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Iseng ajak bapak

舅は、そんなにペラペラと喋る人ではなかったから、会話が記憶に残っているというのはあまりないけど、バリの風俗や、バリ語や宗教行事のことなど、分からないことをよく質問して、色々教えてもらった。時々、堰を切ったように話し出すことがあって、そんなところはうちの夫もそっくりだ。

一番感謝していることがある。それは、二人目の子供を出産した時。

二人目の妊娠中は、早期破水したということもあって、私はとても神経質になっていた。7か月の終わりごろから少量の破水があって、日本だと出産まで寝たきり入院でないといけない、というほどの大事件だったのだが、バリでそんな入院などは無理だし、バリの家族にもその危険な状況だという事を、いまいち分かってもらえないまま、まだ断乳したばかりの上の子の面倒をみつつ、神経が磨り減るような妊娠期間を過ごしていた。
早期破水で、二回入院したのだが、なんとか臨月まで殆ど自宅で寝て過ごして、ようやく、いつ生まれてもいい、という期間に突入。
今度は予定日よりかなり過ぎても出てこないので、最終のエコー診断のあと、医者としては、羊水の濁りも気になるので、促進剤を使って出産を促したほうがいいですよ、という意見。
しかし、何事も「自然派」にこだわる夫は、「自然に陣痛が起こるまで待ちます。薬は使わないで」と私より先に回答。
そして、その最終エコー検診からの帰りの車の中で、陣痛らしきものが始まったのだ。もう家が近かったので、一度家に帰ったが、痛みの間隔も定期的になり、これはとうとう陣痛だ!今からもう一度、医者に連れて行って!となったのだが・・・

夫が、「今日は駄目だ。まだ生まれないと思う。明日まで待て。」と言う。

「は?????」
何を言ってるんですか

と思うでしょう?私も思った。
その時、彼の頭の中には、生まれてくる子の「オトナン(バリの暦の誕生日)」のことが頭にあり、その日に生まれてくる子は、ちょっと良くないらしいのだが、とにかくその日以外に生まれてほしい、という事だったらしい。
こう言われた時は、結婚してから33回目くらいに離婚を決意した瞬間であった。
いや、このままほんとに出産になったら、ここで産むんですか、あなた何言ってるんですか、陣痛我慢できると思ってるんですか、タクシー呼べこら!!

とエスカレートする私の怒鳴り声とともに、舅が部屋に飛び込んできて、「早く車を出せ!」と夫に怒鳴りまして、無事に病院へと出発できたのであります。
あのまま、舅が怒ってくれなかったら、太郎を自宅出産してたかもしれない、と思うと、舅には本当に感謝である。

そんな、寡黙で頼りになる、いいお義父さんが、5年前から頻繁に寝込むようになった。
その長く続く体調不良から、うつ病のようになり、調子の悪い時は「死にたい死にたい」と声を上げて泣き、「入院させてくれ」と言っては、その都度親戚中で大騒ぎ。バリ島での入院は、家族がずっと寝泊まりしながら付き添いで、大変なのである。
病みついている時の舅は、普段の我慢強く物静かな様子とは打って変わって、ひたすら辛い辛い、と、昼夜を問わず、夫に訴えていた。
病苦というのは、こんな風に人を変えてしまうんだなあ、と思った。
こんな風に泣き言をいう人だとは、みんな思っていなかったのだ。

西暦での誕生日は知らないから、お義父さんの正確な年齢は分からない。おそらく、80歳をこえたくらいだったと思う。
この5年間、辛い思いをしてきたと思うが、それでも、ちょっと調子のいい時は自分で自分のことをし、庭の掃き掃除やお供え物づくりなど、最後まで出来ることを精一杯やってくれた。頭も足腰も、本当に丈夫だった。

嫁として、義理の娘として、何も言わずに私を受け入れてくれて、無言ながらも私や子供のことをいつも心配してくれて、何もお返しできないまま、20年あまり。そして、私は葬儀にも(バリに)戻れないまま、お義父さんは逝ってしまった。

娘二人に先立たれて、孫は13人。ひ孫も5人。毎日、早朝に深夜に、田んぼでお米を育て、子供たちを育て、鶏や家鴨を飼い、絵を描き、村の行事によく参加し、祈り、バリで生きた一人の男性が、生を全うした。幸せな人生だったかな。

お義父さん、ほんとうにどうもありがとう。

Iseng ajak bapak....
I miss you bapak

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