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憎悪の昇華

 「微力であったとしても、憎悪の感情に日々悩まされている方のお役に立てるかもしれない」と思い書きました。しかし飽くまでも私の経験を元に書きます。そして憎悪を昇華させるための結論としては、暇の入る隙ができない程に(合法的範囲内で)行動し続けるということです。

 憎悪の感情、これを話せば人は離れていきます。自分が持つ身がよじれる程の激しい憎悪の感情は、多くの人は経験したことがないためです。経験したことがないということは、つまり想像し難いものであり、恐怖の対象であり、負の感情を抱くものです。人は負の感情を嫌いますから、それを発してくるものから離れることは当然の反応と言えます。

 たとえ話を聞いてもらったとしても共感はされません。話せば話すほど、皮肉にも人は離れていきます。友達だと思っていた人々というものは、いざ自分が困難に直面すれば離れていく脆い関係であったことに気がつきます。友達ではなく、単なる顔見知りであったことに気づきます。彼らへは同時に「なぜわかってくれない」という、疑問と憤怒が混じった感情が沸きあがってきます。

 しかしこれは自分を知るための絶好の機会でもあります。「なぜわかってくれない」という感情を自分に向けてみるのです。つまり「自分は自分のことをわかっているのか」と。私の場合は何もわかっていませんでした。「なぜわかってくれない」という感情を相手に対して勝手に抱くくせして、自分で自分をわかっていませんでした。

 憎悪(憎しみ)からは何も生まれないとはよく言われていますが、確かにそうです。憎悪に呑まれてしまえば、たちまち倫理観は無くなり、他人の肉体的・精神的痛みに対して無関心になり、人間関係は崩壊し、抑鬱および自殺願望に襲われ、果てはその願望が現実となります。しかしその憎悪からもたらされる強い力を昇華させることができれば話は別です。

 憎悪を昇華させることは確かに困難です。憎悪を昇華させるには大変年月の掛かることです。昇華には周囲の援助も大切になります。援助とは理解(あるいは理解しようとする姿勢)であり、忍耐であり、何より愛を与え続けることです。愛を与えるとは、時には敢えて突き放すことであり、敢えて放っておくことであり、敢えて叱ることも含まれるでしょう(好きと愛はまるで別物であると私は考えます。好きは自分第一であり、自分がどうしたら気に入られるかを考えます。愛は相手第一であり、相手の立場になって物事を考える努力をします。そのため好きが憎しみになることはありますが、愛が憎しみにはなり得ません)。

 憎悪を昇華させるにあたって最も重要であり、同時に最も困難なことが「自分を知る」という過程です。自分を知るとは、すなわち自分の弱い部分、醜悪な部分を直視し、認めるということです。多くの人が自分を知るための段階を避け、目をつむってしまう理由としては、なによりも大切にしてきた自分というものが傷ついてしまうためでしょう。また自分を知るとは、今までに経験したことのない孤独感との闘いでもあります。

 自分を知るとは、まるで傷口に塩を強く塗り込み、さらに上からハンマーで叩き込むようなものです。しかし憎悪を昇華させるためにはやらなければなりません。今までなによりも大切にしてきた自分というものに向かって何度も何度も何度もハンマーを振り下ろし、破壊する覚悟で挑まなければなりません。憎悪とはそれほど強力なものです。

 諦めずにハンマーを振り下ろしているうち、隙間から見えてくるものがあります。それはナルシシズムです。ナルシシズムが増大し、頑丈な殻を作り、その殻の模様こそが、今まで鏡で見ていた自分の姿であったことに気付きます。ナルシシズムを直視するうち、何か不都合なことがあればいつも他人のせいにして被害者ヅラをしていた自分に気づきます。いつも自分本位であったことに気づきます。相手の立場になって物事を考える努力をしていなかった自分に気づきます。

 しかし未だ苦しみは続きます。ここからが本当の闘いとも言えます。その苦しみはおそらく自我崩壊からもたらされるものです。これが自分だと硬く信じ、正当化してきた自分を破壊したわけですから、それはとても苦しみます。「自分は一体何者なのか」「生きている意味はあるのか」「自分の今までの言動は一体なんだったのか」等々、虚無感、抑鬱感、絶望感に襲われます。

