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床・ヒヤヤカ

しらす、違う師走、ださいタイプミスで笑かされているけれど20秒以内に憂鬱に(暗澹)沈むことを脳の端っこが冷静めに予測している。面白く無い性格だと思う。

師走、寒さのせいかシンプルに脳が死にたさで満たされており、書く文章もどこか遺書めいて来る。このブログ?(なのかな)一纏めになった文章群もやんわりと死へ向かう生の残留のような遺書的要素があるので俺が死ぬ前にこのアカウントを消すか、大方の記事を削除しつつ幾つかの死に程に対する説明材料を残すのかを選択するワンステップが生じるはずだ。死へ向かう説明は無尽蔵に思い当たるのだがそれらを一纏めにしたことは今までに無かった気がする。別にそういうのは死ぬ前段に遺書なりでやればいいのだし、差し当たって死ぬ予定が無い内は気がつかない方が懸命な事実なのだし。

思うのは世の中に広く用意されている自死を抑制する説得の理屈は人生の大半を社会に適合して生きて来た人間が不幸な何かしらの不運によって一時的に希死念慮に囚われている場合を前提としたものが多いのような気がする。俺自身もそういう人間の自死は悪手だと思っていて、突然の毎秒刻みつけられるような希死念慮や精神の息苦しさ、五感の暴力性や意識の重さ鈍さ無気力虚脱頭痛吐き気胃痛目眩悪寒幻聴幻覚焦燥ずきずきと明滅する眼球裏の痛み膨大な恐怖と絶望諸々に困惑するかもしれないが概ねの場合それらは一過性であり永続するものでは無い。適切な治療と経年によって緩和されるものが大半だ。俺の場合は産まれつきの脳の作りが社会に絶望的に適合できていないことを適切な知能検査によって証明されており、人生を思い返す限り事実適合できていない。ので前提の違った説得をなされても反応に困るというか、いちいち訂正し続けるのも億劫で、そもそも鬱人間の理屈にまともに聞く耳を持つ人間はそう多く無い。(鬱がそう思わせているのよ)の生温い視線、生緩い認識の断絶。

不定型発達に関してはカウンセリングに準ずる社会での適合できなさを矯正するそれなにが存在するのだが、生来のポテンシャルの低さは変えようが無く劇的な変化が期待できるというほどでも無いので服薬とカウンセリングに頼った上でも息苦しさは死ぬまで晴れないのだろうと思う(メンクリ関連はとにかく費用がかかるので社会を比較的まともに生き続けるのにそれなりの追加費用がかかり続けるのは純粋にモチベ削がれる)。なんというか別に不定形発達に限った話ではないというか、小学校低学年が終わるあたりから何となく自覚のあった息苦しさが中高で表面化して現状に至るまで生きづらくて人生の大半に憂鬱とやんわりとした将来への絶望が伴ってたみたいな人一定数居る気がする。そういう人間の自死を抑制する理屈をあまり見かけない気がするのはやっぱ元から社会に適合できてない人間は死んだ方が相対的に幸福のような残酷な結論があるんだろか。そんなことない。

あとは一般論とかではなく個人的な感覚の話になるのだけれどなんというか歳を追うごとに重くなるのような、挙動や思考が年々鈍くなるのような感覚があって、多分成長に伴う質量の肥大とか人とか社会との繋がりとか、社会的責任とかでもなくて、これは記憶の堆積の重さなのだと思う。または事実の堆積、それらと整合性を持って、持たなければならない、によって成り立つ現状の俺個人の人格。少し前の話になるのだが俺は何かの折で「善行を積むことによって悪行は全体の中で相対的に目立たなくなるだけで、無かったことになるわけでも減るわけでも無く確かに存在し続ける」のようなことを言ったのだ。(腑に落ちてしまった)と奇妙な絶望を覚えた記憶がある。確かに現状の俺と80代のご老人を並べた場合、そのご老人がどのような人格者であるにせよ人生で行った悪行の総量は俺の方が少ないはずで、別にプールに毒を一滴垂らすのとペットボトル水500mlに垂らすのとでは違うのも前提条件の差もちゃんと理解していて俺はご老人(人格者)に対して圧倒的に悪人なのだが、つまり、俺がこれから先に生き続けることで俺の犯した罪の総量は増え続け、それらが減ることや無くなることは決して無い。これは俺の終わりたさの核にだいぶ近い感情だなと思う。

