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伊豆大島での『初めて』について


『初めて』ってなんだろう。それはワクワクしたり、少し怖かったり、不安だったりするような気がする。
若ければ若いほど、それは日常にたくさんあって、そのたびに心がいっぱいになって、笑ったり泣いたりしながら徐々に溶けて、日常から姿を消していくような性質がある。
それじゃあ歳とってしまえばいずれ初めてがなくなるかと言ったらそうでもないはずなんだけど、日常を馴らすのが上手になったその感性は、わざわざ揺れ動くことをしなくなるのはよくある話だよね。今日はそんな事を考える。



先日、伊豆大島に行った。東京からジェット船で2時間弱で行ける外周が40キロほどの島。

透き通る海水がさざめく浜辺と、なぜかやかましさを感じさせないセミの声、それに共鳴する日差し、磯と木々の匂いが混ざる風の中を125ccのスクーターをレンタルして嫁と2人乗りでただ走り抜ける事をした。

嫁はバイクに乗る事自体が初めてだったようで、その時の出来事を「人生で1番楽しかった」と評するほど感動していた。

その体験を得てからと言うもの、日常に戻ってもとにかくご機嫌で、旅行にいく前は就き始めて間もなくまだなれていない仕事が憂鬱そうだったのが嘘のようだった。

バイクにあるていど乗りなれた僕からすれば「そんなに?」って感じで、その出来事については日常の解釈が変わるほどの感動とまでには至らなかったのが本音なのだけど、嫁のご機嫌な姿を見て考えたのがこの文章のテーマについてだった。




僕はどっちかというと飽きやすい。何か新しいことに取り組んでもその道筋の見通しがつくと、反復のフェーズに入るしか無くなっていく絶望感を『飽き』ととらえて大抵のことは投げ出してしまう。その結果出来上がるのが何をやらせても中途半端で、突き抜けることのない、何者でもない自分だ。

だから継続の中で生まれる絶望から希望を見出す術を渇望しているのが近頃の僕で、ここに文字を並べるのもその術を磨く一環のつもりとしてやっている感じがする。

そこからわかってきたのは物事の見方は一つじゃないどころかほとんど無限で、あるのは共感性の強弱だけじゃね?ってところだ。

例えば、目の前にぼくが大好きなサッポロ黒ラベルの空き缶があるとする。

これをただの空き缶と見ることもできればアルミニウムの塊かそこに使われる塗料なんかの物資として、または落下しても大丈夫そうなシルエットやロゴや色なんかのデザインとして、または麦芽を発酵させた液体の歴史、その味が決められるまでなんかの物語として、またはそこに液体をとどめて置くための空間、虚としてとか、思いつく限りでも書ききれないし、思いつきもしない見方がおそらく無数にある。

そして「これは空き缶です」と言われた時と「これは空間です」と言われた時の共感の総量に違いがあるんだ。

それでも見方を決めなきゃ不便だから「これは空き缶です」ってことにしておくんだけど、そうすると他の見方があることすら簡単に忘れるんだよな。
他の見方がわからなくなるから、絶望を絶望のままにしてしまうんだ。

それを踏まえると初めてと言えることは、実は初めてじゃないとも言える。

嫁の大島での出来事で言えば、エンジンが動かす物体に乗ること、風を切ること、人の温もりを感じること、これらは自分が『初めて』と認識できる頃には、実は部分的にはどれも体験している。見方を変えれば初めてじゃないかもしれない。

それと同時に全ての経験済みの体験と認識している『現在』は、厳密に言うと過去の出来事に似ているだけで、実は初めてと言える。全ての状況が全く同じに再現できる事柄は実質、存在しない。宇宙は広い。

『初めて』とは1つの見方であって、そうであるともないとも言える。大げさに言うと選べる気がする。

嫁にもたらされた憂鬱の転換は、別のレンズでの世界の見方を思い出したんじゃないかって、漠然と思う。

そのレンズを通して絶望を見つめれば、きっと希望が見える。

だから僕は安定した日々にできるだけ、「初めましての今日」を生きたいと思っている。





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