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空を見ていた ④崩壊


家庭の崩壊は誰の責任か?
相手か自分か、周りの圧力か?
強制されて、結婚したのではない。
「この人と、生涯共に生きる」という意志を持って結婚したのに。
なぜ、心がすれ違う?
どこで、ボタンの掛け違えが起きたのか?

わが子を守らなければ。
殺伐としたこの家庭から、わが子を守らなければ。
夫婦が心を合わせて、ちゃんと向き合わなければ。

何度、そう思い、何度、家に帰って来ない夫をその実家に迎えに行っただろう。
相手の心がこちらに向いていなければ、どうしようもない。
この家庭に心を置いていなければ、どうしようもない。
でも私は、この家庭から決して逃げ出したくない。
この家庭で生きて、わが子を育てたい。
夫婦心を合わせて、愛し合って家庭を続けたい。
1990年に結婚してから1997年まで、そう祈りつつ過ごしていた。
当時はまだクリスチャンではなかった。
それでも、私は信じていた。
必ず、祈りに応えてくださると。
待ち望んだ先に、道は開けると。
でも、私は勘違いしていた。
自分が望んでいる結果と、神さまが与えてくださる道は、時には大きく違いすぎる。
神さまは、最善以下のことは決してなさらない。
それに気づくまでには、まだ多くの時間が必要だった。

1997年、緊急入院し、退院した時にはすでに家庭はなかった。
離婚届と首から下の全身のあざだけが、私に残されたものだった。
1998年の初め、目の前で私のわずかな荷物が運び出され、一文無しで私は放り出された。

1998年、秋。
強制別居から数ヶ月経っていた。
その間に、家庭の電話は使われなくなっていて、連絡は取れなかった。
夫の実家にかけても、ガチャンと切られた。
夫宛、娘宛に手紙を書いても、返信はなかった。
放り出される直前の激しい暴力により、私の体は全内蔵機能低下になり、10分も歩けば心臓発作に近い状態になる。
誰もお世話してくれる人がいなかったので、生活保護を受けて過ごしていた。
特急や新幹線を乗り継いで、5時間はかかる距離を移動して家庭がどうなってしまったのか確かめに行くことができなかった。
絶望のどん底で、私は失声症に陥った。

1998年、クリスマス。
どうやってたどり着いたのか、私は海にいた。
イエスさまの小さな絵と、娘の写真を手に握り締めて、海にいた。
私は泳げない。声を発することもできない。
海に飲み込まれれば、そのまま消えることができる。
そう思っていた。

・・・イエスさま そちらに行ってもいいでしょう?・・・

ー沈黙ー

・・・娘の様子もわからない この先 どうなるかもわからない もう耐えられないんです・・・

ー沈黙ー

・・・イエスさま 私 がんばってもダメだったから もうがんばれないから そちらに行きたい・・・

ー沈黙ー

・・・イエスさまも 私を受け入れてくださらないのですか?・・・

ー沈黙ー

・・・どうしても ダメですか?・・・

日が暮れてきた。
イエスさまの答えはなかった。
イエスさまの絵と娘の写真は、涙だらけになっていた。
ヨロヨロよろけながら、私は歩き出した。
・・・イエスさまからさえも放り出された・・・
そう思っていた。
それは、地獄に落とされたような恐ろしさだった。
でも、神さまの最善は絶対的。
イエスさまは、すでに答えをくださっていたのだ。
私は今日もこうして存在している。
それが答えなのだ。