高校演劇筑後地区大会2022を観た

初めに


 今回、ご縁があって久しぶりに高校演劇を観劇してきました。それも、私がかつて高校演劇でしのぎを削っていた筑後地区の大会を観させていただきました。一般には公開されていないとのことでしたが、それが勿体無いと思うくらいにレベルの高い演劇が発表されていました。
 コロナによって思うように部活動ができなかったであろう時期を過ごしてきた3年生の皆さんのことを思うと、とても感慨深い時間でした。演劇をする楽しさ、観劇をする楽しさを思い出す時間をいただけたこと、本当にありがとうございました。

全体の感想

 初めにでも述べましたが、非常にレベルの高い演劇しか上演されていなかったことが驚きでした。筑後地区演劇はレベルが高いと私の高校時代から言われていましたが、月日が経って完全に外側から見ることができて、確かにその通りだと思いました。
 ですから、これから書いていく感想は、全てハイレベルの演劇の中で行われているという前提で読んでいただきたいです。全ての学校が面白い演劇を発表していたことは事実ですし、全ての作品で心を動かされる瞬間がありました。ですので、多少厳しく書いているように感じられるところも、こうしたらもっと面白くなると感じたという意味で読んでいただけたらと思います。

 全体的に感じたことは、場面転換の処理の方法が暗転や青転に偏りすぎているように感じたことです。私が学生だった頃から、高校演劇では暗転や青転が多用されており、当時の私も暗転や青転が多いと言われた記憶があります。それから10年経った今でも、暗転や青転が多いということは高校演劇の定番の場面転換方法として定着しているということかなぁとも感じました。だからこそ、場面転換の方法に工夫があるだけで他の作品との差別化にもなりますし、評価されやすくもなると思います。今はネット上にも色々な作品がアップされているので、参考になる作品も見つけやすいと思います。
 冒頭でも述べた通り、どの高校もレベルが高く、かつ自分たちの個性のようなものがありました。その個性に合った作品の進行の方法を作って、代々継承して行っても面白いかもしれません。講評会で講師の方が「これはよく附設高校がやってますよね?」と言って例を挙げた時に、多くの高校生の皆さんが笑いながら頷かれていました。そういうものが、それぞれの高校にあってもいいのかなぁと、老婆心ながら思った次第です。
 しかし、どの高校の作品にも現在を生きる皆さんの葛藤があり、周囲の友人の流れに乗れないことへの恐怖だったり、親や教師といった周囲の大人への不満や失望だったり、自分を表現することへの不安だったり。それは、すっかり大人になってしまった私の心にも刺さるものがありました。また、いくつかの作品にはコロナで自分たちのチャンスを奪われたという作品もありました。これは、私も同じように表現の場を失ったり、やり方の工夫を迫られたりしましたので共感しながらも、ふと、3年間という限られた時間の中で、貴重でかけがえのない機会をたくさん失ってこられたであろう高校生の皆さんの悲痛な思いなのかもしれないと思いなおし、心が締め付けられるようでもありました。
 今年、こうして無事に開催された大会を観劇させていただけたこと、本当にありがとうございました。