総括的に物事を見ることが下手な自覚はもうずっとあって他の人が行うように(生きていく中で確実に生じる)過去の悪行を相対的に打ち消すことができない。忘れること、風化させて事実記憶のみに簡略化すること、そこに伴う感情が自己否定に繋がらない、そういうことがほんとうに下手だからこんなに自己愛と自己嫌悪が1つの脳に強く共存しているのだろうか。愛すべき面は愛し、嫌悪すべき面は嫌悪し、それらが総括的に評価されることはないのは自己防衛だったのかもしれない。総括的に評価したら俺の小汚さが可視化されてしまう。どのみちしんどいことには変わりなかったが。

おそらく俺は多分自分のことをもっと幼くて小さくて無垢で無邪気な何かだと思っている。俺が幼い頃から引きずっている空想の世界観にそぐう存在。だから目を開く度に嘘だと思ってしまって鏡を前にしていることを理解するまでの一瞬のラグの間に他人行儀な苦手意識を目の前の人物に抱いてしまう。俺は俺の肉体もそれを包む人生も全部好きでは無かったらしい。尾てい骨から尻尾が伸びて肩甲骨が翼に進化するのような(滑らかで均質な有機体)、そういった理想の全てからかけ離れた現実をやんわり嫌悪し続けること。好きなものしか視界に入れたくなくて好きでないものを視界に置き続けるのは疲労感を伴う。好きではないものが人生の記憶が年々脳中に堆積し続ける。俺は嫌いなものが本当に多すぎて他者が基本全部嫌いで、俺の毒な要素感情が俺の中にあることを思い出させるから嫌っている。自己嫌悪が煮詰まると他者嫌悪に向かうらしい。毒を抜こうと死ぬまで水のような感性を飲んでいる。ほんとうにたすけてという気持ちでいっぱいで俺が埋没させた嫌な感情たちががぶわりと芽吹いてそれを嫌悪する感性では生きてゆけないので価値観そのものを一時的に切り替え。戻せないたすけてたすけて殺してください。もうこれ以上この脳を使いたくないです。

鬱人間の妄言みたいだけれど脳のニューロンから伸びるシナプス、それらを繋ぐ伝送路の軸索、この軸索は使われれば使われるほどミエリンが巻きつき神経回路はより太く、電気信号の伝達はより早くなる、のような物理的な作用は存在するらしい。俺の脳内で何度も繰り返された嫌な感情は俺の脳をより嫌な方へ、太く肥大した神経回路を手術で切断してもらえないだろうか。俺の人生に基づいて編まれた脳の神経網は認識の転換や思考術の類では対処の仕様がないくらいに物理的にどうにもならなくて、そういえば俺は脳のどうにもなんなさを人一倍体験している人間だった。もうこの脳を使いたくない感情が死を慢性的に切望し始めたことを理解しながら抗わないのは例えばギターを買ったとして、Fコードがなかなか押さえられないとして(何もかも憂鬱な夜に/中村文則)、問題なのはFコードが押さえられないことではなくその努力をしたいほどギターを弾きたくないということ、あんま生きたくないこと、嫌いな要素に対して好きな要素が少なすぎること、その全部といいう感じ。

夢から覚めて現実を認識して雪崩れる泥のような疲労感が重く、ずっと寝転がっている。床は冷ややかに。視線の先に広がるベランダ、空。なんだろう、死んだ先の魂だけになった俺が肉を纏わないせいかやたら身軽に振る舞うのを羨ましげに眺めていた。別に単なる理想であって肉が終われば魂も拡散するのだが、妙な希望のワクワクが死後の方角へ延びている。

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