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祖父の自伝(10)〜マラリアで入院内還となる

私の祖父、
ぶどう狩りのマルタ園初代園主 
中根武雄が生前書き残した自伝です。


時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ、自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。

第二部 軍隊生活

その四
マラリアで入院内還となる


三水の警備中7月15日「マラリア」で鈴木部隊に入院。診察の結果は急性肺炎と診断され広東福山部隊に転院。「マラリア」の熱の出る時は体温計の目盛以上に上がることがしばしばあった。
その熱が肺に肋膜(ろくまく)節々にと移動し重病患者としての扱いであった。

8月17日内地還送の目的で(戦友が)見送りに来てくれた「やい中根お前のように運の強い奴は無いと皆んなが恨んでいるぞまあ早くなおれよ」
「俺も戦友を残して帰れない台湾からすぐ戻って来るから」と約束して病院船に乗り込む。

8月19日台湾高雄港に上陸。港には国防婦人会の襷(たすき)を掛け
手に手に日の丸の小旗を持って
ご苦労さんご苦労さんのお出迎えである。
今、日本人に温かく親切なやさしい
言葉を掛けられるといういじらしさにひかされ胸がいっぱいになる。
家に残した老いた祖父母母親が
気になり会いたいなぁ
どうしているなぁと心が動揺する。

台南第二分院に入院。
室長久保田伍長室のボス九州男子亀田上等兵。戦友は同じ病院船で
帰ってきた木村上等兵である。
数日後木村上等兵の肉親が内地から
面会に来てくれたので一緒に行かないかと誘われついて行く。両親が非常に
心配し会いたいの一念で飛んで
来られた。元気な顔を見て胸を撫でおろす。
安堵の気持ち親子の対面。
肉親との愛情。
なんとも言えないものがあった。
俺も会いたい。
俺にはどうしても出来るはずがない。
天井から目薬である。

その後毎日のように酒保(しゅほ)に行っては必ず何か買って来ては、親切にしてくれた。
俺にとってはつらかった。
酒保に行き買って返したい。
だがどうしても出来ない。
軍事郵便は届いたが財布は無い。
一文無しである。
広東病院の俸給の残りがわずかしか
無い。無い袖の振りようが無いと
言って貰いっぱなしでは過ごせない。
戦友とは言え元をただせば他人と
他人。たつ鳥後を濁さず。
苦肉の策として時には酒保に行き、
自分は食べずに木村の分だけ
買って来てやる。
「中根お前は無いじゃ」
「俺は食べて来たからいらんよ」と
嘘を言うが天道は見通し毎回同じ
セリフは通用しない。
又木村が酒保から帰って来る頃
毛布をかぶって寝ている。
「中根やるぞ」と差し出す。
「なんだ体の調子が悪いのか」
「うん、どうもいかん」と
遠慮したこともある。
集団生活は第一信用である。
無いでは通らない時もある。
義理の尊さ金のない辛さが身に染みて分かった。一生の教訓である。
今思い出して書くのは最も簡単だが
当時の心境は言い表せない。
木村上等兵は神奈川県の材木問屋の若婿で俺とはだいぶ違う。
仲良くしていただき1ヶ月余りの
戦友生活であったが一生の思い出の
1人であった。

ある日現地の婦人会の人が白い
エプロンに国防婦人会の襷を掛け
慰問に来てくれた。部屋の掃除から
洗濯物まで家庭的な和やかな雰囲気の中に少ない時間であったが、温客に
接してくれた。

又貰った慰問袋の中にキング雑誌が
あった。大きな見出しで米作り日本一の篤農家(とくのうか)現る。
鳥取県東伯郡倉吉町福井貞美さん
驚異的な一反(10アール)二十一俵
収穫その秘訣は?と出ていた。
度々重なる温かい親切に心を惹かれ
好きな農業にファイトが沸き、戦地に戻る気持ちはだんだんと薄らぎ内地の方向に動き出す。

台湾生活1ヶ月。台南第二分院出発。
9月30日基隆港出航宇品上陸。広島第二分院入院。
10月5日名古屋笹島分院転送。
一年ぶりで思いも叶って家族と面会。広東病院で中根ぐらい運の強いやつはないと言った蟹江を思い出す。

俺も悪かった病院下番で帰ったでは
おふくろに申し訳ない。これまでになればいっときも早く退院して挽回したいと思い、軍医に相談のつもりで行った。
軍医はカルテを見て
「まだ早いがなぁ」
「何とか退院したい」
と言うと
「お前の為を思ってやるにわからんやつだ、すぐ帰れ」の捨て台詞
10月26日退院。
原隊復帰となる。



軍隊生活その五
〜秋季大演習参加〜へつづく

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