久留米大学附設高校『戯王【gi:oh】』

 幕が上がって真っ先に目に入る能舞台と、その周辺に配置された学校椅子に「何を見せられるのだろう」とワクワクしました。伝統的な能舞台とは対照的な現代的でPOPな音楽(ラップ)。能舞台とは、幽玄の世界、つまり「目に見えない世界」を感じ取るための場所だと私は思っています。その上での表現物ならば、「精神世界」や「霊的世界(死語の世界?)」などに限られるだろうと予測して観劇を始めました。また、能舞台の周辺にトラスを模した舞台セットやDJブースも置かれていたことで、この芝居が古典芝居では無いだろうとも予測していました。
 これらの要素から、この芝居は現代の学生の何かしらの精神世界を描くだろうことが想定されました。実際に進行する芝居は、徐々に女子生徒の内面の葛藤にフォーカスされていく。良くも悪くも、舞台装置だけでこの芝居の流れが予測できるほどに、無駄のない舞台装置に感心していました。
 そして何よりこの芝居が劇的だった瞬間は、その約束を壊すかのように、ラストシーンでこれまでの芝居が「劇中劇」であったこと(主人公の描いた脚本だった)を明らかにするシーンでした。舞台後方の松が描かれたパネルの上から舞台を見下ろすように立った主人公の本来の姿。それは、彼女の描いた彼女自身の葛藤や、日常生活の苦しみすらも他人事として(或いはスマホの向こう側の出来事として)捉えなければ辛くて生きていけないとでも告白しているようでありました*。そんな彼女を救ってくれるのは、劇中劇の中で彼女の存在意義を脅かした女子生徒であり(おそらく主人公はこの女子生徒に嫉妬や憧れの感情があるのだろうと思われる)、彼女は能舞台周辺の椅子を薙ぎ払い、主人公が舞台を見下ろす櫓(?)ごと現実の世界に引き摺り出す。そこまでして初めて、主人公が現実に戻ってくることを考えると、現代におけるコミュニケーションは、すごくエネルギーが必要なものなのだろうと考えさせられました。
 脚本、演出、構成、舞台装置、舞台効果の全てに無駄の無い、素晴らしい舞台だったと思います。
 個人的に難点を挙げるとするならば、俳優さんの声のレベルの差が大きかったことです。全体が同じレベルの声で発されるのなら、人の耳は小さい音にもフォーカスを合わせやすいですが、人によって差が生まれるとどのレベルの音を拾うかフォーカスを絞れません。結果、声のレベルの低い俳優さんの声が聞き取れなくなってしまう。リズムとテンポが小気味よい芝居だっただけに、この点は観劇のノイズとなってしまっていたことが勿体無いと思いました。

*彼女の能舞台のケコミに、「#〇〇」という形でシーンの名前や、その時の感情、状況説明が書かれていたのは、そういった狙いもあるのでしょう。

ありあけ新世高校

 この作品の説明で「悲劇で喜劇な物語」と書かれていたことに、私は期待値高めで観劇を始めました。「悲喜劇」という難しいジャンルに高校生が挑んだという点で評価されると思います。
 極めて日常的な世界観の中で、人間の少女にしか見えない「猫」が登場し、その猫の語りから舞台が始まる。これは不条理劇の気配も感じる始まり方で、さらに期待値が高まりました。さらに、「人狼」というゲームを行なっているところから日常のシーンが始まることから、人間の中の野生的な領域や、他者を食い物にする肉食獣的な人物の話が始まるのかなぁなど色々な想像が膨らみました。俳優さんたちも、それぞれに個性的なキャラクターがあって、バラエティ豊かで観ていて本当に楽しい芝居でした。
 しかし途中から、猫の存在意義が舞台の場面が切り替わったことを告げることになってしまいました。その上で、舞台上の実際の場面転換も暗転が多用されてしまい、せっかくの猫の効果も活かしきれていませんでした。いっそのこと、猫を主軸とした不条理劇に振り切って、周囲の人間たちが理不尽な場面転換に振り回されていた方が、強烈なキャラクターである猫の存在を活かせたのかなぁと思いました。
 また、実際の脚本に書かれているだろうセリフと、アドリブのセリフの落差が大きかったことも惜しいなと思いました。私は、舞台にかなり慣れた俳優でなければ、アドリブ芝居は成立しないと考えています。どうしても、発声や呼吸、身体の使い方に大きな差が出てしまい、そのシーンのクオリティが著しく下がるからです。俳優さん一人ひとりの個性が輝いていて、芯もしっかりしていましたので、アドリブ的な要素でそこをもっと輝かせようと思っていたのかもしれません。もしそうだとしたら、実際に俳優さんの個性に魅了された私は演出家の術中にハマってしまっているのかもしれません。
 ただ、これだけ酷なことを書いてしまいましたが、この作品がもっと面白くなるポテンシャルは大きいと思ったことは事実です。舞台はもっと自由で、何をやっても大抵のことは許されてしまう場所なので、もっと好き勝手してしまったらアドリブ芝居だって気にならなかったかもしれません。

