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助けてと言い訳、3700文字少々

自分は人を苦手になることはあっても嫌ったり憎んだりはしない部類の人間だと、自分を案外綺麗な人間だと思っていて、その認識を肯定するのは俺が今まで憎んだ人間は親父だけであるという主観的記憶だ。その親父への憎しみも時間経過、はたまたはいつのまに増えた白髪や、別れ際に「これで美味いものを食え」と財布から紙幣を取り出す悲しいような顔、俺はあれが嫌いで、最後まで憎まれ役に徹していて欲しかったのに。等々を踏まえて着実に薄れつつあり、いずれはただの苦手に再分類されるのだろう。けれどもここ最近になって俺が人を憎まないのはどうも憎むほど嫌う前に相手の前から逃げ出してしまうか、憎んだ記憶自体を記憶に埋没させている面もあったらしいと、大きな岩をひっくり返したらうじゃうじゃと這い出る本性、蠢く嫌な感情。俺がそれらを見てしまったのはつい最近人を憎みかかるシチュエーションがあって、それは言い訳の余地無く100%俺が悪いことを理解した上で相手への弁明も謝罪も説明も全てを放棄して逃げ出してしまったからだ。

俺の好感度パラメータの詳細は俺自身もよくわかっていないけれど基本的に俺は人間嫌いの部類なので人間である時点で全員等しく好感度はマイナス。それが-2000なのか-800なのかの程度の違いを一般に言う好きとか普通とか嫌いに当てはめている。どうも過去に心底好きだった故人の思考をトレースするにあたって故人の対人潔癖症も引き継いでしまったらしく、人であれば俺自身も例外なく持ち合わせている利己心、自己顕示欲、自己正当化、主観の盲信、媚び、打算、カマトト、差別意識等々の綺麗ではない感情を見せられるのがだいぶ苦痛なのでほんとに人間社会に向かない性格になってしまった。ただでさえ24時間自己の内面の醜さを見せつけられ続け毎秒自己嫌悪でどうにかなりそうなので俺のより醜い感情を掻き立てうる存在はとりわけ苦手だ。それらの多くは愚痴だとかの些細なもので事前に感情のスイッチを切って俯瞰する分には良いが不意打ちで出されるとその日1日は鬱に沈んでしまう。唯一の救いは俺が他者へ悪意を向けることは自滅に直結するので人に悪意を向けることが稀であるというのみだが、それを差し引いてもメンヘラ気質だとか鬱感情だとかの悪意ではないにせよ明確な害自体は有り余っているので総合評価はいつもマイナスに振り切れる。

じゃあ俺の友人は皆悪意を持たない聖人君子モンスターなのかといえばそんなことはなくて、俺はむしろ俺より圧倒的に心が綺麗な人間(フィクションだと思ってたけれど普通に存在する)の隣に立つと相対評価で自己嫌悪を募らせて破綻してしまう。ので俺の友人は平たくいえば精神疾患患者とか、社会の落伍者の類の自己肯定が底を打っていて、かつて周囲に自身の人格を否定され続けた過去がある人間で、人にどう見られるかとか、正確に言えば他者から自身の悪性を指摘されることを過剰に恐れて病的なまでに自身の言動に倫理道徳性を求めてしまうタイプ。徹底して自分の本心やそれに付随する悪意を見せない人間。常に客観的な善であり続け、俺の前で良い人間の演技を絶対に崩さない人間。またはその奥にある悪意が明確に悪だと認めた上で攻撃性を極力排除しつつある程度崩す人間で、こういう人間は一定確率で希死念慮を拗らせているので死にゆくばかりだ。

主観なのだが悪性の総量が少ない良い人間ほど自分の悪性に鈍感で、それらを無自覚に躊躇なく人に見せるような気がする。悪性を他者に見せて否定された経験が無いからそれを悪と認識していなくて、無邪気に無防備に本心を晒す。そしてそれは圧倒的に正しい在り方だ。欠点の総量を長所の総量が上回れば上回るほど人に好かれる、評価される。社会はそういったシンプルで明快な加減点法の元に成り立っており、俺だけそのマイナス評価の基準がハリー・ポッターを前にしたセブルス・スネイプの如くバグってる。グリフィンドール、マイナス50点。あとはもう本心をを見せないこと、悪意を見せないことは他者へ心を閉ざし続けることとイコールなので無害で無味無臭で印象が皆無の毒にも薬にもならない、すれ違えば挨拶くらいはする程度の関係性しか築けない点に置いて些細な悪意を晒すデメリットよりも他者に意思を開示できるメリットの方が圧倒的に大きいんじゃなかろうか。

