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人見知りをさせるオバケ

うだるような暑さだね。クーラーの効いた部屋で飲むコーヒーがいっそう美味しく感じられる日だ。真冬のコタツで食べるアイスみたいに、大きな流れの中の矛盾と快楽が自己を満足させる気がしてる。そうやって自分の機嫌をとりながら、今日は人見知りについて考える。

いくつになってもボクを含む人類の大半は度合いの違いこそあれ人見知りをしてしまうものだってのが個人的な感想でさ、それは年齢の違いであったり生まれの違いであったり価値観の違いであったりで、発現条件が個別に違いこそあれ、誰にでもわけへだてなく接するあの人でさえも「実は私、人見知りなの」とか言い出したり、誰にでもずうずうしい物言いをするあのひとですら、関係性の良好さを必要に迫られた時、逃げの姿勢を見せたりするじゃない。それがなんなのかなって考えた時に、最初に浮かぶのが恐怖でさ、さらに言うとその恐怖にどれだけ従っているかが、ここに生まれる問いを解く鍵な気がしたんだよね。

極端な言い方をするとさ、ボクらは生まれてから幾度となくして怒られてきたじゃない。それと同時に他人に対して似たような怒りを覚えたのも事実な気がするんだよね。そして自分が怒られた事を忘れた頃に、目の前の人に全く同じ形で怒りをぶつけちゃったりしちゃうでしょ。すごくありがち。

思い返してみるとさ、怒られてる時にその人の気持ちを汲み取ろうとしても上手くいかなくてさ、一歩引いてみた時にその人の頭の上あたりをよくみるとオバケみたいなのがフヨフヨ浮いていて、それはどうやら正義とか、常識とか、当たり前って名前がついてることが後からわかって来るんだよな。そいつが目の前の人に「怒っていいよ」って言ってんだ。

でもそれがわかったところでどうしようもなくてさ、とりあえずオバケの思い通りにするんだよ。怒られるのは恐いし、楽しくないから。従っていれば、恐いことは起こらなくなっていくから。そんな呼吸の仕方を覚えるといつの間にか自分にも取り憑いてるんだよね、オバケが。

自分が悲しかったり余裕がなくなったりした時にそのオバケが顔を出して言うんだよ。あいつに取り憑かせろって。だからついやっちゃうんだよね、邪王炎殺黒龍波。

そんな波動を打ったり打たれながらして大人の階段を登ったり降りたりしてなんとなく雰囲気でやってきたんだよな、ボクたちは。

でもそんなオバケだけど便利なところもたくさんあってさ、まず自分で決めなくていいってのがでかい。そしてオバケに『やらされてる』から自分に責任が及ばない感じがするのもすごい。邪王炎殺黒龍波はなんと免罪符付き。そんなん使うやろ。そしてオバケの言うことは平たくみると『なんだかんだ正解に近い』のが機能としては優秀。だからこそ、多様化した人間社会の悩みの種にもなるんだろうけど。

そして人見知りの話に戻るけど、これには二つの側面がある気がしていて、一つは違う種類のオバケ同士の殺し合いを避ける面。人類の歴史をふり返ってみても、戦争の原因の一つに『お互いに全く違う当たり前同士のぶつかり合い』があると思う。これはもうどちらがより強い波動を打てるかの競い合いにしかならない。最強を目指すか、命の危険を感じない限りはわざわざそんなことやらない。

もう一つは似たようなオバケに取り憑かれた人同士が、オバケを介してのやりとりに依存しすぎて『本当の私』の話し方がわからなくなってるパターン。『本当の私』はたいてい、幼稚でみっともないから自分で向き合うのも嫌だし、不用意に表に出せば『怒り』どころかそれよりも弱い『否定』の波動を打たれるだけで爆死するかもしれない。だからオバケにだけ喋らせて、私は出さない。

これらを踏まえて一歩踏み込むと、「波動を打たないこと」と「本当の私に喋らせる」ことができるようになった時、人見知りする必要がなくなると言えるのかもしれないね。

そしてこれはオバケに従ってるうちは到底無理で、オバケをうまく扱えるようにならないといけない。

そうするにはオバケそのものを良く観察して、その特性を理解し、必要な時に協力してくれるよう、仲良くなる必要がある。一見恐いけどね。

安易に従うな。捨てろとは言わない。それを疑い、扱え。そんな感じ。


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