福島高校『理解』

 一言で表するなら、「ド級シリアス成長ストーリー」といったところでしょうか。高校生ならではの葛藤や、苦しみ、悩みがストレートに表現されており、それゆえに刺さるものがありました。その葛藤や悩みから逃げることなく、真っ直ぐに向き合って創作してこられたのだろうと考えると、その姿勢にただただ感心してしまいます。ラストシーンの開放感は、一種のカタルシスとなって私の心を洗ってくれました。
 しかし(これはこの作品に限ったことではないですが)、主人公を苦しめる存在、この芝居で言えば「母親と娘」が、あまりに主人公に都合の良い悪役だったことが気になりました。母親も妹も、主人公に対する悪意を隠すことなく直接伝えてくれて、それも主人公がその時に言われたくなであろうことだけをハッキリと言ってくれました。「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神様)」という言葉があります。これは、物語や聖典において、人間に都合の良い時(シーン)に神様が助けてくれることなどを指します。映画などで、主人公のピンチを神様や超人的な存在(ヒーロー)が解決してくれるシーンなどを想像してください。今作の母親と妹は、まさにこうした主人公にとって都合の良い存在として描かれてしまっているように感じました。また、そのような家庭環境にも関わらず、主人公がリビングにずっと居ることも違和感でした。見つかれば何を言われるか分からない小説を、家族が集まる場で書くかなぁと感じました。家庭の不和は、直接的な言葉以上に、「目を合わせない母と娘」、「食器のカチカチ音しか響かない食事の風景」など、細やかな表現の積み重ねの方が説得力を持って観客に語りかけてくれます。
 ここまで書いてきたことを簡単に解決させる方法として、主人公の目線だけで全てのシーンを演出するという方法があります。教室とリビングが横並びに配置されているのに、背景のパネルは同じという空間の歪みや気持ち悪さが、幕が開いた時に私が感じたワクワクポイントでした。それをもっと進化させて、教室の中にリビングがあり、暗転も使わずにシームレスに場面を転換させるために、主人公の意識が向いたシーンの登場人物が袖やパネルの奥から出たり入ったりしてくるだけで、場面は転換されます(※主人公は、常に舞台に存在し続けます)。基本的に主人公の視点のみで描かれているこの作品であれば、観客もこれが主人公の視点で芝居が進行しているという演出意図を分かってくれるでしょう。そして、主人公にとって都合の良い悪役たちも、主人公の目線だからだと解釈すれば、スッと納得できるでしょう。
 他方、月足さんの演技がとても魅力的でした。演技とは結局のところ誰かと誰かのコミュニケーションに過ぎません。彼の演技は、目の前にいる主人公に伝えることに一生懸命だったように見えました。それこそが、演技の本質であり、観客の心を震わせるエネルギーになるのです。私は、上演された全ての作品を通じて、彼の演技を見れたことが一番の喜びでした。

明光学園高校『天使の声が聞こえたら』

 この作品の衣装が個人的には好きでした。分かりやすく「天使」「悪魔」「高校生」と分かる上にキュートでした。また、実際の物を使わずにマイムで表現することで、見ている私たちの想像力を信じてもらえているようで嬉しく感じました。演劇は、実際には見えないものを想像力で見ることができます。あえて物を使わないことで、天界はどういう景色だろう?と想像することもできて、楽しかったです。俳優さんの個性も魅力的でした。
 この作品は、既成脚本だったとのことでしたが、(個人的には)この脚本のチョイスはあまり良くはなかったと思います。どういう意図でこの脚本を選ばれたのかわかりませんが、登場人物の描き方が少し雑に感じ、また、天使と悪魔という存在が語る「昔」や「良いこと」がどの時代の価値観や宗教観に従っているのかも分かりませんでした。悪い意味でのキャラクター芝居を強いられる脚本であり、描くことも小さい世界の価値観に囚われ過ぎているように感じました。講評会で、この作者の他の作品が高い評価を得ていることは分かりましたが、この脚本に限って言えば私にはあまり魅力的には感じませんでした。
 その前提の上で、こうしたキャラクター芝居を求められる場合の演出の方法として、今回のアクティングエリアの狭め方はあまり効果的では無かったと思います。場面転換にも有効に活かされていませんし、キャラクターの演じ方が「声」と「手振り」に限定されてしまいますので、せっかくの俳優さんの魅力的な個性が存分に発揮されていないように感じて悔しいなぁと感じました。こうしたキャラクター芝居であれば、通常の演技の3倍くらいオーバーに演じるつもりで、広い舞台を目一杯に使ったアクティングエリアを縦横無尽に駆け巡りながら、若い皆さんのエネルギーを存分に発揮した方が、活き活きとした舞台が作られることでしょう。演技の身体の基本がしっかりとしているので、それを活かせる演出方法を取り入れれば、場面転換の単調さも減りますし、もっとバリエーション豊かな演技を引き出せるだろうなぁと思いました。
 余談になりますが、「制約」や「不利な条件」というのは、それを精一杯克服しようともがくことで思わぬ舞台効果に行き着くことがあります。「広すぎるアクティングエリア」をどうやって活かすか、逆転の発想で作ってみたパターンも見てみたいなと思いました。

