見出し画像

青年期の終り

スクリーンショット 2020-08-15 5.42.25

この鬱まみれの陰気な文章は俺の今年の誕生日の日記で、昔からなんとなく若死するだろうと思っていた割にはとうとう18年間も生きてしまいました。俺は漠然と自分は子供のまま死ぬだろうと思い続けていたので昔から将来を夢想することはいつも投げやりで、18歳という節目を迎えたにあたって嫌な現実感を帯びて差し迫る大人という概念に対し曖昧な鈍い反応しか出来ずにいます。

8月4日の俺は躁鬱の波のちょうど鬱に振れていたのでひどく精神を落ち込ませていました。そんな時にSNSにその鬱々しい思想を垂れ流すのが俺の悪癖なのですが、鬱が限界まで煮詰まった瞬間、脳の現実逃避なんでしょうか、思想が凪ぐ瞬間があるんですよね。その一瞬の感情が削ぎ落とされフラットになった脳が俺に対し真っ先に抱いた感想が子供っぽいなあでした。一切の客観を考慮した加工を成さないままの剥き出しの主観に基づいた不幸を見せられるのはスーパーのお菓子コーナーで子供の駄々を見せられるみたいにすごくうんざりするなあ。我ながらひどく辛辣な感想を抱いたわけなのですが、別に俯瞰による自己矛盾の可視化なんてままある話なのでさしたるショックは無く、寧ろ俺はまだ子供なんだろうかみたいな疑問の方が尾を引いてしまいました。

俺は自分のことを子供だと思い続けていたけれど、客観的にはどうなのだろう?18歳は微妙なラインです。ある程度の社会的常識は求められる年齢だけれど、まだ未熟さを盾にすることは許されている気がする。周囲の同年代に至っても似たような感じで自分の権利は主張しつつもどこか甘えていて身勝手な主観を信じ込む。自己矛盾からは目を背ける。または自己矛盾を自虐して見せることでマゾ的な快感を得ている。こういった所作はやはり大人にしては奔放で無責任すぎ、子供にしては我も態度もデカすぎると思うのですが、区分的に言えば青年期なのでしょうか。その青年期の終わりは社会的には一体どのあたりの位置に規定されているのでしょうか。

幼年期の俺はプリセットの感性を社会規範で歪めたく無いだとか資本主義的な価値観で世界を判断したく無いみたいな思想に基づいてずっと精神的な成長を拒み続けていたけれど、結局は周囲がそれを許さなかったように思います。奔放であり続けること、性に対して鈍感であり続けること、普遍的な価値基準を持たないこと、社会で生きていく上ではやはり難しい。俺はこの18年間フィクションで見るようななんらかの経験を通じて精神的成長を成し遂げるみたいな成長の仕方をしたことは一回も無くて、ただ漠然と生きてる内に周囲に求められる人間像が変化したのでその人間像に合わせてモールドに流し込まれる液体のように精神の有り様をくにゃくにゃと変えて行ったにすぎません。成長があったから幼年期を脱したのでは無くて、精神的成長はいつも後付けでした。だから私はいつも不可抗力的に、自らの意思に関わらず成長を続けていたのですが、きっと周囲が許したのなら俺が望んでいたのだから俺の精神はずっとあかちゃんのままであり続けることも可能だったのだろうなと思います。

ところで俺は「不滅のあなたへ」という漫画が好きで、作者は大今良時さん。聲の形で有名ですね。この不滅のあなたへにはマーチという大人になりたがる女の子が登場して、ここから先はネタバレになっちゃうので未読勢は注意なのですがマーチは生贄として子供のまま死ぬことを義務付けられます。

画像2

画像3

早く大人になりたがるマーチにマーチの父親言う大人しくできないと大人にはなれないんだぞっていうセリフから生贄として大人になれないまま死ぬことが決定して暴れるマーチに父親が大人しくしろと言いかけて言い淀む相互関係とアイロニーの美しさ、これについて紹介したかったので少し脱線しました。俺はこのマーチが好きで、マーチが大人になれなかったから俺は大人になろうと衝動的に思い立ったのがきっかけなのですが、不可抗力的に自身の変化を左右されるマーチの反抗みたいな感情はベクトルは真逆だけど確かにかつての成長を拒み続けていた俺にも存在していて、おそらく今の俺もその感情を消化しきれずにいる。俺が子供でありつづけることは不可能で、社会とかの外因を抜きにしても俺は子供であり続け、思考放棄と逃避を続けるべきではない。だから不可抗力的に大人になるくらいなら自らの意思で青年期を終わらせたいなと、フィクションみたいに自らの選択に基づいた変化をしたいと思いました。

俺はいつも嫌々変化を続けて来て、だから年々自己嫌悪を募らせてゆく。多分不可抗力的に大人になった俺はまた惰性で人生を進めて行くんだと思います。それは嫌だなあ。回避不可能な現象に対して妥協して、妥協の範疇内で幸せを見つけることは処世としても正しいんじゃ無いだろうか。何より今の俺は周囲を真似て言動こそ年相応に寄せているといえなぜその言動に至らなければならないのかのメカニズムがさっぱり理解できていないのです。なので俺の精神は実年齢よりもずっと幼いままで、いわゆるな大人が持つ責任感みたいな、自身の言動に対する明確な信頼や自身は(それが正しいか正しく無いか知らないけれど)自ら選択して成長した経験によって生じる肯定なんじゃ無いかと思います。多分俺は惰性で成長し続ける限り一生世間的に言われる大人像にはなれない。大人の出来損ないのまま、一生大人扱いに慣れないまま、夢の中の俺は一生中学生とか高校生のままで精神年齢と実年齢のギャップだけが広がり続ける。俺はちゃんと大人になって死にます。

俺の大人像は偏っているので大人、信ずるべき主観を持ちそれに準じた言動を取る、他者をパターン化しコミュニケーションへコストを減らす、目下の者に対する自己顕示欲を否定しない、知識を美徳とする、打算的な隣人愛を持つ、科学文明を肯定し非科学を否定する、資本主義的思想を持つなどなどの偏見に満ち満ちた大人像を抱きつつ自我との妥協点を探っています。大人になろうと決めて以来俺は多少客観を気にするようになって自己反省も逃避しすぎたり自虐に振れすぎたりすることが気持ち減ったのでなんだか精神が安定したように感じます。18歳まで生きて、18年も生きたのでそれなりに良い事も沢山ありました。多少なりとも不幸ばかりでは無く良いことにもフォーカスできるようになって、拾える幸せも増えたような気がする。生き続けたいとはあまし思わないけれど死ななくても良かったなとは思うようになりました。とてもかつてのドブ鬱希死念慮とは思えない穏やかさです。長生きはするもんだなあ。

そういえば友人の勧めてくれたアーサー・C・クラークの幼年期の終り、まだ読んで無いので今年中には読みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?