見出し画像

承認欲求の向かい側

「作家は総じて自己顕示欲が強い」

十代後半の頃に何かの本で読んだか、誰かから聞いたか、一言一句同じかどうか記憶にはないが、とにかくそのような言説を知った。
文章を書いて公開するという行為は、自分の考えや思いを不特定多数に公開するから、というような意味だった。
知らない物事について反証が特にない場合、比較的簡単にへぇそうなんだと納得してしまいがちなので、まあそうだろうな、と思ったのは覚えている。

私が十代後半の頃はまだ今でいうガラケーの時代だった。
SNSという言葉もなく、個人のホームページが隆盛の頃で、ブログが出始めていたかどうかといった世相だった。
だからまだ、「作家は総じて」のような主語で語られたのだろうと思う。
今なら、「バズりたがっている人は」で語られそうな噺だ。

私は物書きになりたかったので、当時はそうか私も自己顕示欲が強いのか、と思ったがどうにもしっくり来ず、仕舞いには自己顕示欲があんまりなさそうだから物書きには向いてないんだな、とまで考えてしまった。
そのせいで書かなくなったのかというとまたそれは別の話ではあるが。

自己顕示欲は「私目立ちたーーい!」欲という認識でいたのだが、この度ちらっと天下のGoogle先生にお伺いを立てたところ、自分を目立たせたうえで注目されたり認められて褒められたいと思うこと(適当にまとめた)、だそうで、となると、なるほど私に当てはまらないこともない。
前半の「目立たせたい」は結構ご遠慮いたしますという感じではあるが、後半の「認められたい」はあるな、という……

とにかく目立つのは子供のころから苦手で、授業中に名前を呼ばれる(当てられる)ことが大嫌いだった。もちろんそこには「答えを間違えたらどうしよう恥ずかしい」という気持ちもあったのだが、とにかく、名前呼ばないで先生!お願い!!と祈り続けた(無駄な労力)。
日直で名前が黒板に書かれることも非常に憂鬱だったレベルだ。頼むから私に目を向けさせないでほしかった。
とはいえ、それでいてクラスからハブられるようになると傷つくという……私もね、人間なので。仕方ないね。

認められたいという欲求、つまり承認欲求はかなり強かったと思う。
過去形なのは今は大人になって、昨日の記事に書いたように色々なこともあって自己完結できるようになってしまったからで、ほんの数年前までは「認められたい」とずっとそのために頑張っていた自覚がある。仕事も。趣味も。

大学進学で地元を出た後も社会人になっても、どこか心の底に、視界の遠くに、私を無視したりなんだりした昔のクラスメートたちを見返してやりたいという気持ちが常に傍にあった。
もちろん仕事仲間の役に立ちたいという気持ちや、迷惑をかけられないという思いも強くあったが、歯を食いしばり続けた理由の一つとして明確にそれはあった。
それはそれで悪いことではないと今でも思うし、後悔はないけど、「見返したい」が主軸ではないもっと前向きな「認められたい」だったらよかったなと思わなくはない。

もうひとつに、親が全く褒めてくれなかったということが、認めてほしいと渇望してしまう原因だろう。
小学生の時はテストで100点を取ったところで「小学校レベルなんだから当然」、中学時代の模試で学年トップをとっても「あらそう」、その次が19位ぐらいで待ってましたとばかりにお説教、高校で数学のテストで95点をとっても「なんでこの一問だけ間違えたの!?それだからダメなのよ」……挙げ連ねても仕方がないが(私の留飲が下がるだけ……下がってるか?)。
「私は強くなってもらうために打って育てた」と豪語する母で、褒めるなんてとんでもないという感じだった。

それでも悲しいかな、親には認めてほしいという気持ちを捨てきれない。
離れて暮らしているし、私が嬉しかったことや楽しかったことは「よかったね」と一緒に喜んでほしいし、達成したことは「すごいね!」と認めてほしい。……という気持ちが捨てきれず、ああだこうだと話しては求めていた言葉はもらえず、胸の奥に重い何かが凝っていくだけだった。

特に私が好きで好きで仕方がない作曲家さんのコンサートやライブに行くとなれば不機嫌、行きたかったところへ旅行へ行くとなれば不機嫌、私が楽しみにしていればいるほど、大切にしているものであればあるほど、言葉や雰囲気で圧をかけてなんとか水を差そうとしてくる。
ひー、なんという足枷!

それに気が付いてからは、大事にしているものやイベント、好きなこと、何をするか、私にとって大事であれば大事であるほど伝えることを辞めた。
何を律儀に水を差されにいっていたんだろうという話なんだけど、「よし言わない!」と決めてから(何度か失敗は繰り返したけど)、ずいぶん楽になった。

なので私は2年とちょっと前にエレクトーンを買ったことも、練習してYoutubeに公開していることも、親には伝えていない。
今までほかの楽器で参加した演奏動画は、親孝行という大義名分を作り出してURLを教え、見てもらったりしていたが(それは別に貶されなかった)、エレクトーンはまだ駄目だ。まだ私が私だけで大事にする。
後から知ったら立腹されるかもしれないけれど、今までのツケだと思って諦めてもらおう。
楽しいものは楽しいまま楽しむ。親の承認がいるか?要らない。私がそれを楽しい私を認められればそれでいい。

結局のところ、自分で自分を認められるかどうかだったんだな、と今これを書いていて気が付いた。
すごい。とりあえず書いてみようと始めた成果が2日目で出た。

言葉の定義としてというか、概念としては正しくとらえられていないのかもしれないが、やっぱり私は目立ちたくはない。ので、自己顕示欲はあんまりないと思う。
これも目立ちたくて書いているわけではないし、バズりたくて書いているわけではない。Twitterもしかり、Youtubeもしかり。
そもそも正直バズりたいっていう気持ちがあんまりわからない。バズりたくなくない?面倒くさそう。

Youtubeについてはナルシシズムと紙一重なのかもしれないが、私ってこんなに弾けるんだーすっごーい!って自分でしたいだけだし……エレクトーン弾く時間は私にとって代えがたいものだし……
いやもちろん聞いてもらえたり、読んでもらえて、感想やいいねしてもらえたら嬉しいけど。めっちゃくちゃうれしいよ。嬉しくないわけはない。
ただ、主眼というか主目的がそれではない、という話。

まあ、とにかく今の私のように、ずるずるでべこべこの自分をなんとか「私」という形に戻すために、自分に向けて書くしかない人もたくさんいるのだと思う。
もちろん人目に触れるところに書くものだから、読み手は意識せざるを得ないけれども、その読者は明日の自分でもあるし、書かずにはいられない人も場合もある。
私にはわからないと書いてしまったけど、バズりたい人には自分のためにバズりたい理由があるのだろう。やらずにいられないなら、やればいい。やっていこう。

そういうわけで、自分で自分を認めるための承認欲求を満たしていきたいなと思った、そんな午後。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?