見出し画像

「やること」と「やらないこと」(共感性羞恥と反面教師)

人生の中で尊敬できる人を見つけることは、そう容易いことではないと感じている。むしろ、自分とは価値が合わない人、理解できない人の方が多いのではないだろうか。

だからこそ、僕は反面教師という考えを大切にしている。僕の価値観や行動は半分以上、反面教師からできていると言っても過言ではないくらいだ。

学生時代、飲食店のアルバイトをしていた時、ごく稀にお客様から理不尽なクレームを言われることがある。僕は業務の役割の関係上、お客様の前で接客をすることが少なかったので、その現場を客観的に見ることが多かった。

その現場を見ている時、僕に1番最初に襲ってくる感情。それは羞恥心だった。「他のお客様も大勢いる前で、よくこんなにも恥ずかしいことができるな」とこっちまで恥ずかしくなるのだ。

話は少し脱線するが、『共感性羞恥』という言葉を知っているだろうか?共感性羞恥とは他人が恥をかいたり、怒られたりしている状況を見て、自分も当事者のように恥ずかしくなってしまう心理のことを指す。

この記事を読んでいる人の中にも、共感性羞恥を経験したことがある人がいるだろう。ある研究では約3割の人が共感性羞恥を感じたことがあるという結果が示されている。バラエティー番組でお笑い芸人がスベっている場面や他人がやっている結婚式の余興を見て、つい目を逸らしたくなった経験があれば、それが共感性羞恥だ。

なぜ、共感性羞恥のことなど書いたのか。それは紛れもなく、僕がその共感性羞恥の持ち主であるということ。そして、この感性を持っていることにより、反面教師という考え方が子供の頃から構築されていたと考えているからである。

話を飲食店でのクレーマーの件に戻そう。当時も僕は共感性羞恥を発症していた。まるで自分がクレーマー本人の立場にいるような辱めを感じていた。そして、その後に生じる感情はいつも同じ「こんな人にはなりたくない」という反面教師に繋がるのだ。

物心のついた時からそうだった、第三者から見て恥じるべき行為を目にすると、「こんな大人にはなりたくない」と漠然と感じていた。自分でも無意識のうちに、「こんな人になりたくないリスト」というのを脳内で作っていたのだ。そして、僕はそのリストに書いてあることを絶対にしないと決めている。

「何をするべきか」も大切だが、それは案外難しいものだ。それならいっそ、「何をしないか」に焦点を当てて考えるのも一つの策だと思う。近くにいる反面教師をじっくり観察してみよう。

反面教師とはその名の通り「教師」である。「こんな大人にはなるなよ」と自分の身を犠牲にして僕らに伝授しているのだ。ありがたく学ばせてもらおう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?