旅に魅せられて

僕はヒーローになれなかった。

空も飛べなければ、必殺のパンチを持てたわけでも、人一倍目立った能力ができたわけでもない。相変わらず不器用で、臆病で、少しだけ忘れっぽくて、意地っ張り。

誰かの涙を止める魔法や、誰かを笑顔にさせる魔法が使えるわけでもなくて、隣で苦しんでることにも中々気付いてやれない。

だからこれは、いわゆるハッピーエンドじゃなくて、カッコ良くて泣けるようなものでもない。

ヒーローになれやしなかったけど
守りたいものができたっていう話

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始まりは「楽しそうだから」だった。

大学生活も折り返しになって、少しゆとりが生まれてきた頃に無性に何かを始めてみたくなって、半ば成り行きや勢いに任せて「申し込む」ボタンを押した。

安定感なんかより好奇心の方が勝ってしまう、大学生ならではの勢いに任せてしまってたこの頃の僕らの始まりはいつだって突然で、勢いに任せたら全てなんとかなるとさえ思ってた。

野球ばかりやってきた僕が「大学生」として学生団体に入ることも、「スタッフ」として1年目を過ごし、その後「代表」としてこの地に戻ってきて偉そうに誰かの前に立ってることも、悪くいえばそんな「勢い」のせいだったんだと思う。

旅に出るようになったのはその頃始めたバイト先の先輩がよく色んな国の旅の話を聞かせてくれたからだった。その話をしてる先輩が格好よくて、何よりあまりにも楽しそうに話すから惹かれたんだと思う。

大学生活なんて言葉に魅せられたけれど、なってみるとそうでもなくて、ただ変わらぬ毎日を阿呆みたいな面さげて笑う友人たちと過ごす。それだけの日常の繰り返しは途端に飽きた。抑揚のない教授の話も異性を巡って牽制し合う友人もの会話も、授業をサボって投げるボウリングも、入学から半年もすれば飽きてしまった。

旅と出会ったのは、そんな自分を持て余しながらも変わらぬ毎日から離れられずにいた10代と20代の狭間だった。

祖母から実家に内緒に送られてきた「秘密やで」と締め括られた手紙と同封されてたお金を握りしめて、横浜行きの夜行バスに飛び乗り、細い腕で大事にリュックを握りしめて到着を待ちわびた。あの時の興奮を表す言葉には僕はまだ出会えていない。

湘南新宿ラインに乗り、鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて江ノ島駅を目指した。
あの頃の少年の日常を壊してしまうことの容易さにリアルを感じながら過ごし、その日の夜行バスに乗って帰宅した。アホ面した友人たちに自慢してやろうと思ってた。


異質はここには必要ない

「そういうの俺らには合わんからやめてや」そう言って笑った友人の顔を殴ってやりたくなりながら感情を押し殺して僕も笑った。その日の帰りの電車に揺られながら、想像もしていなかった「旅」のリアルに僕はもう2度と旅に出れないかもしれないと感じてた。

人は、日常や自分の持つ当たり前を手放すことに難しさを感じ、得体の知れないものに違和感を覚え、拒絶する。変わらぬ日常が嫌といいながら日常が変わってしまうことはもっと嫌なんだろうか。

初めて感じた得体の知れない感情も、日常から飛び出してきた喜びや驚きの中に少し混じった寂しさも、僕にはもう感じることができないのかも知れない。

何かを捨ててしまうことの難しさと何かを始めてしまうことの簡単さが妙に身近に感じてた。


酔いのせいかわからないけれど、会えばいつだって馬鹿やって笑って過ごすのが日課だった。授業のほとんどを教室の後ろで過ごし、バイトに明け暮れ、暇さえあれば誰かと呑んで騒いだ。誰かの気分次第で変わってしまいそうな日常を守るのに必死だったのは僕もアイツらも一緒だったと思う。

僕らの呑み会はだいたい日が昇るギリギリまで続いて、だいたい何かに目を瞑って踊り狂って、だいたい誰からともなく夢から覚めたみたいに身支度を済ませて帰る。

その後は必死で目を逸らした何かを避け続けるみたいにTwitterや Instagramに指を動かして、「今日も楽しかった」みたいなこれ見よがしの充実感をSNSにばら撒いて、さっきまで遊んでた誰かがいいねを押したのを確認してから眠るような日々だった。

どんなときも、僕らはいつも日常を守るのに必死だった。そして、日常はいつも誰かの気まぐれによって壊れていった。

「旅で世界を、もっと素敵に」

そんな言葉がSNSに流れてきたのは、今まで一緒に日常を守ってきてた誰かが留学に行くために休学したあとすぐのことだった。

暇つぶしだったか、興味本位だったか、何かの勢いだったか、僕が初めて1人でその団体の説明会に参加した日。誰かは留学に行くために朝から働いてたし、誰かはみんなと集まってカラオケに行ってた。
そして僕がその団体で活動を始めたあとも、彼らの日常は変わらず流れてたように思えた。

