【唐傘】考察

まだ1回目しか観てない時点での考察!
今度改めて2回目観た後ちゃんとした記事として書くよ、今回の記事は自分の思考をまとめるための散文!

映画観てから2日、色んな人の考察とかEDの歌詞とか観て頭の中の片づけにようやく着手できるようになったので。

【唐傘】でちょいちょい言及される「私はかわいた」とか「かわいてはいけない」みたいなの、なんの比喩表現やろ〜と思ってたんだけどこれ実は結構多面的な意味があるのかな?と思った
「かわいた」ってのも「乾いた(濡れていない)」と「渇いた(≒飢えた)」の二通り考えられるよね

今回のテーマである「唐傘」ってのも本当は「から傘」なのかな?「から」は「涸ら」であり「空」みたいな、中身が空っぽになって乾いてしまったもの

そもそも「から傘」はどういう妖怪かって考えると多分付喪神の類なんだよな、長年大切にされてきたものに魂が宿ったもの、もしくは捨てられたものが恨みで動き出したもの
そう考えるとまさに「大切なものを投げ捨てる行為」が「から傘」を作る行為なんだよな
でも長年繰り返されてきたその行為そのものでは「から傘」は生まれなかった、それはモノノ怪風にいうなら「形はあるけど真も理もない状態」が長いこと続いてたってことなんじゃないかな

じゃあ今回「真」になった北川の井戸への投身がきっかけとして、「理」は何?ってのが1番理解が難しいところなんだよな

仮に「から傘」が「捨てられることで成立する妖怪」だと仮定すると、そもそも傘を捨てる(手放す)ことってそうないじゃん、壊れたとかでない限り
そうすると、今回の「から傘」は「大切にされたもの」か「不要とされて捨てられたもの」かってのも一つ重要なポイントなのかな

「傘」が「不要とされる」、ってのは雨が止んで「乾いた」、もしくは雨に打たれることを厭わなくなるか

大奥に入るにあたって井戸に大切なものを捨てる儀式ってのは、から傘の文脈においては「自分を雨から守るものを不要とする」って行為なんじゃないかな
それが「晴れたから傘はいらない」という「乾いた」ではいけない、なぜなら雨が降った時にまた傘を必要としてしまうから
自分は雨から守られる必要はない、雨の中でも毅然と立っていられるようになる、という強さへの覚悟として傘を捨てる、だとすると、雨の中に立っていればずぶ濡れになるわけで、それは乾いてはないよね

でもいつでも傘なしで突っ走れるかっていうと、どんなに強い人でもメンタル凹む時はあるわけで、そしたら「傘ほしー」って思うわけで。
そうして一度自分から切り捨てたものを「渇」望することが「から傘」の理なのかな?
捨てたものを顧みない限り、から傘は成立しない
今回は北川様が「不出来な友人を、自分の強さのために切り捨てたのに、後からそれを渇望してしまった」ことで理が成立してしまった
なので今回のモノノ怪は「形」と「真」と「理」が微妙に成立時期がズレてるという少し変わった存在なのかも
長年堆積してきた「大奥の女性が切り捨てた未練」が素養?素質?として元からあって、そこに「自分の心の支えを捨てたことに対する後悔(=理)」を抱えた北川様(=真)が飛び込んできた、って感じなのかな

で、「から傘」が付喪神だとして「大切にされたものが魂を得て動き出した説」と「捨てられた恨みで動き出した説」の話に戻るんだけど、じゃあ今回の「から傘」はどっちなのか?って話になった時にアサの「北川様は恨んでいない」が決定打になるのかな
「から傘」は「捨てられたから動き出した」んじゃなくて、「大切にされてきたから魂を得た」んだよ、っていう公式からの「二者択一まで考えた人への回答」だとするとあのシーンには納得がいく

映画で初めて見た時に、形と真の解明タイミングは分かったけど理が何のきっかけで判明したのかわかんなくて、つまり何が理なの!?になってたんだけど、そういや抜刀される直前のシーンが歌山様のアサの回想だった気がするんだよな
だから多分、まさに3人が唐傘に取り込まれる時点で薬売りの思考では「唐傘の理は【大切にされていた】か【捨てられたことへの恨み】の2択」ってとこまで絞られていて、歌山様が「アサが言うには北山は恨んでいない」と思い出したから二者択一の理を正解できた、だからあそこで抜刀できたってことかな
ただ薬売りは視聴者にとって感情移入をさせるキャラではないから、薬売りがその二択を迷ってたことが描写されないためにその思考の痕跡が初見では分からない

