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見えないからこそ (濁った海で泳いだ話)

台風が過ぎ、海は静けさを取り戻した。

台風が今回のように早く通り過ぎると波が収まるのも早い。

今日の午後は年休をとって、兼業先の打ち合わせに出席。夕方時間ができたので、久しぶりに家の近くの海で泳ぐことにした。コロナ禍で、手軽に運動をできるプールにも通えず、海で泳ぐのが一番の運動不足解消法だ。

自宅から海まで、走って5分。これが微妙な距離。歩いて5分なら良いのだけど。車なら3分。

シュノーケルとフィンをもっていつものサンゴがもりもりと生えている地点を目指して泳ぐ。

しかし、表向きは静けさを取り戻した海も、中は濁っていて殆ど見えないほど濁っていた。海を知っている人にとって怖いのは、深い海ではなく、先が見えない濁っている海。

人は何もしなければ浮く。だからどんなに深くても海面に浮くのだから、慌てさえしなければ怖くない。これを知らないと足がつかない、底が見えない、と言って慌ててバタバタとして溺れる。知っていれば、深い海は全く怖くない。人間の心も、無意識の深い海の表層に漂っているように思えることがある。怖くないはずなのにジタバタして溺れかけたりする。(これはまたいつか改めて。)

しかし、深い海と違って、濁っている海は断然怖い。一寸先が見えないと、ぱっと手を伸ばした先に、ガンガゼ(尖ったウニ)がいるかもしれないし、岩があるかもしれない、ひょっとしたら海坊主がいるかもしれない。僕が子供のころ、新潟の海で海が怖いと思ってしまったのは、この濁った海だったからだと言うことに最近気がついた。

しかし、そんな中でも生き物たちは元気に生きていた。

ウミヘビをみた。エイを見た。クマノミをみた。タマンが3頭泳いでいた。帰りにはウミガメの子供を見た。(もちろん濁っていて写真は撮れなかった。)こんなふうにその日見た生き物が、数えられるくらいに記憶に残っていることは珍しい。そのいずれもがどこか愛おしく思い出される。いつもこの海で泳ぐと、沢山の生き物を見るけれど、あまりに多すぎてこうして数えることができないのだ。

人生もどこかこれに似ているのかもしれない。辛いとき、先行きが見通せないとき、選択肢が少なくなってしまったとき、そんな時に出会った、少数のめぐり合わせが妙に心に残っていたりする。

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