つまり、僕らの守ってきた日常は、最初から最後まで、正式に僕の手元にあったことなんてなかった。

あの後、彼らのInstagramのストーリーには何枚かに1枚の確率で僕の知らない誰かが写り込んでいて、僕のいない日常はたしかに存在してた。

そんな僕が彼らに届けようと、旅について発信し、旅を広めることに残りの大学生活全て捧げてきたことが今回の話の始まりだった。
ヒーローになれなかった僕の、学生最後の夢物語の始まりは、これくらい何気ないものでいい。

「、、、本日はBackPackFESTA2019東京にお越しいただき誠にありがとうございました。」

一年間追いかけ続けた背中をまだずっと遠いところに感じながら僕の一年目は幕を閉じた。結局日常を捨てきれなくて大阪に残ってた夏。何かを変えたいと東京の友人の家へ転がり込んだ9月。毎日MTGに明け暮れた秋。スタッフそれぞれとぶつかりながらも歩みを進めた冬。駆け抜けていったラストの2月。

旅を広めたいなんて大それた理由も、世界一周してみたいなんて明確な夢も持ち合わせてなかったけれど、変わらぬ日常を変えたいと意気込んでた一年目は結局誰かが無理矢理変えてくれるのを待ってただけだった。

それでも、たくさん経験させてもらった一年目だったからまたこうしてここに戻ってきて、今度は代表としてこの舞台を作り出そうとしているんだから、もしかしたら感動の物語かもしれない。

別に旅なんて広まらなくてもいいと思ってた時があった。イベントに人を集めるのも、SNSで発信するのも全部僕には苦手分野だった。幸いにも言い訳はたくさん並べられた。一緒に言い訳してくれそうなスタッフの仲間もいた。

あの頃の僕になんて声をかけたら頑張るのかなんてことは今の僕でもわからない。
ただあの時はあれが懸命で、正解で、できなかった自分を許してやる準備で忙しかったんだと思う。

そんな僕だったから、二年目を続けてやるなんて意気込んだ決意も勇気も、簡単に持ち合わせることはできなくて、やりたいことがあるとか、お金を貯めたいとか、それらしい理由を並べて大学生活へと戻っていった。

「一緒にスタッフやろう」

そう言われたのは今年の4月。学生生活の中でやり残したことを考えてたのもあったけど、悪くいえば大学生特有の「勢い」みたいなものがあったんだと思う。忘れかけてたやり残しが再燃して、勢いそのままに代表に立候補するのにそう時間はかからなかった。

7月12日。あの日のことは忘れもしない。
僕にとっての二年目の始まりで、色んな思いを抱えて飛び込んできたみんなにとっての一年目の始まりはあの日だった。

とんでもなく長い旅路だった。あれから半年が経ち、引き返すには惜しいところまで来た。
ここまでの旅路を楽しかったや苦しかったなんて言葉で表すには勿体ない。それでも、言葉を知らない僕にはそんなありきたりな言葉しか思いつかない。

コロナ下でオンラインでの活動になりながらも350人の仲間達が集まり、同じ想いを持ち、同じ目的に向かって歩みを進めた。1年間のイベントですでに3000人近いお客さんに対して旅の魅力を伝えてきた。ただの学生がここまでやった。この旅路に先があるのなら、いっそ誰も見たことのない景色を観てみたいと思うようになった。

コロナだから、お金がないから、自分っぽくないから、やらない理由を並べるのは随分上手くなった。
僕たちにも、心の中で架空の生き物を駆け巡らせ、ヒーローになって空を飛びたい時があった。お姫様になって、綺麗なドレスに身を包みたい時があった。いつからか綺麗事を並べることをやめた僕たちは身の丈相応な夢を見ることが癖になった。

目の前に広がる無数の可能性を、大きくなった僕たちは「綺麗事」と呼ぶ。

大好きなみんなへ

忘れもしない、初めて旅に出たのは2017年2月13日。何気なく書き始めたこのnoteだったけれど、あれから今日で4年が経った。

僕は何かに恵まれたわけでもなく、誰かのヒーローになってやることもできなかった。
思ったよりも僕は頑固で、嘘つきで、不器用で。
誰かの気持ちに気づくこともできなければ、都合良く誰かのために生きたりもできそうにない。

写真や音楽なんて芸術に秀でることも、続けてきた野球や水泳で花開くこともなく、気づけば23年が過ぎた。数えきれないほどの過ちや失敗を繰り返して馬鹿やって笑ってばかりだったけれど、不思議と後悔はない。

