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アルミホイルを頭に巻いて自分は正気だと信じきっているみたいな主観的判断

LSDとか、マジックマッシュルームだとかのヒッピー文化に絡んでくるサイケ系薬物の体験レビューとかにあるアカシックレコードに触れる感覚とか、世界の真理を理解する感覚。悟る感覚。どんなもんなんだろうか。俺が鬱(統合失調ぽさとかもあるのかもしれない)が限界ギリギリに煮詰まった瞬間に訪れる世界が誕生してからの座標の移動は全て素粒子単位で記録され続け、時間は本来存在せず素粒子が任意の地点に置かれることで過去は瞬時に再現でき、我々の意識=魂だけがフィルムのコマ間を移動し続け、世界は波動という本来の言語を持ち、いつか全ての生命がアカシックレコードに還元されるというこの世の真理を完璧に理解したと錯覚するあの感覚と近しいのだろうか。友人は何度かタコになったせいかブロンをODした時に自分の視界に流れるイメージを1時間か2時間くらい天井とかを眺めながら身振り混じりで解説し続けていて、ブロンODでそうはならなくないかと思っていたらのちにタコになって以来感覚が変わったみたいな話をしていたけど、いやもともとブロンが効きやすい体質だっただけだったのかもしれない。問題は仮に俺がある一定異常の鬱状態に陥った瞬間のねじ曲がった思考が薬物を摂取した状態と近しいものだとしたら、人に迷惑をかける前に死ななければなと思っただけだ。

俺は意図的に正気を手放そうと、故意に狂人を演じようとすることが度々あるが、その際に浮かんでくる正気を失った俺の思想がどうも想像の一言で済ませるには少々解像度が高すぎる気がする。妙なリアリティを持ってる気がする。俺はなんの苦もなく俺が設定した狂った価値基準と思想に乗っ取った言動を取れる訳なのだがもしかしたらこれは俺の想像ではなくて本当に俺に内在する俺の狂気なのかもしれない。

すごく疲れて脳の判断力が大幅に鈍った時に感じる、俺が社会を生きる上で重んじてきた価値基準が倫理道徳がぺらりと剥がれ落ちて本当の正しい世界の仕組みを思い出すようなあの感覚が嫌いだ。悟りというよりかは思い出すに近いその感覚はなんの違和感もなく初めから世界がそうであったと錯覚させる。疲れ切った俺は何度も何度も自分が現状で正しいと認識している感覚の全てを疑い、客観的判断を求めざるえない。完全に狂気に染まってしまえばそんな疑問を抱くこともなくなるのかもしれないが。

18年生きてなんとなく察したことだが世の中の多くの人間は自分なりの世界観を持っていて、それとは別に社会を生きる上での社会一般に普遍的に共有される世界観を身につけている訳では無いらしい。初めから生まれた瞬間から普遍的に共有される世界観をベースに生きているらしい。あとは性格は常に一つらしい。性格というか価値観とか善悪基準をシチュエーションに応じていくつも使い分けることはあまり無いらしい。何それ?って聞かれた時にどうやって説明したんだっけ。なんというか、置かれているコミュニティの価値基準が自分とそぐわず、かといってコミュニティに反すれば自分が放逐され、自分の意思に背き我慢し続ければ精神に異常をきたすシチュエーションにおいて自分のベースとなる性格から大きく外れない程度にそのコミュニティに迎合した性格を作り上げる、捻じ曲げるといった行為なのだが、ある一定条件を満たすとその性格に切り替えるように暗示をかけ、暗示がかかっている瞬間はその性格の価値基準に基づいた判断が自分の本意であると錯覚し続けるため我慢によるストレスは発生せず、プライベートに戻れば自分の本意を思い出すといった具合にこういったものをいくつもレイヤードして使い分けるという手法だ。自分の価値基準を故意にバグらせるみたいな、あとは虚偽の記憶をさも事実かのように語る際にも応用できる。本当にあった出来事だと信じ込むのだ。俺は全人類がこれをやっているものかと思っていたのにどうもだいぶマイノリティだったらしい。

