ヴィヴェイロス・デ・カストロ「強度的出自と悪魔的縁組」の要約

Viveiros de Castro, Eduardo 2010 “Ch.10 Intensive Filiation and Demonic Alliance.”
In Deleuzian Intersectoins: Science, Technology, Anthropology. Jensen, C. B. and K. Rödje eds. Berghahn.
里見龍樹による要約。2010年5月
注:()内はページ数、〔〕内は里見による補足

[主な用語]
alliance(縁組関係、婚姻を通じた連帯・同盟関係)/filiation(親子関係)/affinity(姻族関係)
multiplicities(多様体)、becoming(生成変化)
extensive/intensive(外延的/強度=内包的)、actual/virtual(現勢的/潜勢的)
disjunctive synthesis(分離的〔離接的・選言的〕綜合)

[主な論点]
・現代の人類学理論(ストラザーン、ワグナー、ラトゥール)とドゥルーズ哲学の並行性(I)
・ドゥルーズ哲学を踏まえた人類学的親族論の再構成の可能性(II):『千のプラトー』の「縁組関係」概念に、「人間」の限界を超えた「差異と多様体としての親族関係の理論」(230)の可能性を読み取る
・「親子関係/縁組関係」の関係に読み取れる、『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』への転換:「種内的な地平an intraspecific horizon」から「種間的な地平an interspecific horizon」へ(238)
・ドゥルーズの哲学と自身の人類学理論/アマゾン地域民族誌との親和性・共通性の指摘(視点の交換(cf. 225のズーラビクヴィリの引用)、「人間でないものnon-human」など)
・レヴィ=ストロースの親族(・神話)論への筆者自身の批判/評価。具体的には『親族の基本構造』/『神話論理』(図式的に言えば初期/後期レヴィ=ストロース)
・ドゥルーズ、ガタリの反「交換主義」(とくに『アンチ・オイディプス』における)を超え、また人類学の伝統(とくに構造主義)における「社会の生産」としての交換概念(244)に対し、ドゥルーズ的な「交換」概念を構想する必要性

以下、本文の要約
[ドゥルーズと人類学Deleuze and Anthropology]

筆者の世代にとって、ドゥルーズの名前は1968年前後の時代を特徴付けた思考の変化を直接に連想させるが、筆者は、「1968年」およびドゥルーズ、ガタリの影響はいまだ始まっていないままにとどまっていると考えており、これは社会人類学についても当てはまる。ドゥルーズ哲学の新しさは、西洋世界における過去30年間の対抗文化的・対抗政治的な運動(フェミニズムや実験芸術)によって感知され、その後科学技術論などの自己人類学的auto-anthropologicalな企てに取り込まれたが、他方、人類学一般、あるいは他=人類学allo-anthropologyとドゥルーズ的な諸概念を直接に関らせる作業は驚くほどに乏しい(219)。これが驚くべきであるのは、ひとつには、『資本主義と分裂症』を構成する2巻である『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』が、非西洋世界の人々についての文献を広範に援用し、人類学にとっても多大な分析的可能性をもった仮説を展開させているからであり、また、ワグナー、ストラザーン、ラトゥールら過去20年間のもっとも革新的な人類学者たちの仕事が、ドゥルーズの思考との明確な結び付きを示しているからである(219-220)。これら3人の人類学者が「ポスト構造主義者」とある程度適切に呼ばれうる人々であることは偶然ではなく、ドゥルーズの思考も、構造主義からそのもっとも独創的な知見を引き出し、まったく異なる方向へと進もうとするものであった。けっきょくのところ多様体multiplicityとは、超越性とのあらゆる共謀関係からようやく解放された構造以外の何であるだろうか?(220)

本章で筆者は、ドゥルーズの概念とワグナー、ストラザーン、ラトゥールの仕事のいくつかの並行関係について述べるが、〔他方、〕これらの論者がその一部をなしているような、より広範な文化的マトリックス、知的な配置のようなものがたしかにあり、このため〔現在〕ドゥルーズ、ガタリの本を読む人類学者は、奇妙な、時間的に逆転した既視感を抱かずにはいられない。事実、人類学において、最近になってようやくスキャンダラスな調子を失い始めたような記述の技法や理論的な視点の多くは、20~30年前のドゥルーズ、ガタリの著作に、ひそかにではあるが力強く結び付けられている(220-221)。

ドゥルーズとガタリのテクストの人類学的な価値を正確に評価するためには、人類学が今日その中に置かれている諸力の布置を記述することが必要だが、一般的には、ドゥルーズは、現在影響力のあるある種の概念的な美学conceptual aestheticの形成に大きな役割を果たしたと言える。現在「言語論的転回」は逆の方向を向きつつあるように見え、そこではモデルとしての言語からの脱却が他ならぬ言語のモデルの中に見出されているのだが、言語と世界の間の存在論的な断絶という古くからの前提は時代遅れになりつつある。〔言語に対する視点の変化に対応して〕「世界」の側でも、全体や組み合わせに代えて断片的・微分的なもの、階層秩序的な全体性に代えて平面的な多様体などに重点が移されている(221)。一方の、シニフィアンとシニフィエのそれぞれ同質的な系列と、他方の、現実(実在)の現象学的に連続的な系列の間のモル的な非連続性は、分子的あるいはフラクタル的な非連続性に次第に分解されつつあるのであり、認識論(言語)と存在論(世界)の区別が崩壊して「実践的存在論practical ontology」(Jensen)が生まれつつある(221-222)。

