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「最高の死に様」を迎えるための「今」をマジで考えさせられた言葉(1)

今、ある人に書いて送った俺の「メッセージ」がいい話すぎたので、そこで書いた内容に改訂と編集を加えてここに掲載することにした。
真面目な話だから、あまり冗長にならないようにしたい。
「写真もこの文章には要らない」って思っていたけど、運営さんの「薦め」に負けて、なんかこんな感じというのを無理矢理ブチ込んだ。

大学在籍時に俺が所属していたサークル(夏テニス&冬スキー)の発起人で幹事長をやっていたヤツが、確か2017年の晩秋か初冬に行われた宴席でこんなことを言っていた。

「五十、六十なんか、まだまだ、はなたれ小僧じゃねーか」と。

その時は何かその言葉にピンと来ることはなかったけど、約4年ちょっとの時間を要して、ようやくそいつの言わんとしていた言外の意を汲み取れた。

「もう五十だから」「もう六十だがら」っていうのは、他者や他人が勝手に押し付けてくる価値観にすぎなくて、自分の意識が「まだ、たったの五十」「まだ、たったの六十」って方向に向いている人間からしたら単純に「『もういい歳なんだから』などと言っくるお前が終わってるだけだよ」って一言で終わっちまうんだよな。
「死んじまうまで俺は伸び続ける」って固い信念を持って、毎日毎日、自分を改善して、努力をやめないヤツは、他者や他人にどんな価値観を押し付けられようとも「自分なりの圧倒的結果」を出し続けるもんなんだと、今、俺の中には確信めいたものがある。
そして、現在の俺だが「他者や他人から見ての成功」なんてマジでどうでもよくて「ああ、今日も疲れたけど、最高に面白かったなぁ」って毎日を一日も欠かさずに続けようっていうマインドだけで成り立っている。

「年収が1億だとか10億だと100億だとか、あの誰もが知る会社の取締役だとかCEOだとか、全部ちっせぇ」。

脳と心臓が完全に停止する1秒前に「俺の人生、やっぱ最高だったぜ」って思いが心底から湧き出るヤツにとっては「誰かに勝った」とか「誰かに負けた」なんてことはくだらなさすぎて、1マイクロミクロンも残らないものじゃないかな。

俺はそんな死に様を具現化しようと思って、今も「息」しながら言葉に魂を叩き込んでいるだけなんだけどね(苦笑)。

【追記】

2017年に「五十、六十なんか、まだまだ、はなたれ小僧じゃねーか」って言っていたヤツは、そん時、確か40名ぐらいがいた宴席で、店員が御会計を持ってくるや否や「じゃあ、ここ、俺がまとめて払っとくわ!」とさらりと言い放ち、一切の躊躇なくバッと万券出して、爆速で二次会へ河岸を変えた。

その姿を端でただ見ているしかなかった俺は、その瞬間「今日という一日は完全な敗北だな」って黙って恥じ入っていた。

前述した通り「勝った、負けた」なんて超くだらないことなんだけど「うっ! コイツ、マジでカッコイイな」って感覚が心にぶっ刺さったから、負けを認めざるを得なかった。「所謂、これがひとつの言行一致ってものなんかな」なんてことも心に浮かんだ。
この店は東京、高田馬場駅から程近い雑居ビルに昔からある早稲田の貧乏学生も出入りする居酒屋だった。場の大局が見切れていて、頭も切れるそいつは即座にこう思考したはずだ。

「まぁ~、この店ならこの人数でも大した金額じゃねぇな。ここでおじさん、おばさんがちまちまスマホ使って割り勘しててもしょうがねぇ。ひと騒ぎ始まる前に、漢(オトコ)見せたろ」と。

俺はそのような帝王学的なものに疎かったし、店のラストオーダーから御会計に至るまでの時間で「まぁ、ここは俺が全部払っとくかな」などという人心掌握術も思いつかなかった。

目の前で「男を嫉妬させる程の男」を見せつけられたのは、ちょっと悔しい。

そして、ガチでこう誓った。自分の一挙手一投足でもって、他者や他人を惚れ惚れさせるような歳の取り方をずっと続けていきたいと。
この文章を書くまで4年以上の年月が掛かっちまった。全部、俺の思慮が足りなかったが故だ。

イカちゃん(小池光男)、ありがとな。
俺がこんな言葉を編めたのは、イカちゃんのおかげだよ。

©三島颯真(Ryuma Mishima 三島勉)

この文章は全部、俺の完全オリジナルでパクりは皆無なので、著作権者である俺のコピーライト入れといた(笑)
タイトルに「(1)」って入れているのは、まだ俺が「大事な言葉」を思い出したり、気付いたりする可能性が高いからだよ。

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