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判断基準と「正解」

あなたの髪質は?猫っ毛ですか?細いですか?傷みやすいですか?
10年以上前、試しに選んだ美容室に入って受付をすると、カウンセリングですと渡された紙には、質問がたくさん並んでいた。
そんなこと訊かれても……と困惑した。天然パーマではあるが、猫っ毛というのかどうかわからない。細いかどうかも、傷みやすいかどうかも、他の人と比べたことがないからわからないよ!

人はみんな自分の髪質を理解しているものなのだろうか?
そりゃあよっぽど剛毛だとか、量が多いだとか、ひと目でわかるような特徴であれば把握できていたり、親や友人から教えてもらえるのだろうが、傷みやすいかとかって……知っているものなの?

いつもこういう、判断基準がない質問には困ってしまう。自分がどこに当てはまるかわからないからだ。私がこっちだと思っても、他の大多数からは逆なのかもしれない。

つまりは「正解」がどちらかがわからないということだ。常に「正解」を選ばないといけない、そう考えていることが多い気がする。

連日、親の話に帰結してなんだが、母は今思えばこれがダブルスタンダードってやつか……と思うような人であった。
例を挙げれば、晩御飯の用意が始まる頃手伝いをしようと台所の横で待っていれば「見えるところに立っていないで!急かされてるようで落ち着かない!」と怒られ、かといって母が必要だと思った時に私がさっと現れなければ「手伝ってって言われてから手伝ったんじゃ、手伝いにならない!呼ばれる前に来なさい!」と怒られた。
どないやねん。台所に居たらあかんのに、見えへんとこから手伝いが必要か判断できるかいな。

何をしても結局怒られるので、怒られない「正解」は永遠に見つからなかった。今でも見つからない。
帰省した時には、ダイニングの壁の横からそっと様子を伺って、必要そうならさっと駆けつけるか、ずっと台所で雑談にかこつけて居座るかだ。それでも母が何か失敗でもすれば「人の顔色ばっかり窺いすぎ!」とくる。

一事が万事そういう感じだったので、ちょっとしたことでも「正解」はどっちだ、ということがそれこそ私の判断基準になってしまったんだと思う。
だから、その「正解」がわからない問いかけには、立ち尽くしてしまうのだ。正解を教えてほしい。そっちでいいから。

とはいっても別に私なりの価値観がないわけでも意見がないわけでもないので、すべて判断基準が人任せというわけでもない。これが嫌だ、あれが好い、それはダメだしあっちは良い。たくさんありすぎて、好き嫌いが激しいし判断基準が明確だねと言われることもある。

自分でも「正解」を求めてしまうことがどういうことで、求めなくても自分の中にあるものが何なのか、そこのところはまだはっきりしない。
今日は書いたからと言ってはっきりするわけではなかった。仕方がない。そう毎日上手くいくわけはない。

ひとつ思うのは、「感想文」が苦手、という話と通じるが、やはり感情的なことは少々疎いような気がする。
いや、しっかり感情はある方だとは思う。共感性羞恥のようなものもあるし、ニュースを見ていてつらくなってしまうことも多々あるし、震災や災害などの特集は見られない。
カウンセラーさんに感受性が強すぎるのでは?と言われたこともある。

あるけれども、この今私が抱えている気持ちを言葉に当てはめるということが苦手だから、「これは本当にみんなが思っている悲しいと同じなの?」とふと思うこともある。
これが悲しいという感情らしい、だから悲しいと言っておこう、というような、なんというか中二病のような違和感というか。中二病だよそれは恥ずかしい。

子供の頃、何度も母に「嬉しいときはちゃんと嬉しいという顔をしなさい!」と𠮟られたもので、嬉しいと思ってるんだけどなんで怒られてるんだろうと思っていたし、嬉しいという顔って、態度ってどんなの?と、疑問に思っていた。飛び跳ねろっていうこと?

だから友達や周りの人だけでなく、テレビや本の中の登場人物の態度や言動を真似ることを繰り返して、学んでいった。

特に小学校の中学年ごろに出会った『スレイヤーズ』のリナ=インバースは、こんなに好きなこと言って大丈夫なのか!と目から鱗が落ちて、ロールモデルになった。
それまでは、学校に行ってもほとんど喋らなかったから、周りからみたら急にどうしたと思ったかもしれない。そんな付き合いの長い友人はいないから、知らないけど。幼馴染だって覚えてはいまい(何年も連絡取ってないし)。

あのとき、まだ「ライトノベル」という言葉もなかったころにあの作品を手に取ったこと、そしてその作品のキャラクターをロールモデルとして自分で選んで、うまく自分を出す方法を得たことは僥倖だったと思う。
もちろん、同様に他の作品からもたくさん影響を受けた。極道くんだったり、オーフェンだったり。たくさんのゲームからも。
そうやって大人になってきたし、今もそうやって必要ならば真似して生きている。

多分頭でっかちなのだろう。考えはしっかり持っているし考えられる、感じられるけど、それを表現できない。どう表現するのが「正解」かわからないから。私に何を求められているかわからないから。

何を求められているか、か。そう、私が求めている「正解」とは、何を求められているかなんだな。
求められていることに応えることが私の「正解」なんだ。

髪質の質問は、私が何かを求められておらず、客観的に判断が必要な問いかけなのに、その判断基準をもっていないから「正解」が判らなくて困る。
感情については、本来は私の中の何かを伝えられればいいだけのはずなのに、第三者の目や気持ちに配慮しないといけない、表現することが求められている場合、どのように表現すれば「正解」なのかわからない。
そのほかのことで「正解」を求めなくても自分で答えを出せること、出せないことの切り分けについては、今はまだうまくいかない。

なるほど。今日も話があっちこっちしてしまったが、また少しは自分が明確になった気がする。

でも、「正解」なんて無理に持たなくてもいいのにね。無理に言葉にして明確にしすぎる必要もないだろうし。もっと気楽に「わかりません!」で生きていっても問題ない。


☆☆☆
ところで、さっきベッドに腰かけてパソコンをするのにちょうどいいミニサイドテーブルが届いた。
パソコンで何かしたいときに、良い感じで座って作業できる環境が自室になく、それを理由に断念してしまったりしたので、やっぱり環境というのは大事だ。
エレクトーンも蓋を閉めてしまうと、開けるのが面倒で弾かなかったりするし、とっかかりやすい環境があるというのは重要。

配達がこんな雪予報の日になってしまって申し訳なかったけど、快適にパソコンで文字が打てるようになって嬉しい。
でも、土日祝日は更新できないか、軽いなにかをスマホから更新するかかな……

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