浮羽工業高校『傷ついた翼』

 今回の作品の出演者が男性だけということもあり、非常に力強く男臭い芝居で、久しくそういう芝居を見ていなかったので新鮮で面白い芝居でした。特に最後のシーンの喧嘩シーンの迫力というのは、目を見張るものがありました。また、序盤は面白おかしい男子学生の日常でありながら、後半にかけて真実が明らかになっていくという展開は、王道ではありながらも惹きつけられるストーリーでした。
 本当に良い芝居だったからこそ、「惜しい」と思ってしまう舞台でもありました。俳優さん一人ひとりのキャラクターは非常に魅力的で面白いので、発声や体幹がしっかりしてくれば、皆さんのキャラクターの面白さがもっと発揮されるでしょう。
 また、もう少しリズムとテンポの調整が必要だろうと思いました。序盤の軽快なシーンが間伸びしてしまい、後半のシリアス展開にゆったりと使いたい間との差が小さくなってしまい、リズムが少し単調に感じてしまいました。
 ただ、グッと引き込みたいシーンの沈黙や、パネルの使い方、何より思いっきりのいい大胆な演技で非常に見応えがありました。とても面白かった作品でした。

八女学院高校『ガクチカ▼』

 よく訓練された俳優さんの演技が、とても見応えがありました。俳優さんのレベルが総じて高い水準にあり、よく稽古されているのだろうと思いました。衣装もこだわりを感じ、音響と照明のレベルも高い、クオリティという面では今回の大会で1、2を争う出来ではなかったでしょうか。とても面白かったです。
 ただ、最初のセリフで「メタバース」という流行りの単語に関する説明から入りましたので、そういったメタバースの概念を取り入れた脚本なのだろうと予測していました。しかし、展開されるオンライン上の世界は、10年以上前から存在しているようなオンラインゲームの様式であり、さらにそこで挙げられているオンラインゲームとリアルの葛藤というのも古く感じました。オンラインの中で社会を形成し、そこが現実の世界であるように経済活動を行い、多面的に交流することがメタバースの基本概念だと思われます。また、オンラインゲームばかりして何になるの?と友人が訊ねますが、現・世界一位ならプロゲーマーの道もありますし、さまざまな仕事が生まれてきている現代では何かになることは想像に難くないでしょう(芝居の序盤で、主人公のアバターがメタバースについて説明していることからも、主人公は色々と調べているのではないか?とも疑問に思いました)。
 演出に関して、映像は双刃の剣だと思った方が良いです(※これは私の芝居にも言えることですが…)。俳優さんも観客も人間ですので、毎日のコンディションが変わってきますし、来場する観客も毎回違います。つまり、無常の表現物が演劇です。一方で映像は、インタラクティブな作品でない限りは常に同じです。それを多用することは、芝居のリズムが生のエネルギーを失い単調なものになってしまいます。それゆえに、途中から刺激が同じになり退屈を感じてしまったことが、少し残念に思いました。
 ただ、冒頭でも書いた通り極めて完成度が高く、終盤のシーンの絵の綺麗さはカッコ良く感じました。主人公が自分の強みに気がつき、それを力強く答える姿に思わず魅了されてしまいました。