学生生活の間に大切な人を失った。いつだって「秘密やで」と笑っててくれた祖母も、いつまでも手を握って歩いててくれた祖父ももういない。もっと会いに行っていれれば、もっとありがとうってちゃんと伝えておけたら。そんな想いが溢れては、忘れるために酒を馬鹿みたいに呑んだ。

好きな人ができた。「恋をしろ」と言っていた近所の飲み屋の叔母さんには結局彼女の顔も見せてやれてない。もう何年もその姿を誰も見かけてないらしい。
金と女に溺れ、欲にまみれ、一瞬の快楽のために何かを失っては、また何かを埋めるために遊びに明け暮れた。

そんな僕に守りたいものができた。

「別に世界一周には興味ないです」と言う子が、「でも旅は好きです」と笑ってくれる。旅の仕方も旅の意味も変えてくれるこの子たちに「代表」と呼ばれる一年だった。

この子たちのために何かできないかと頭を働かせ、もっとここが居心地の良い場所になればと寝る間を惜しんで手足を動かした。それでも、何か返せただろうかと考えるけれど、まだ何も返せてはいない。

「絶対満席」と聞かされ続けたから疑うこともなく旅を広めてきた一年目。
満席にはならなかった時、なぜあれだけこだわってたのかがようやくわかった気がした。

150人弱のスタッフが円陣を組みスタートとしたBackpack FESTA2019。会場内のロビーに溢れかえるお客さんの笑顔を見て安堵しながら怒涛のタスクをその場でこなしていった。無線で行き交う指示。動き続ける当日のLINE。お客さんに声をかけられても立ち止まって話すこともできない忙しさに追われながら僕らの最後は幕を開けた。

何度も打ち合わせをした指示を聞いて座席へと向かう人混みは想定とは違い随分ゆとりのある座り方になった。できるだけ人が多く見えるようにと工夫を凝らした座席配置も人員誘導も、こんなことのために時間を費やしたはずじゃなかった。最上階まで借りた会場の最上階を立ち入り禁止にし、人をなるべく下へと誘導した。

落ち着くことのない一日は怒涛に過ぎて行き、気づけば最後の代表挨拶。満足して途中で帰ろうとする人の群れを泣きながら必死に食い止めるスタッフの仲間たち。僕らは一年間こんなことのためにやってきたわけじゃなかった。

この一年をどれだけの人に届けたいか。

終わった一年目の振り返りをしていた時、僕が満席にこだわったたった一つの理由はそれだった。

こうしてここで出会って、一瞬とはいえない時間をたしかに共有したスタッフの仲間がいた。あの時の僕らは熱狂していたし、旅が好きだというたしかな確信があった。
旅の話はできなくても、一緒に時間を過ごし、笑い、悩み、何かに立ち向かった仲間がいた。
そんな僕らの活動の最後をどれだけの人に届けたいか。

それがあの日の答えだったのかもしれない。

2021年2月13日。

初めて旅をしたあの日から4年が経ち、3年前の今日はエジプトに降りたっていた。2年前には満席の景色が見たくて毎日渋谷の街で声かけをしていて、1年前は天災にあった街で復興ボランティアに参加していた。

ただの学生は相変わらず今もただの学生で、何かに優れたわけでもないけれど、手の届くところに守りたいものがたくさん溢れてしまってる。

宇宙飛行士、野球選手、画家、ピアニスト、歌手。夢を諦めきれてない人たちは全世界にどれくらいいるのだろうか。綺麗事を綺麗事としてどこかに閉じ込めてしまった僕らは、あの日の夢の代わりをまだ探してる。

「綺麗事ばかり追いかけるな」と笑った奴がいた。「夢は叶うもの」と教えてくれた祖母がいて、「夢の見過ぎだ」と笑った友人がいた。

言い訳ばかり上手くなって夢追うことをやめてしまった僕らは、あの日の僕らのために今、夢を叶える必要があるのかもしれない。

2021年3月6日。

一年を費やした僕らの最後の挑戦が始まる。
「全都市満席にしよう」あの日掲げた綺麗事はまだ綺麗事のままだけれど、やってやろうって気持ちだけはまだ手元に残ってる。

誰かが夢を叶えてくれる瞬間を待つよりも、僕らが夢を叶える瞬間を迎えに行くことにする。もう綺麗事だと笑わせないために。

いつまで夢の叶うのを待つ。いつまで綺麗事を綺麗事だと笑わせる。いつまで誰かの日常の中で息をする。僕らは僕らの夢を、日常を守るために旅を広める。

さぁ、熱狂する準備はできたか。
綺麗事だと笑わせないために。

僕らはまた、旅に出る。

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