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空を見ていた ⑧果たされなかった夢と大いなる恵み

最後に娘を抱きしめたのは、いつだったろう・・・。
1997年秋に緊急入院した日は、ちょうど娘の6歳のお誕生日だった。
それより数ヶ月前から、すでに夫は娘を連れて実家に居ついたまま帰ってこなかった。
私が最後に娘を見たのは、星も出ていない夜だった。
夫に足早に連れて行かれ、振り返り、振り返り、「ママ、バイバイーイ♪ ママ、バイバーイ♪」と幼い声がいつまでも暗闇にこだましていた。

「お前が病弱なせいで昇進できない。お前のせいで俺の人生狂わされた。」
「7年もガマンしてやったんだ。ありがたく思え。」
「離婚届さえ送り返してくれば、娘に会わせてやる。復縁も考えてやる。」
そう言い渡され、別居を強いられて生活保護状態になってから、1年3ヶ月が経とうとしていた。

声を与えられてから私が最初にしたのは、離婚に応じることだった。
電話を持っていなかったので、公衆電話から夫の実家に連絡をとった。
切られる前に、「離婚の件で話したいんです」と言ったら、すぐに夫に電話を代わってくれた。
電話の向こうに、もうすぐ小2になる愛する娘の声が、かすかに聞こえた。
電話に出た夫に、離婚同意を伝えた。
娘に会わせてくれる約束も確認した。
信じた。 祈った。 待ち望んだ。
そして、その約束は果たされないまま現在に至る。

のちに、何人もの人から同じことを言われた。
なぜ裁判を起こさなかったのかと。
回復不能になるほど暴力を振るわれ、生活保護に陥り、面会権もなし、慰謝料もなしなどありえないというのだ。
「なぜ、愛する一人娘を置いてきたんだ」「こどもを捨てた鬼母だ」「なぜ娘を取り戻さないんだ」とも。
置いてきたのでも、捨てたんでもないことは、私のイエスさまがよくわかっていてくださる。
私は死んだことにされていたのだ。
お金がないから、裁判など考えたこともない。 慰謝料も財産分与も考えたこともない。
当時の元夫は無職状態になっていた。買ったばかりの家のローンも、生活費も、おこづかいも、親に与えてもらっている人だったのだ。
お金があるなら、それは娘に使うべきだ。
そして、家庭を放棄した元夫に生活の面倒を見てもらいたいとは一切思わなかった。
(元夫の名誉のために書いておきたい。 元夫は、決して娘に手を上げる人ではない。)
元夫は、約束を果たす気などなかったのだ。 でも私は妻として、最後まで元夫を信じた。
『夫に従うこと』。 私はそれを自ら選び取ったのだ。
果たされなかった約束を、私はイエスさまに託している。
娘に会える日を、信じて、祈って、待ち望む。

1999年5月。

離婚から2ヶ月目を迎えようとしていた。
よく晴れた、穏やかな日だった。
イエスさまの小さな絵と、娘の写真を握り締めて、私は床にひざまずいていた。
「父と、御子と、聖霊の御名によって、汝にバプテスマを授ける」
水滴が3滴、頭に注がれた。
イエスさまに見つけていただいてから20年目。
やっとクリスチャンになれた。
その教会を訪れてから、4ヶ月目のことだった。

通常は、教会を訪れてから洗礼を受けるまで、もっと月日がかかるらしい。
あ者状態・生活保護受給者・離婚問題を抱えていた私が死んでしまわないようにと、教会全体が相談の上で、特別にそうしてくださったということを、ずっとのちになるまで知らなかった。

洗礼は、ちょうど母の日と重なった。
毎年母の日になると、決してもらうことの出来ないカーネーションに悲しい気持ちになるのと同時に、一緒に泣いてくださるイエスさまの暖かさに感謝する。