伝習館高校『こひねがはくは』

 私にとって母校になりますので、公平な劇評はできないと思います。伝統の伝習館演劇で、懐かしい思いがしました。地元を離れた人間からすると、郷土愛に満ちた脚本に心揺れました。始まりの三味線の生音は、それだけで空間を引き締める緊張感を作り、その直後に語られる俳優さんの語りの良さも相まって、導入としてほとんど完璧ではなかったでしょうか。
 しかし、物語の登場人物が全員が良い人過ぎて、少しご都合主義的にも感じました。また私見ではありますが、北原白秋に頼りすぎなのかもしれません。現代を生きる生徒自身にもう少しだけフォーカスを分けてあげても良いのかなと思います。生徒自身のドラマが作品の主軸として生まれてくると筑後以外の地域の人々にもより届く芝居になると思います。
 また演技の方法として、呼吸の仕方に着目した演技方法であった方が人間ドラマに厚みを与えると思います。タイミングでセリフを話さず、目の前にいる俳優さんと呼吸を合わせながら演技をすることで、もっと話し方や声量のメリハリや肉感が生まれてくると思いました。
 また、舞台奥に琴や金管楽器が配置されていましたが、このエリアが強烈な印象だったので全編を生音で演奏されるか、最後に楽器がゾロゾロと運び込まれることでより心躍るシーンが生まれたと思いました。
 色々と書きはしましたが、地元に着目した心が温まる芝居でしたので、これは多くの柳川の市民の方に観ていただきたい作品だと思います。白秋の「帰去来」は地元の卒業式の定番ソングであり、白秋の無念と地元への愛情に溢れた歌です。そして、全力の演技で地元への想いをぶつけてくる俳優さんの演技と相乗することで、私の心はこの上なく震えましたので、それは他の柳川の市民の方も同じではないかと思うからです。

八女高校『テミスの天秤』

 高校演劇でミュージカルを見られるとは思っていませんでしたので、正直に驚きました。世界観の設定も凝られており、衣装や小道具もこだわりを感じました。歌もオリジナルのようで、作品ともマッチしておりミュージカルを作るという情熱を随所から感じました。また、壮大な物語にも関わらず、一人ひとりの登場人物の造形が活き活きと描かれており、特に女性的な話し方をする彼のキャラクターが印象的で面白かったです。
 余談ですが、現在私は劇団の次回作で『ソクラテスの弁明』に挑んでおり、作品説明の「法とはー正義とは」という最後のフレーズに敏感に反応していました。法哲学や正義の概念はいろいろな哲学者が取り組んできた概念であり、現代の私たちにも切っても切り離せない問題でしょう。
 ただ、舞台を見ていて細部の甘さを感じてしまいました。世界観を大事にしている小道具の中で、プレゼントだけが現代的な紙袋に入っていたり、中ー近代の西欧風の衣装の中で、カミラだけが中東地域の衣装であったり。父親が「司教」である以上、宗教的な背景があるでしょうに、他宗教的な服装をしていることは大丈夫なのかな?と心配になりました。
 演技も演出も、スタッフワークも細部にこそそのこだわりが反映されると思っています。ここまで壮大な世界観のミュージカルを作れる演劇部ですので、そういった細かな点にこだわればもっともっと面白くなると思います。

明善高校『白と玄の夜噺』

 始まりから終わりまでの演出・脚本に一切の無駄の無い、極めてクオリティの高い作品でした。個人的には今大会で一番好きな作品でした。幕が上がって始まりの演出に70〜80年代の演劇の香りを感じながら期待感を高め、落差のある上質で静かな姥捨山のワンシーン。ここまでの流れから、アングラ演劇の系譜を引き継いだ古き良き演劇が始まるのかと思っていたら、まさかの劇中劇であり、しかも登場人物の女子生徒たちはそれを退屈だと感じているという劇的な裏切り。私も思わず、心の底からショックを受けながら笑っていました。
 俳優さんのレベルも非常に高く、演出の意図するところもよく共有されていることが分かります。おそらく、相当の練習を重ねてこられたことだろうと思います。「観客に見せている」という本来は当然だけれども、舞台の上では緊張などから思わず抜けてしまう感覚を継続して持っていらっしゃるのか、観客の反応を受け止めた上での間・呼吸があり、そこからも相当のレベルの高さを感じました。
 脚本に関しても、始まりの音楽の歌詞で「助けてくれ」と老夫が叫ぶところから始まり、姥捨山と『古今和歌集』の和歌、芝居そのものが引退した指導者の再任用した老人と若者との間のギャップという3要素が過不足なく絡み合う、非常に完成度の高い脚本だと感じました。今の時代のインスタントな文化と、じっくり時間をかけて物事と向き合おうという上の世代の文化との間にあるギャップ。常に変化するのが文化ではありますが、途中をスキップ(早送り)出来ない演劇という文化をやっている私たちだからこそ感じるギャップなのかもしれません。その上で、ラストをあえて教訓めいたものにせず、お互いの適切な距離感を感じさせる落とし所で終わらせたことは、これからの時代の世代を超えたコミュニケーションの形なのかもしれないと考えさせられました。