18年目にしてなんとなくだが俺は生まれた時から世間的に言えば狂っていたのかもしれないと納得するに至った。別に世間が狂人に向けるような悲壮感はさして無いし、相変わらず俺が生まれた頃から抱えている価値基準は俺の中で一番正しい事実として処理されている。他者に理解されなくて社会に普遍的に存在している価値観とは異なっていることも理解しているし、それが間違っていると教えようという気も無い。正しいか正しく無いか以前にこの世界はそういうルールで回っているのだ。ゲームをプレイする際はそのゲームのルールに則って行動する。RPGにおいてボスキャラを倒すことが一番正しいとされる行動であり、ボスキャラと戦わずに諭す道を選ぼうとしてもゲームはクリアできない。エンディングも訪れない。村人Aにこの世界は虚構であると訴えたところで村人Aが本当にこの世界が虚構であると理解することはないし、どうせゲームだからと犯罪を犯したりしてゲームオーバーになったところでこのゲームはコンテニューが存在しないのだ。下北沢のカネゴンとアキバの路地裏神社が人生のセーブポイントだなんて噂は聞いたことがない。俺自身はこの世界観を面白いと思っているし良いあらすじを歩みたかったのでそれなりに真面目に世界観とルールに従って生きている。いた。生まれた頃からそんな感覚があって、子供の頃の俺は自分の人生は全部長い夢なのだと思っていた。俺は高次元世界を漂う肉体を持たない上位存在であり、受肉による五感の刺激と体験をを求めて俺の人生というゲームを起動したのだと思っていた。だからより良いエンディングを求めて人生のルート選択をしてきたし、イベントはなるべく回収するように勤めていた。先日、ネットでバズっていたカルト宗教の教義思想が上記の俺の思想まんまだったので、恐る恐るリプライ欄を開いてみたのだが共感の声は一つも無く、その教義は狂気として扱われていたのでやっぱり俺はまともに見えるように演技をし続けるのが一番いいのだろうと少し落胆した。

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(ワンネスへの帰還より)

今の所の俺は俺の本来の思想と社会に生きる上においての思想の妥協点を見つけて、実際に完璧にとまではいかないがうまく社会に迎合できる人格思想価値観を獲得できているて思う。ただ、いつまでこれを保てるのかはわからない。だから昔の俺は認知症と酒を何よりも恐れて絶対に長生きだけはしないと決めていたのだが、鬱によってこんなに早くに崩れるとは思ってもみなかった。そして思っていた以上に正気を放棄するのは楽だった。狂気も所詮は極端なマイノリティに付けられる呼称に過ぎなくて比較対象が見えなくなれば自分の思想価値観が正義なのだから、なんて割り切れたら楽なのだが、俺は幸いな事に世界とか人生がなんやかんやで好きだ。俺の価値観的に言うところのゲームが好きだ。この先のスチルを回収したいし、きっと総合評価はC-だけど今まで集めたアイテムとか、頑張って積み上げた経験値とかもあってそれなりに思い入れがあってこのルートなりのグッドエンディングにたどり着きたいと思っている。だから最悪なゲームオーバーを見るくらいならいっそゲームをシャットダウンしてしまえみたいな、ラスボスを前にセーブしてから二度と起動しなくなるみたいな感覚で希死念慮を拗らせているのだが、それにしても人生をゲームに捉えるのって中二病くさくて嫌だな。もっといい例えがあればいいのに。


おまけ、俺の想像する統失で狂った俺

多分夢を見る、疑似体験をする等の事実と異なる体験を行うことを過剰に恐怖して眠ることを恐れたり現実を猜疑し続けて違和感を探し続けたり常に五感に刺激を与えて感覚が本物か確かめずにはいられなくなるし、記憶が本当に正しいかの確証が持てなくていちいち事実確認しないと身動きが取れなくなる。常に刺激物を口に含むか生傷を一つ作ってそこをほじくり続けるか爆音音楽を聴くなどして五感を試さずにはいられなくなるしその結果味覚が鈍って聴力が落ちるからより強い刺激を求める負のループに入り込むし周りの人間が強制的にやめさせようとすると不安で発狂して暴れ散らす、ぜってえボケらんねえ。


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