都市系のレポートで都市の聖性について書いたもの(フリー素材で使ってください)

 自分の好きな小説に「縦縞模様のパジャマの少年」というものがある。この話では、裕福な家庭で育った少年がフェンスの奥にいる縦縞模様のパジャマの少年と親交を深める所から始まる。2人の無邪気な会話が物語の軸になっているのだが、物語中盤から2人の関係性がなんとなく分かるようになってくる。1人はナチスの高官を父親に持ち、パジャマを着た少年が着ていたものは強制収容所にいるユダヤ人が着させられていた作業着であった。少しずつ全体像が掴めてくる本作はホロコーストを描いた作品ではあるがそれ以上に自分は人間社会の歪さを感じ取った。
 
そもそもなぜ無垢に生まれた子供たちが差別や排斥をするようになるのか、なぜ他人よりも優れようとこぞって競争をし始めるのか、これは一つには社会の責任であり都市の責任でもあるように私は感じている。
 社会が人々に競争心や劣等感・優劣感を与えることを今更論じてもナンセンスだろう、資本主義社会での教育が競争心を植え付ける構造になってしまうのは理解ができる、ここではあくまでの年の責任について考えてゆきたい。
 所謂成功者たちが都市に求めるのは、綺麗で巨大な空間と、同じく成功した隣人の存在である。私の両親が生まれ育った静岡県の浜松市ではその構造はそこまで如実では無かったらしい、大地主の横に工場で働くサラリーマンが住み、病院の院長と小学校の先生が隣に住んでいるなんてこともあった。しかし大都市・東京ではどうだろう、「港区女子」「トー横キッズ」などまるでその場所に存在しているだけで自分達のレッテルが貼られているような構造がある。成功者たちは都市の中であるはずもない高台を目指し登りそこに安住の地を探そうとする、まるでそうでない場所が教育や生活に適していないと言うように。
 もしも都市に聖性があったらこの移住は起こりうるのだろうか?―答えは否だと思う。愛されるマスターのいる喫茶店、苦しい時によく訪れた公園、多種多様な人々が夜通し笑い合う居酒屋などそこに聖性があれば人々にとってそこに最早場所のヒエラルキーは存在しない、大切な場所とそこに住む大切な隣人・コミュニティがあれば人々は都市においては「賢明な地位を追求する」ようになるのだろう。会社では敏腕のビジネスマンでも地域ではコミュニティガーデンに参加したり看板を整備したり地域にとっての役割が与えられる、聖性がある空間では人々は凝り固まった「地位」から解放され公正な社会での「あなた」を知覚できるのである。
 ナチスの高官の子供がユダヤ人の象徴である作業着をパジャマであると知覚したように、ブルックスブラザースのセットアップやヴィトンのバッグに本質的な意味はなくそれによって人々が定義されることはない、それに気づかせてくれるのが聖性のある都市なのである。

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