南筑高校『教採試まであと7日』

 この大会の作品の中でも屈指の完成度の会話劇だったと思います。また、舞台装置も過不足なく配置されることで空間にメリハリが生まれ、パネルを立てずともアクティングエリアが効果的に絞り込まれていました。また、中割り幕を途中まで閉めて出入り口とすることで、全て閉めると圧迫感のある中割り幕も、気になることなくアクティングエリアの絞り込みに成功していました。会話劇として使うには広すぎる舞台も、圧迫感を感じさせずに絞り込むことで、演技がしやすく・見やすくなるので演出として非常に効果的でした。
 また、俳優さんの演技にも演出の視点が十分に反映されており、全編椅子に座ったままで展開される会話劇だと退屈になってしまいますが、会話の中で違和感なく動きが取り入れられることで、最後まで飽きることなく芝居を楽しむことができました。この大会を通じて、場面転換がある芝居が続いていましたが、ワンシチュエーションに絞ったことも会話劇に集中できた要因だと思います。
 また脚本の内容も、教員になったばかりの若者・採用試験に落ちて非常勤講師の若者・これから採用試験を受ける若者という3者の目線からの教育現場の問題、クレプトマニアやヤングケアラーといった社会問題が扱われながらも、芝居そのものは軽妙な会話がベースで進むことからスッと入ってきました。それでいて、社会問題の部分が決して蔑ろにされることはなく、深く考えさせる間とトーンで演じられる時間があることで聞き入ることができました。
 これらを成立させるのは、結局のところ俳優さんの演技があってのことです。3人の俳優さんは間とリズム・テンポ、トーンを上手く調節しながら、動きも多すぎず小さすぎず、絶妙なバランス感覚で演技されていました。これは非常に難しいことですし、日頃の練習の賜物でしょう。そして、演出とのコミュニケーションもしっかり取られ、芝居の見せ方が演劇部全体で共有されているのだろうとも思いました。会話劇の演出を苦手としている私にとって、本当に勉強になる舞台でした。
 その上で惜しいなと思ったのは、まだセリフに慣れていないのか、緊張してしまったのか、セリフに詰まるところが少し多かったことです。また、教育の現場の問題を現役の高校生に演じさせるのはアイロニーに富みすぎているようにも感じました。途中、演じているのが高校生だと忘れてしまうほどレベルが高かった芝居ですが、ふと振り返った時にそう感じました。ただ、それを演じることを引き受けた俳優さんたちが居たという事実を考えると、これは私の杞憂かもしれません。

最後に


この感想は、もし現役の方が読んでいただけたら、少しだけ演劇を続けている先輩として、何か参考になるものを書き残せたらと思って書いたものです。何様のつもりだと腹を立てる方もいらっしゃるでしょうが、私が高校生の頃、こうした感想をいただけることがありがたかったので、不束者ですが観劇のお礼のつもりで書かせていただきました。冒頭でも書きましたが、全ての作品が非常に面白かったことは本当です。また、演劇には決して正解があるわけではないので、これからも工夫しながら演劇を作ることの楽しさを忘れずにいて欲しいです。
 素晴らしい作品を見せていただき、本当にありがとうございました。
 
P.S
 この感想を書き終えた後で、久留米附設高校さんと明善高校さんが県大会に進まれたことを知りました。両校の皆さん、本当におめでとうございます。私自身、文句の付けようがないほど楽しませていただいた2作品でしたので、県大会でのご健闘をお祈りしています。


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