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『シルクロード旅行記』カザフスタンからローマまで6,000キロを歩く旅#01

日本縦断

小学六年生の時、僕は初めて『旅』をした。
それは名古屋にある実家から東山動物園までの六キロメートルを歩くというものだった。手にはペットボトルのお茶と千円札をにぎり締めて、小雨が降る道を歩き、三時間かけて動物園を目指した。それが人生で初めての旅だった。

その動機は父の影響だった。父が若いころは、四国や東北の古い道を歩き回ったり、オーストラリア大陸を自転車で半周するような旅人だった。僕はそんな当時の旅話を聞くのが好きだった。いつもワクワクしながら『自分もいつか』と思い続けていたのだ。六キロメートルの旅もまた、父の経験した旅への憧れが、胸にあったのかもしれない。

しばらくして大学生になった僕は、二度目の歩き旅に出た。名古屋から東京駅まで東海道五十三次に沿って三六〇キロを歩く旅だった。リュックサックにダウンシュラフを詰めこみ、「これなら壊れないだろう」と適当に買ったぶかぶかな登山靴を履き、三週間をかけて東京駅まで歩いた。

その年の冬には東京から青森へ、翌年の夏には函館から北海道最北端の宗谷岬へ。そして大学三年になると、せっかく名古屋から北海道まで行ったからという理由で、今度は鹿児島の最南端まで歩いた。滋賀の石榑峠を越え、京都、大阪、神戸、岡山、広島、山口、福岡、そして鹿児島と、日本中の街を渡り歩いた。大学の夏休みや冬休みを活かしながら、気がつけば徒歩で日本を縦断していた。

東京から青森を目指して歩いた当時の写真。アスファルトを踏み続ける毎日。

日本縦断を終えて

縦断を終えた後、三月に入って就職活動を始めた。ボサボサの髪を切って髭を剃り、ノリのきいたスーツを着て企業を回った。

ところが面接を受けていると「将来どうなっていたいのか」だとか「どんな社会人になりたいのか」なんて質問をされるから、僕は困惑することになった。うーん、そう言われてもなあ、といったところなのだ。社会人になるという覚悟も実感も、当時の僕にはまるで無かったのだ。

そんなふうに就職活動を続けるうちに、大学を休学して海外を歩こうという気持ちが芽生えた。なにも急いで就職する必要もない。せっかく日本を歩いたのだし、次は世界を舞台に歩いてみるか、と思ったのだ。

僕は大学のパソコン室にこもり、世界中の『道』を探し始めた。日本に東海道五十三次や中山道があるのと同じように、世界にもまたさまざまな道があった。
 たとえばアメリカを横断する道路ルート66、スペインのサンティアゴ巡礼路、ニュージーランドを代表するロングトレイル、テアラ・ロア、そして長安からイタリアのローマを結ぶ歴史的な交易路、シルクロード。どの道も僕の心をくすぐるものばかりだった。日本では味わえないような壮大な風景や、耳にしたことのない文化が広がっていた。

世界中の道を探してみる。

特に魅了されたのは、中国の長安からイタリアのローマまでを結ぶ『シルクロード』だった。

シルクロードを歩いてローマへ行くには

シルクロードの魅力は、アジア・中東・ヨーロッパの三つの文明を一度に巡れることだった。これほどの多様性が詰まった異文化を歩けるのなら、きっと退屈なものにはならないだろうと確信した。その壮大な旅路に、僕の心はすっかり引き込まれていった。この道を歩こうと決意すると、すぐにルートを調べていった。

シルクロードというのは、大阪から東京を結ぶ国道一号線のように、明確な道が地図に書かれているわけじゃない。実際には無数の経路と道で作られている。大雑把に言えば、中国からローマへ経由する道ならそれはシルクロードと呼べる。だからローマまで歩くには、ビザや物価、治安や気候などさまざまな観点から調べて、自分で模索して道を作る必要があった。

調べてみると、中国からローマまでおよそ一二〇〇〇キロある。一ヶ月に千キロ歩いても丸一年がかかるから、来年四月に復学しようと思ったら間に合わない。また中国やロシア、イランやウズベキスタンなどの一部の国は、政治的あるいは行政上の理由で歩いて旅ができないことがわかった。

僕が見出したルートは、カザフスタンのアルマトイという都市から出発して、カスピ海経由でローマを目指す道だった。中央アジアを横断し、行政上の理由で歩き旅ができないウズベキスタンは列車とバスで移動する。そうして中央アジアを横断したら、船でカスピ海を渡ってアゼルバイジャンまで出る。そこから先は陸路でローマまで歩けるルートだ。

カザフスタン、キルギススタン、ウズベキスタン、アゼルバイジャン、ジョージア、トルコ、ブルガリア、セルビア、クロアチア、スロヴェニア、そしてイタリアのローマ。総距離六〇〇〇キロに及ぶこの道が、僕が見つけた『シルクロード』だった。

それから三ヶ月間、必死になって資金を稼いだ。朝から夕方までパン屋、夜はイタリアンバルともつ鍋屋で働き、深夜は錦のバーで朝まで働いた。仕事のない日には登山用のリュックやテント道具を揃え、シルクロードへの準備を着実に進めていった。寝る間も惜しんで働き続けたおかげで、六月までになんとか八〇万を用意することができた。

荷物はほとんどモンベル。

最後の給料日が入った翌朝、僕は荷物を詰め込んだザックを背負って、セントレア国際空港からカザフスタンのアルマトイへ向けて飛び立った。

中部国際空港から。ローマへ向けて行ってきます!

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