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大将と若い衆

我が家には、
父が作った小さな一坪ほどの庭がある。

以前は駐車場にしていた場所で、
10年ほど前、ある日突然父は思い立って庭を作り始めた。

大きな石を配置してその周りにちいさな木や季節に咲く花を植えている。

父は踏み石を「心」という字になるように配置して
この小さな庭を「こころの庭」と名づけた。

そんなこころの庭も
今年は母のことでバタバタしていたのもあり
夏には草でボーボーになっていた。

踏み石の「心」も
どこにあるのかわからない。

リビングから庭をのぞきながら、父に伝えてみる。

「そろそろ草むしりしないとね」

「悪いね、やってくれるの!?」

「え!?
わたくしの出番ですか?」

そっか、なるほど。

確かに今の父は草むしりができる感じはしない。
草むしりにも世代交代があるのか。

重い腰をあげ
玄関の戸棚の奥にしまい込んでいた
軍手を取り出してみる。

軍手には乾いた土がついていた。

きっとかつて母が使ったのかもしれないな。

母はいないのに軍手が残っているってどういうことなんだろう、と不思議な感覚になる。

それにしても、
何十年ぶりの草むしりだろうか。

最後の記憶は確か小学生の頃。

この家とはまた違う
生まれ育った家の庭で
母の横で草をむしっていた。

その時、
私が小さなかわいい草たちをむしることができず
残していると母はこう伝えた。

「またすぐに生えてきちゃうから根っこまで抜こう」と。

まるでセピア色の遠い記憶のように感じる。

さあ、
軍手をつけて準備万端。

ボーボーの草たちよ、
よろしくお願いします。

さて、
どこからどうやったらいいのか。

父は草むしりに関して
あまり関心がなさそう。

頼れるのは、母との記憶。
そうそう、根っこまで、根っこまでね。

でもやっぱり
小さい草はどれもかわいくて残したくなる。

それでも、
あまり深く考えずに
どんどんと抜いていく。

かわいいけど、根っこまで。

しばらくすると
リビングの窓が開いて、父が顔を出してきた。

「せいが出るな、若い衆」と冗談めかして言う。

汗をぬぐいながら振り返る。

「大将!途方もない草に悪戦苦闘してますぞ」

大将と呼ばれ、
父はまんざらでもない顔をした。

ここ最近はかつての勢いがなくなっていたので、かつての父を取り戻したような感じで嬉しくなった。

その後、大将は大将らしく、
若い衆に指示を出す。

こちらの草を抜いて、
ここの枝を切って。 

父なりにこころの庭のイメージがあるようだ。

そして、若い衆をのせることも忘れない。

「若い衆、いい仕事するね、助かるよ」と。

まんまとのせられ若い衆も精を出す。

根っこまで。根っこまで。

夕方頃には
いつものこころの庭が顔を出した。

「お父さーん、どうだい!?」

父がリビングの窓をガラガラっと開けて顔を出した。

もしこれが半年前だったら、
父はこの瞬間に母に呼びかけていたであろう。

「お母さん、庭がきれいになったよ!」って。

風通し良い庭を2人で眺める。

「小さいけどいい庭じゃん」

その日以来
時々2人で大将ごっこを楽しんでいる。

大将!と呼びかけると
まんざらでもない顔。

「大将、万歩計だいぶ数字がいいですね」

「大将、ご飯できましたぞ」

「大将、そろそろ寝ましょうか」

父は、年齢を重ね、持病も重なり
日に日にできる事が減ってきているけれども

父の深くに脈々とながれる
生命の鼓動

それはきっと大将というあだ名にふさわしい気がした。

この先、
やれることがもし何もなくなったとしても

「存在」という力強いさというものは、
何よりの人間としての強さなのかもしれない。

そんな大将は

この冬こころの庭に
メジロを迎えるのを楽しみにしている。

どの枝にみかんをさそうか、とリビングから眺める。

ちいさな庭ですが
お客さまの飛来を心よりお待ちしています。

大将と若い衆より

大将はソフトクリームがお好き

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