ここまで言っておいてなんだが俺は悪性に対して人より神経質な割に社会通念としての倫理道徳観がだいぶ抜けている。俺は客観的に見ればだいぶ悪人寄りで、それは動機のみでしか善悪を判断できないせいかもしれない。たとえ相手が世間一般的に明らかにアウトなことをしていていてもされてもそこに悪意が見ない場合、相手がそれを悪だと認識できていない場合、俺は相手へ嫌悪を抱くことが難しい。逆に本当に些細であっても悪意、または利己心、無自覚で無加工な剥き出しの感情を見た場合は実害の有無に関わらず嫌悪を抱いてしまう。総合評価で見れば圧倒的に後者の方が良い人なのに嫌ってしまうのは俺が悪人側であることの証明のように感じられてしんどい。事実俺は悪人なのでプリセットの善悪基準はだいぶ偏ってる上に躁鬱の波に連動して人に害悪を振りまいている。唯一の救いだった無害さは精神の落ち込みと共にあっさり機能しなくなり、悪意を悪意と認識しながらも抑え込むことができず自己嫌悪でますます精神を追い詰めて崖っぷち。助けてくれ〜。マジで、ほんと、人一倍良い子でありたいのに善人の適正が皆無すぎ。先進国に生まれたから盗まなくて済むとか騙さなくて済むとか攻撃しなくて済むとかそういう類の個人の努力の範疇外の善であり続けられる環境とか、生まれ持った適正。そういったもので俺よりはるかに少ない労力で善の側に立ててる人間に俺の悪性を批判される度にさやかちゃんの濁りで飽和したソウルジェムが視界に浮かんで、俺も理性とか全部捨てて魔女になって大切なものも嫌いなものも今まで触れて来た全てを平等に破壊し尽くした後に誰もいない砂漠かどこかでのんびり暮らしたいよと現実逃避している。

精神を病んでい無いまともな友達を作るにはまず相手をそういうものと妥協する。両者は根本的に価値観が違うし、俺はそいつと関わることでダメージを食らうけれどそれが人づきあいなのだ。俺はそういった友人たちにそれなりに友情を感じていてだいぶ好きだけれどそれはメンヘラ社会不適合の友人たちへの感情とは全くの別物だ。前者には未知の価値観やハイティーンのロールプレイみたいなものを求めていて後者には安寧を求める。要は前者は後者に比べある一定以上の関係性を深めるのが難しい。だから俺は高校の友人に鬱の相談はしなくて、それは無意味さを理解しているのと他人のドブ感情を見せられることのしんどさを身を以て体験したことがあるからであって不信というわけではないのだがいざ口に出すと言い訳めいて感じる。最近はSNSでのふんわりとした見せたい部分だけ接したい時間だけを切り取って接せる逃げのコミュニケーションに心地よく甘やかされ続けていてちゃんと社会に戻れるかな。俺はみんな対する俺の態度が本当に不誠実で身勝手なことを理解はしていて本当に罪悪感が無い。おそらく遥か昔に自罰に耐えかねて開き直ったんだろう。俺はこの無責任さだとかの最悪さを予防線に予事前警告をするだけでそれがどういったものかの判断は個々の想像力に任せる程度には曖昧にしていて、嘘は言っていないけれど騙そうとはしているよねと指摘されたら何も否定できない。みんなは素の俺のドブ感情に耐え切れるほど強く無いでしょ、俺だってみんなとは笑顔で居たいよと逃げの背中を見せる。撃ってください。

すごくすごく長い言い訳になってしまったけれど本来言い訳は簡潔に纏めるべきで、取り繕おうと言葉を重ねれば重ねるほど理屈の綻びが生じて醜くなるから。纏めると要は俺の口から出る友情だとか、そういったものは全部嘘なのだった。少なくとも騙したかったわけでは無いにせよ俺の中の定義に順じて発せられたそれらの言葉は世間的な意味合いと大きく乖離しているのだった。俺は本来はまともに友人なんて作れない人間だったし、だから友人だった人間を身勝手な理由で憎んでしまったのだった。こういったことを文章化して可視化して投稿している時点で俺はもう言い訳の余地なく最低最悪で、悪気があるのなら演技を貫き続けるなり説明と謝罪をして綺麗に縁を切るなりすべきなのに俺は悪者側であり続けて俺自身の自己認識に現実を寄せ続けることでしか救われない。俺は正当性の有無に関わらず人を憎む感情を抱え続けることがしんどすぎて、たとえ相手に1割の非があったとしても10割俺が悪者である方がずっと楽で、自罰なら得意分野だけど他罰はきっと自己矛盾を可視化させてしまう。検証作業は初めから放棄され、脊髄反射で謝ることでそれ以上の思考を贖罪で塗りつぶす。贖罪を強く刻みつけてそれ以外の感情の全てを忘れてしまう。そうやって人を憎んだ記憶を消し続けている。そういうすごく卑怯な人間だったことを今の今までずっと忘れ続けていたのだ。罪に気が付けないことを恐れ続けて歪な人間になってしまった。降り積もった負債を清算する能力がなくて、それらの多くはとっくの昔に手遅れになっているので患部として俺の中に残り続ける。痛さにのたうって上手く人生を歩めない。何年も前からこれはもう軌道修正は不可能でして一度脳を初期化するしかないですねと結論が出ていて、よろしくお願いしますと俺は鈍器を手渡し手術台の上で丸く、丸く、丸く、胎児のように。

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