようと思った。近所の子供と遊んであげるのは普通のことだし、うまくいけば体を少しばかり触らせてくれるかもしれない。「きみ、ここのアパートの子だろう。おじさんが遊んであげるよ」と声をかけた。少年はこっちをじっと見て無言で首を横に振った。私は少しイラっとして「黙ってるんじゃわかんないよ、おじさんと遊ぶのか遊ばないのか、はっきりしろよ」と言った。子供は少しの間をもっておずおずと、怪しい人と喋っちゃいけないから。と答えて、失言に気が付いた。知らない人、と言おうとして本音が出たのだろう。「きみはおじさんが、怪しい人に見えるの?」と口調を荒げるとその瞬間少年は防犯ブザーを引いた。けたたましい音が鳴り、私は慌てて少年の腕を掴んで防犯ブザーを奪い取った。ブザーの止め方がわからず、私はブザーを2度3度コンクリートに叩きつけて4度目にブザーは割れて壊れた。少年はガタガタと震えて助けて、殺されると大声をあげた。なんてガキだ、声なんてかけるんじゃなかった。静かに、静かにしてと子供の口を塞いでいると足を滑らせ、私は階段から転落した。痛い、でも無事だ。どうやら子供がクッションになって助かったらしい。起き上がると子供は頭を打ち付けて首がねじ曲がっていた。掴んだままの腕は折れてだらんとしていて、素人目に見ても死んでいるか、かろうじて息があっても助からないだろうということがわかった。やってしまった。でも階段からの転落事故ということにすれば言い逃れができるだろうと思った。その前に壊れたブザーを回収しなくては。階段を登る途中でちょうど玄関の扉を開けた子供の母親が見えた。私は「大変です、あなたのお子さんが階段から落ちました。」と階段を指差した。母親は階段の下を覗き込んで子供の死体を見た瞬間悲鳴をあげ、人殺し、と叫んだ。どういうことだ。母親はもう一度人殺し、と叫んで携帯電話を取り出した。私は慌てて母親の足を掴むと母親は後ろに倒れ、頭をひどく打ち付けて動かなくなった。私は母親が気絶していることを確認し、ゆっくりと首の骨を折って階段から突き落としてようやく自分の服にトマトみたいに潰れた子供の血がべったりとついていることに気が付いた。だからバレたのか、ぬかった。ともあれ事故死に見えるだろうかと階段下を覗き込む。その時、一階のドアが開いて私は初めて大家の姿を見た。大家は50代くらいの男で、さておき私はまだ服を着替えていなくて、白いTシャツは血まみれだった。仮に大家を殺してしまえば事故死にはできないだろう。どこか遠くの山に埋めるしか、と身構えた瞬間大家は死んだ母親の足を掴んだ。そしてゆっくり部屋の中に引きずり入れると今度は子供の足を掴んで扉の奥に引きずり込んだ。子供の頭がゴリゴリとコンクリートに擦れ、皮膚がザリザリと削れて大根おろしのように赤い跡が引かれた。ごん、ごんと段差を越える音がして2つの死体は殺人現場から消え去った。大家は大きなモップとバケツを持って部屋から現れた。それからコンクリートの上をモップで擦り、ほどなくして血の跡は目立たなくなった。
大家は部屋に引っ込んだ。夏日の日差しの中でモップの跡もすぐに蒸発してしまってわずかな血のシミは汚れたコンクリートによくなじんだ。わたしは唖然としながら部屋にもどり、服を脱いで久しぶりにシャワーを浴びた。べとべとした血はすぐに流れ、ほんとうに久しぶりにさっぱりと清潔になった。服は洗濯してもシミが残ったので捨てることにした。
45-
一息ついて私はあの大家を思い出し、心底ぞっとした。あの大家が私のすぐ真下に住んでいると思うと気持ちが悪かった。私は引っ越すことを決意して、ほどなくして新居を契約した。私はこの9年間あまり金を使わないまま稼ぎを貯金し続けていたのでそこそこの金があって、次に引っ越す先は築年数はあるが少し良いマンションだった。駅も都心に近く、住宅ばかりの片田舎のこの街よりだいぶ栄えているようで、私は年柄もなくわくわくしていた。引っ越しの日に引っ越し会社の作業員がトラックに荷物を詰めているのに立ち会っている時に、あの大家が部屋を出るのが見えた、その時、大家が鍵を締めなかったのを見た時私は妙な好奇心が湧いて、大家が部屋に引きずり込んだ死体、まだあるんだろうかという考えが脳内によぎった。あの死体を見てみたいと思った。俺は静かに大家の住む101号室の部屋のドアを開いた。中は薄暗く、埃っぽく、物が雑多に置かれていてなんだかゴミ屋敷のような雰囲気があった。部屋をざっと見回しても死体らしきものは見当たらなかったが、積み上がった衣類の下や流しの下の戸棚など死体が隠れそうな場所はいくつもあった。俺はどこに何があったかを確認しながら注意深く荷物をどかし、死体がありそうな場所を詮索した。大家が戻ってくる前に少し探すつもりで気がついたら夜になっていた。薄暗い部屋は夜も昼もあまり変化が無いように思えた。その日はとうとう大家は帰って来なくて、私は大家の部屋を徹夜で探し回ったけれどとうとう死体は出てこなかった。私は死体探しを諦めて大家の部屋を出て新居へ向かおうとして新居の場所が思い出せないことに気がついた。そもそもどの街だったのかすらも思い出せず、引っ越し業者に電話をしようと思ったが携帯電話を持っていなかった。自分の住んでいた203号室の扉を開けると中の荷物は全て運び出された後のがらんどうで、何一つ残っていなかった。やがて夜になり、私は大家の部屋に戻った。大家はまだ帰っていないらしく、鍵は開きっぱなしで私は大家の家のものを食べて大家の布団で眠った。それから何日も何年経っても大家は帰って来ず、私はずっとこのアパートで大家の代わりに大家の部屋で暮らし、大家の代わりにアパートの住民から家賃を受け取り、いつの間にか大家になっていた。
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