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【小説】西から太陽の昇る国 第一章

 ようやく、最後の団体客が姿を消すと、店にはいつもの静寂が取り戻された。天井から吊り下げられた空調のプロペラが、無機質にくるくると回転しているのをしばらく観察していたからか、首の筋肉が固くなっていたことに気が付いた。

 小さなバーでのバイトを始めて早三か月。慣れないというより、疲れのたまりやすい仕事であるということを学んでいた。いくら作業が効率的になっても、接客という仕事だけは性に合わない。
 かといって、23歳になって大学を卒業しながら、無職のままというわけにもいかなかった。なりたくて無職でいたわけではないのだが、何か新しいことをするのが面倒であった。幸い、知人の紹介で仕事を見つけたのはよかったのだが、毎日大勢の酔っぱらいを相手にするのは骨が折れた。

「お疲れ様。今日は早く上がっていいよ」

 声をかけてきた初老の男性が、ここのオーナーだった。もう20年近くこの店を営業していた。きっちりと結ばれた黒のネクタイと、淵の太い眼鏡が印象的な、白髪の男性だった。ここに来る同世代の客とは見違えるほど、物腰柔らかい、温和な人物だった。鼻は日本人にしては少し高めで、遠目に見ると外国人とも思えるほど身長が高かった。少なくとも、170センチ前後の僕よりは一回りくらい大きかった。

「すみません、ありがとうございます」と僕がいい終える前に、オーナーは掃除を始めた。いつもなら僕がやっている仕事なのだが、金曜日の夜だけはいつも彼が仕事をしていた。もっぱら、僕に早く休めという意味であった。
 僕はそれに素直に従って、制服をロッカーにしまい、いつものように店を後にしようと出口へ向かった。従業員用の、小さな出口だった。雑居ビルの立ち並ぶ繁華街特有の、アルコールとたばこのにおいが充満した小さな路地に出た。そこから、細い道を抜けて広い場所に出ると、あとは道なりに進んで、駅へ向かうだけだった。電車に乗ってしまえば、20分の仮眠が約束されていた。僕の体は予想以上に疲れていた。

 ふと、僕はその大通りのわきに、金髪の若い少女が立っているのを見た。若い、というのも、見たところ高校生ぐらいのようである。若い少女がこんなところにいるのは危ない、と思ったのが的中し、彼女の横には、図体の大きな不良が立っていた。明らかに、目をつけられているようだった。彼女は何か、彼らの言葉をうまく遮ろうとしていたが、進行方向もさえぎられていた。
 無視して帰れば、何事にも巻き込まれなかっただろう。だが、僕にはそれができなかった。僕は彼らからほんの数メートルの場所まで近づいた。少しだけ、足が震えていた。心臓の音が、耳のすぐそばで唸るような気がした。
 意を決した。僕は、彼らに体当たりをした。一番ひょろっとした男に後ろから突撃した。彼らが今起きたことに困惑している隙に、僕は少女の手を取った。

「走れ!早く!」

 彼女は僕が言った言葉を、一瞬のうちに完全には理解できていないようだった。しかし、こくりとうなずくと、僕の手を握ってそのまま駆け出した。

 僕はさっき自分が出てきた店の入り口に彼女を入れると、内側からカギを占めた。数秒も経たないうちに、彼らがその道に現れた。怒鳴り声が響き、彼らの怒りがすぐそばまで伝わってくるようだった。
 僕は少女のほうに顔をちらりと向けた。かなり息切れをしていた。恐怖でいっぱいの顔だった。僕はただ、彼女の手を握ると、静かに「もう大丈夫だ」と告げた。

 すこしして、彼女は自分のバッグからこう書かれた紙を見せた。

「耳、聞こえない」

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