映画冒頭では結構(というかずっと?)雨が降ってる描写があるんだよな
それが映画の最後では晴れている
これも「傘が不要なことの理由」を考えると必要な描写だったんだろうな

大奥とは女性たちが立身出世を競う官僚機関で、そこには嫉妬や軋轢、働く女性を冷たく濡らす雨のように試練がしとしとと降り頻っている。
それでも大奥は働き、戦う女性の場所。雨に打たれてへこたれるようでは居られない。だから最初に井戸へ自分の大切なものを捨てる。
弱さへの決別の儀式。
たとえその身に降る雨がどれだけ冷たかろうと、どれだけ激しかろうと、壊れてしまうもの(≒傘)を頼らずに毅然と顔を上げていられる者になる、「大奥の一部になる」というための儀式。

アサはそんな中で才能を見出されて出世していき、カメは落ちこぼれている。それぞれに雨が降る。
カメには麦谷や淡島によっていびられる苦難の雨が、アサには早すぎる出世に対する嫉妬の雨が降る。
アサは嫉妬の雨を気にしない。アサは強いので。
でもカメは弱いので、雨に打たれれば傘(自分を守るもの)が欲しいと当然思う。だから【唐傘】はカメを守るために現れる。だって傘だから。傘は雨が降る限り、誰かに必要とされる。

認められたい、愛されたい、必要とされたい。

それは【唐傘】にも同じことなのかもしれない。
この辺の流れ、ちょっとTV版の「のっぺらぼう」っぽいよね。
そして捨てたいものしかない、と最初に言ったアサにとって、出来損ないのカメはもしかしたら初めて自分を認めて、愛して、必要としてくれた存在なのかもしれない。
なぜならアサにとってはそれまでは捨てたいものしかなかったから。認めてくれた人や必要としてくれた人がどうかはさておいて、「愛してくれた人」───それが親愛であれ友愛であれ───がいたのであれば、それを「捨てたい」なんて思わない。
アサにとって「カメが自分を見てくれていること」がどれだけ心の支えになっていたかは、アサにしか分からない。
ヒモにハマるバリキャリみたいだな、アサ……。

そしてアサは多分、限りなく北山に近い。というか2人が似てるんだろうな。
この2人の運命を分けたのは「井戸に大切なものを捨てたことがあるかどうか」。
北山は捨てたことがある。傘を持った人形。
しかしアサはない。なぜならあの時点では大切なものがなかったから。

虎杖悠仁が「一度殺すと、以後の人生で殺すという選択肢が常に入ってくる」みたいなこと言ってたけど、北山とアサを分けたのは多分これ。
だからもし唐傘顕現の時期でアサがもう一度、井戸に大切なものを捨てろと言われたら、多分アサは最初のように「私には捨てたいものしかない」とは言えなかった。
アサにはカメがいた。
カメがまだアサの隣にいた。
だから井戸に落ちるアサを、カメが引き戻してくれた。
仕事辛すぎて病みそうなバリキャリが猫吸って鬱にならずに済んでるみたいな……。
井戸に落ちるアサは多分北山側に行きかけてて、麦谷様や淡島様、歌山様とは別の形で唐傘に取り込まれかけてたんだろうな。

カメは大切なものを捨てるのは絶対に嫌だし、嫌なものには迎合しない。だから臭い水は捨てるし、自分の意思では井戸に何も捨てない。カメがアサを引き戻してくれた時、アサがカメに対して抱いていた「認められたい、愛されたい、必要とされたい」、カメを大切だと思う気持ちが、一方通行ではないと知ったのかもしれない。愛だね……。

アサにとっての心の支えであるカメは、物ではない。だからずっと手元においておくことは出来ないし、その必要もない。
だってカメもまた、アサのことを大切に思ってくれていると知れたから。だからカメが大奥を離れても、もしかしてもう会うことが出来なくても大丈夫。アサにとっては自分の大切な人が、自分を大切に思ってくれているということを心の支えにできる。
多分、これが本当の心の強さ。依存することではなく、心の中に一つ芯を持つこと。もうアサに「傘」は必要ないし、彼女が「から傘」になることもない。
カメはもしかしたらそこまで強くはなれないかもしれないけど、今はその門出が、傘が必要ない「ハレ」の日だっただけで十分。

ってのがとりあえず現時点での唐傘の解釈!


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