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祖父の自伝(19)〜召集令状と空襲と敗戦前編

私の祖父
ぶどう狩りのマルタ園初代園主、
中根武雄が生前書き残した自伝です。

時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。

本日は、79回目の終戦記念日です。

第三部 軍隊生活と青年学校

軍隊生活 その十
招集令状と空襲と敗戦(前編)

戦争もだんだんと悪化し
B29の空襲は日増しに多くなり日本の都市の大半が焼け野原と化して来た。

昭和二十年七月十七日午前十時
とうとう招集令状赤紙が来た。

七月十九日午後二時、岩津天満宮において、招集下令者十五名の報告祭が挙行され参加をする。

同志鴨田町河内実伍長は、明日の出発である。祝賀会に誘われ出席をした。
最後とあって遅くまで遊び泊まることにした。
丁度この日が岡崎三大祭りの一つ、
菅生神社の祭りであった。
花火も終わり頃、空襲警報発令のサイレンが鳴り出した。
電灯は全部消され、真っ暗闇で二階に居たが、勝手が分からず降りる事が出来ない。もじもじしてるうちに障子越しに明かりが差してきた。
そっと覗くと東の方向で、天も焦がす勢いで燃え出した。
警報は耳もつんざく勢いで、鳴りっぱなし、前の堤防を逃げさ迷いたらのわめき声泣き声を目の当たりに聞き、みの毛もよだつ思いである。

遠々戦地のことでない。
今、目の前に見る我がお我が町の出来事である。この様相は言葉では書き現すことは出来ない。

一夜明ける。

河内は考える余地もない
見る間もない。
「頼む」
の一言を残して行ってしまった。
俺は八月一日の出発である。
まだ十日余りもある。
十分な予知はあるが、この有様を見れば見るほど心配がつのるばかり、
何一つ手につかぬうちにとうとう、
八月一日は来てしまった。

祖母81歳。母61歳。妻22。長女一つの家族を残して出発する。

万歳万歳の歓呼の声に送られているが、現役兵の時のような腹の底から万歳とは答えられなかった。挨拶も終わり、電車に乗り込む。
愈(いよいよ)最後となる。
一段と大きな声で万歳は叫ばれた。
もう声は出ない。
涙を流して手を上げるのみ。
ついつい、ほろりとほほをつたわる。

集合場所は岐阜県各務原飛行場である。名鉄本線岐阜駅に到着。岐阜の市も空襲で丸焼けである。泊まるところも無さそうだ。困ったなぁと足に任せ歩き出す。
柳ヶ瀬を通りかかった時、年頃50歳位の夫婦。
「兵隊さん招集かね」
と言葉を掛けられた。
「はいそうです」
と返事をする。
「旅館は丸焼けてない。こんなところで良ければ泊まってください。」
ご親切に見れば2メートル位の高さで三角の家で黒焦げた瓦が乗っている。
よく見れば夫婦で一杯である。
到底俺の入る余地もない。
返事も出来ずにもじもじしていると、
「兵隊さんに頑張ってもらわなくては勝てません。私達は一晩くらい寝なくてもいいよ。心配せんで泊まって下さい。」
と進められた。
泊まる当てもない。
言われるように甘えて腰を下ろすことにした。

話しをしているうちにだんだんと夜も更けてゆく。疲れも出てくる。うとうとすると団扇(うちわ)で蚊をぼって下さる。親切さが身に染みる。
「明日は大事だ。横になって下さい。」
と進められ遂に夢に入ってしまった。
夜中二人で蚊をぼって下さったらしい。
寝こなしの真剣な心遣いに感心し自分の責任をひしひしと感じました。

夜は明ける。

行先を丁寧に教わったが心配が先で礼もそこそこに立ち去ってしまった。

今で思うと住所も分からない。
名前も分からない。
手紙も出したこともない。
薄情な野郎だと思われたと思うと
心が痛い。

(後編へ続く)


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