見出し画像

戦乱の統一!琉球王国の建国【教養版】

みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。


早速noteを投稿していきたいと思いますが、「そもそも琉球王国はどのようにして建国されたの?」という方向けに今回は記事を書かせていただければと思います。


沖縄では本土よりも長い間「貝塚時代」が続いていました(琉球諸島)。そこから農耕方法や焼き物を作る技術が伝わったことで、「農耕社会」へ変貌を遂げました。この時代を「グスク時代」と呼び、11世紀末ごろから15世紀まで続きます。

しかしこの時代、農耕社会となったことで争いが生じるようになりました。そこで各地に按司(あじ)と呼ばれるリーダーが登場するようになり、按司たちによる勢力争いが起こります。按司たちは13世紀には各地にグスク(城)を築き、要塞として機能させていました。


長きにわたる戦乱の結果、14世紀に沖縄本島は山北(北山)・中山(ちゅうざん)・山南(南山)という三つの勢力にまとまりました。この時代を「三山時代」と言います。

この三勢力はそれぞれ後ろ盾として中国(明)に朝貢・冊封(琉球:サッポー・サップー)を行なっていました。

朝貢:「進貢」とも呼ばれ、中国皇帝に対して貢物を納めて服従を誓うこと冊封:皇帝から国王として認めてもらうこと


そしてこの三山時代に終止符を打つのが中山でした。

この中山は良港に恵まれていて、1372年には三山で初めて明と交易を行なっていました。「佐敷(地名)の小按司」と呼ばれていた中山の尚巴志はなんとまず中山王の武寧を討ち、父を王位につけます。

そんな三山統一を夢見る巴志に鉄壁の要塞・今帰仁城(なきじんぐすく)を本陣とした山北が立ちふさがります。

中山は強敵である山北の攻略に向けて、攀安知(山北王・はんあんち)の圧政に不満を持った按司たちを味方につけます。

巴志は味方につけた按司たちとともに今帰仁城を攻め、戦いの中またもや味方の裏切りに合った攀安知は自刃しました。(諸説ありますが)

☆今帰仁城はその難攻不落さから、のちの琉球王国においても重要な城として活用されていきます。


強敵である山北を滅ぼした中山は山南の併合を目指します。

山南を率いていた他魯毎(山南王・たるみい)は明に対して進貢を計8回も行なった人物で、山南統治に力を注いでいましたが、あまり民からは慕われていませんでした。

それを代表するエピソードとして「カデシガー(嘉手志川)の伝説」というものがあります。

糸満の高嶺に城を構える他魯毎に対して、巴志は金の扇子とカデシガーの交換を提案します。カデシガーは山南の百姓にとって非常に大切な水資源でしたが、あろうことか他魯毎はこの提案を快諾してしまいました。

このことにより他魯毎は民からの信頼を失いました。しかし巴志は山南の百姓がこれまで通りカデシガーを利用することを許可したのです。

こうして民心を掴んだ巴志は山南も併合することに成功し、1429年に琉球王国を建国しました。


いかがでしたか?みなさんも尚巴志の民心掌握術に驚かされたのではないでしょうか?

中学校や高校で日本史を選択されていた方は「尚巴志」という名前はなんとなく憶えていたりするのではないでしょうか?

日本史で習う琉球王国の人物は4人います。(用語集含めて)

それは尚巴志・尚円・尚真・尚泰の4人です。この4人とも琉球王国の国王なのですが、“尚”と付いていますよね。これは尚巴志が三山を統一して、尚姓として名乗り始めたことがきっかけなのです。

しかし、上記の4人は二つの王統に分かれているのです。つまり琉球王国とは「第一尚氏王朝」と「第二尚氏王朝」として全く違う“尚家”が統治した国なのです。

次回のnoteではその内容について書かせていただければと考えています。


みなさん、今回もご覧いただきまして、誠にありがとうございました!











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?