 気を緩めると破壊したはずのナルシシズムが芽を出してくるため、意識して自分の感情を記録し、分析し、その都度軌道修正する必要があります。小さい歩幅でも構いません、とにかく前進しなければなりません。その前進するための動機が不純なものであっても、とにかく前進しなければなりません。不純な動機とはつまり憎悪からもたらされる復讐心です。ここでくたばるわけにはいかないという強い感情です。

 これをバネとして、例えば心理に関する本を読み、時には年長者から助言を聴いたり、日々の感情をペンで書きます。その間は職に就いては辞め、人間関係でも何度も失敗し、あてもなく外(県外や国外)へ出ることもあるかもしれません。何かしなければという焦燥感で心が落ち着かないかもしれません。一見は甘美な非合法的活動に進路を変えてしまう衝動に駆られるかもしれません。理想と現実との差に気づき「自分はなんてちっぽけな存在なのか」と心が折れそうになるかもしれません。しかし自分を知るための行動をしているからこそ、理想と現実との差に気づくことができます。この理想と現実との差に気づけることは良い兆候です。ここで諦めてはいけません。確かに動機こそ褒められたものではありませんが、しかし確かに(合法的範囲内で)行動しているのです。

 そんな日々を10年くり返すうち、知識と経験は増えていきます。人間関係も広がり、様々な情報を頭へ入れるうち、非合法な言動は(ごく一部の賢く運の良い人を除いて)どれほど生産性がなく割に合わないことであるかが見えてきます。憎悪からもたらされる強い力を感情のまま使えば身を滅ぼすことになるということが手に取るようにわかってきます。

 拭えない憎悪の感情に屈する必要はありません。克服しようとする必要もありません。克服するには憎悪はあまりにも強敵であります。憎悪からもたらされる強い力を合法的なことへ昇華させれば良いのです。私の場合、とにかく何かしなければと焦燥感を抱いていた時期に出会ったもののひとつが、画像編集ソフトの Adobe Photoshop です。私にとって Adobe Photoshop は頭の中を表現するための最適な手法でした。

 私は「時間が問題を解決する」という言葉を受け入れることができません。しかし「時間が問題を昇華させる」という言葉であれば受け入れることができます。より具体的に言えば「時間とともに得られる知識と経験が問題を昇華させる」という言葉であれば受け入れることができます。なぜなら私の憎悪は消えておらず、しかし日々増えていく知識と経験が憎悪を昇華させているためです。

 おそらく人間が非倫理・非合法な行動をする時とは暇な時であり、合法的な事に没頭する時がないためです。確かに運もあります。周囲の環境にもよります。しかし趣味や没頭できるものがないと言う前に沢山の行動をすることです。100の行動をとり、1つ当たるか当たらないかという気持ちで、とにかく沢山の行動をすることです。

 ひたすら読書をしたり、料理をしたり、格闘技に没頭することも素晴らしいです。喧嘩好きの不良が格闘技に出会って心身ともに鍛えて強くなるという話を見聞きしたことがあるかと思いますが、これも昇華です。世間への憎しみを格闘技で昇華させています。もしその喧嘩好きの不良がリングの上ではなく、路上で行動を起こすならば非合法となってしまいます。またあるバンドは自身の抱える暴力衝動やトラウマを音楽で昇華させています。またある人は非合法な欲求を絵画で昇華させます。

 当たり前のことを書きますが、結局は本人次第です。時代遅れなことを書きますが、最後は根性です。負けたくないという気持ちです。この負けたくないという対象は自分自身です。他人と自分とを比較しては嫉妬する、この時間は人生において最も無駄な時間のひとつです(他人と自分とを比較することで、それが自身の向上心に火をつけるものであれば話は別です)。確かに似たような姿形をしているため比較したくなるかもしれませんが、しかし例えば50m走でチーターに勝てないからといって嫉妬するでしょうか。自分と同じ人間という括りで考えるのではなく、Aさん・Bさん・Cさん、皆それぞれ別の個体であり、Aさんという種、Bさんという種、Cさんという種、というように、自分とは全く異なる生き物であると考える方が楽です。ただ姿形が自分と似ているというだけの話です。自分を知ることができれば、他人と自分とを比較しては嫉妬することも無くなります。

 憎悪を ”克服” することが理想ではありますが、憎悪を ”昇華” させることが現実的であるかと思います。私にとって、覚悟・忍耐・諦観は、生きる上で最も役立つものです。