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【夢日記】元カノとの夢を振り返ろうとしたが脱線に次ぐ脱線でサジを投げた

僕とY.K(元カノ)が同棲していた頃の夢を見た。

Y.Kのことを、便宜上「(元カノ)」とだけ書き添えておいたが、まぁそういう呼び方をした方が分かり良いだろう、という配慮から、そう書いたに過ぎず、根っこを掘り起こそうとすればするほど「元カノ」と一括りにして呼ぶには忍びない、そんな関係性である。

「いきなり何を言い出すんだ」と思われるだろうが、夢日記をしたためる上で、それぐらい深い仲だったんですよ、今はどこで何をやっているのかも存じ上げませんが、と、注釈を加えたい思いが強かったまでである。失敬。

夢の世界では、仲睦まじく過ごす日々が延々と続けば良いねぇ、という、モラトリアムの無期限延長を願う大学生よろしく、と形容したくなる情景が、長々と続いていた。

綺麗な表現を使えば「アオハル」と呼んでも差し支えないだろうが、意地の悪い表現を使えば「現実逃避」とも言える。

ちなみに、今の僕の気持ちで言えば、前者か後者か、と問われたら、うーん後者寄りかな、と答えるだろう。そんな心境で、表情は仏頂面で、文字を綴っている。

ちなみのちなみに、今、フッと、現実世界のことを思い出したので、それにも触れておくことにしよう。なぜなら、触れたくなったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

Y.Kとの同棲が解消され、それほど月日が経たず、恋人の関係も解消されたぐらいのタイミングだっただろうか、彼女から届いたLINEを開くと、back number『こわいはなし』の歌詞が丸々コピーされていた、そんなことがあった。

もしも、逆の立場であれば、僕は、こういうことはしない。

同様の心情をメッセージとして伝えたいと感じた時に、たとえ「私の心情を歌っているようだ」と心底感じたとしても、他人が作詞したものをそっくりそのまま、というのは、正直、気乗りしないからだ。

クリエイター業で飯を食っているわけでもないのに口だけは一丁前だな、と、自嘲気味に笑いたくなる自分がいようとも、そこはやはり、自分の言葉で伝える、その労力をコストカットしたらダメだろうと思う。それがたとえ「なけなし」のプライドだったとしても。僕にとっては「かけがえない」ものだから。

・・・。

違う。
そういうことが言いたかったわけじゃない。
ポエムをのたまいたいわけじゃなかった。

今回、僕が問題提起したいのは「自分の心情の吐露を他人が作詞した歌詞で代用するなよ」などと言うことではない。断じて違う。

というか、むしろ、彼女らしい表現の仕方だな、とさえ思える。あの子は、僕みたいに、しかつめらしい表情を浮かべながら、窓辺から見える風景を眺めていたり、なんてことは、全くと言って良いほど無かったから。

それを踏まえれば「自分の心情を言語化する労力をカットするために他人の言葉を用いた」のではなくて「自分が言語化出来ない心のモヤモヤを見事に言い当てられたような名文に出会えたので自身のメッセージに代えた」と言った方が正しいはずだ。

もう少し端的に言い表せば「面倒だから言わない → 代用品を見繕う → 送信」というよりも「困難だから言えない → お目当ての品に出会う → 送信」と言った方が正しいはず、こんな感じか。

「言わない」と「言えない」は、文字にすれば1文字しか違わないのに、その実情は、全くと言って良いほど異なったりすることが、往々にして起こり得る。

それを、目に見える部分では同じ言動を取ったからと言って「言えない」人に対しての返答を「言わない」人に対しての返答と誤認して、メッセージを送り返すと、話があさっての方向に行ってしまった、なんてことも、しばしばある。

そういう状態を「コミュニケーションの齟齬」と言うらしいのであるが、ボヤキ気質のある僕からすれば「齟齬って表現が伝わりづらい時点で、もう齟齬が生じているよ」などと言い、苦笑いしたくもなる。

似たようなものとして「敷衍」もある。これは「伝わりづらい事象を伝わりやすい表現に言い換える」みたいな意味だと記憶しているが、これまた「敷衍って表現も伝わりづらいから余計に話がややこしくなるだけだよ」と言いたくなる。

そこから起因して、ふと僕が思ったのは「『敷衍』の意味を説明するために『敷衍』して伝える、その『敷衍』も説明する必要があるため、これまた『敷衍』して伝えて・・・」という、名付けて「敷衍の堂々巡り」だ。

論文なんかに目を通すと「これは難しい語彙を使いたいだけじゃないのか?」と難癖を吐きたくなる瞬間が多々ある。その一例が、前述した「齟齬」とか「敷衍」である。

難しい語彙を知ったからといって、日常生活におけるコミュニケーションに役立つかと言えば、別にそうでもない。そもそも「話し言葉・書き言葉」の違いも大きい。「齟齬・敷衍」なんて言葉を雑談レベルの会話で多用してくる人が居たとすれば、たちまち「知識自慢厨」というレッテルが貼られることだろう。

「敷衍の堂々巡り」という言葉からまた思い出した。

小学校の委員会を決める時間だったか、クラスの誰かが「学級委員長を補佐する役割もあった方が良い」と提案したことがあった。

人物の記憶が全く忘却されているのが口惜しいのではあるが、このエピソードだけで、心優しい少年少女だということが窺える。大変素晴らしい。大人になった今もその精神を持ち続けていることを陰ながら祈る。

その提案はナイスアイデアとクラスからの拍手をもって快く受け入れられ、役職名は定かではないが、「学級委員長補佐」のような役職が加わり、任命され、一件落着、パチパチ。

とは、ならなかった。

最初に「学級委員長を補佐する役割もあった方が良い」と提案した子とは別の生徒、それも、僕の記憶ベースで言えば、心優しい提案、というよりも、少々、おどけとも取れるような物言いで、のう言ったのだ。

「学級委員長を補佐する役割があるんだったら、その役割を補佐する人も居た方が良いんじゃないの?(笑)」

そこから、事態は、笑いの方向へと一直線。

「だったら『補佐を補佐する人』とか『補佐を補佐する人を補佐する人』などと、無限に続いてしまうやん。大変だあ〜(笑)(笑)(笑)」

そんな具合に、クラスが、なんだかよからぬ活況を見せる中、場の空気をピシッと取り締まるように、先生が、一言、割って入った。

「じゃあもう補佐は置かないことにしよう。確かに言い出すとキリないし。学級委員長の負担が大きくなった時は、クラスみんなでカバーし合おう。思いやりの精神ってのはそういうことだ!」

そんなことを言いながら、クラスの黒板の上に貼られた「学級目標」を見るように視線を送った。

大人になった今、一部始終を振り返ってみても、先生の対応は、別に間違っていないと僕は思う。だけど一つだけ、気になることはある。

最初に『補佐役の人が居た方が良いと思います!』と、勇気を出して声明した子の良心には、しっかりと報いてあげてほしいな、と。

僕の知らないところで、そっと、その子のところに寄って行って

「○○(名前)の思いやりの精神に思わずハッとさせられたよ。おかげでクラス全体のメッセージとして『思いやりの大切さ』を伝えることが出来た。ありがとな(^^)」

そんなコミュニケーションをさり気なく取ってくれていることを祈りながら、今日は眠りにつこう。

※書いている途中から「なんか本題と関係ないことばかり書きたくなる日だわ」と思ったので、指先の赴くままに書き連ねました。確信犯です。すみません。ホントすみません。

※「確信犯って語彙も、前述したような用法で使用されることがほとんどだけど、元は誤用とされていてね・・・」などと、とろサーモンよろしく、終わりを宣言した後に続けてやろうか、とも思いましたが、指先が疲れて来て、打ちミスも増えているので、自重します。気になる方はググってください。すみません。ホントすみません。

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