以下で筆者は、このような現代の概念的美学のごく一部分を描き出すが、例として、ドゥルーズ哲学と現在の人類学との対話を強化するための2つの方向性を提案する。第一部(I)では、ドゥルーズの概念と現代の人類学で影響力のあるモティーフのいくつかの並行関係を指摘し、第二部(II)では、古典的な社会人類学における親族理論がドゥルーズ、ガタリの「未開の領土機械primitive territorial machine」概念にどのように投射されているかに注目する(222)。

I [多様体の反社会学An Anti-sociology of Multiplicities]
『アンチ・オイディプス』においてドゥルーズとガタリは、欠如としての欲望という反動的な概念を打ち砕くことによって精神分析を転覆し、あくまで肯定的な生産性としての「欲望する機械」の理論をそれにとって代えているが、この理論は一見古風な「未開/野蛮/文明」という普遍史universal historyの展望へと至っている。しかしこのような『アンチ・オイディプス』の目的は、単に精神分析を糾弾することではなく真の「反社会学」を打ち立てることにあり、こうした試みには、人類学を救いがたく拘束する「自然/文化」、「個人/社会」、「伝統的/近代的」という3つの二分法の彼方に広がる広大な領域を探索しようとする現在の人類学に訴えるものがあるはずである(222-223)。

『千のプラトー』は、『アンチ・オイディプス』の精神分析的な関心からは距離をとり、現代の人類学においておそらくもっとも反響の大きい多様体multiplicitiesの理論を提示している。多様体は新たな種類の実在を定義するメタ概念――「リゾーム」はその具体的なイメージである――だが、それは本質と類型という古典的な哲学的観念を退けることをねらいとして創出されている。多様体は、思考を同定・同一化(認識=再認)や分類(範疇化)とは異なる活動として考え、外延的な実体extensive substanceではなく強度的な差異intensive differenceとして思考するとはどういうことかを明らかにしようとする努力の主要な道具である。その政治哲学的目的は明らかに、概念と国家との結び付きを断ち切ること(「プラトン主義を転倒させる」)にあり、多様体を通じて考えることは国家に抗して考えることである(cf. クラストル)(223)。

リゾーム的多様体は、ひとつの存在beingではなく〔さまざまな〕生成の集まりan assemblage of becomingsである。最近の著作でANTがリゾームの概念にどれほど多くを負っているかを示しているラトゥールは、いかなるものthingでもネットワークとして記述されうる以上、ネットワークはものではなく視点perspective、しかも内在的な視点であるということを強調しており、〔ドゥルーズの言葉によれば、〕ものに対する視点があるのではなく、むしろもの・存在がそれ自体として視点であることになる(223-224)。

多様体は統一性unityを根本的に欠いており、つねにそれ自身に対して異なるものであり、「多それ自体に属し、システムを形成するのに何らの統一性を必要としない」内在的な組織を実現する。これにより多様体は、階層秩序やその他いかなる超越的統合・単一化にも抵抗する「横断的transversal」な複雑性――議論を先取りすれば、出自descentではなく縁組関係allianceの複雑性――をもつシステムとなる。リゾームは、「部分」と「全体」の区別を無視するラディカルに平面的な存在論flat ontologyを投影する。こうした純粋な差異の存在論は、人類学史が通常そこに帰着してきた、「古典的」な機械論的分子論(「個人/社会」の二分法と関連)と「ロマン主義的」な有機体論的全体論(「自然/文化」の弁証法をともなう)の間の往復運動から逃れるものであり、「ポスト構造主義的」と分類されるべきものである。ワグナーの「フラクタルな人格」、ストラザーンの「部分的つながりpartial connections」、カロンとラトゥールの「社会的・技術的ネットワーク」などは、人類学においてよく知られた平面的な多様体の例である(224)。

ズーラビクヴィリは、ドゥルーズの哲学は「関係の第一義性primacy of relations」を前提としているとするが、多様体を定義するのは、項の間の結合connectionや接続〔連言〕conjunctionではなく、ドゥルーズが「分離的〔離接的・選言的〕綜合disjunctive synthesis」あるいは「包含的分離〔離接・選言〕inclusive disjunction」と呼ぶところの、類似性や同一性ではなく分岐や距離を原因・目的とする関係性の様態であり、それは「生成変化becoming」と同じことである(224)。それは差異が弁証法的な矛盾や止揚に引き寄せられることを逃れるような遠心的運動であり、〔ズーラビクヴィリによれば、〕「ドゥルーズのもっとも根源的な洞察とは、おそらく次のようなことだ。すなわち、差異とはまた異質なものの間のコミュニケーションであり伝染でもある、言い換えれば、分岐は視点〔同士〕が相互に感染し合うことreciprocal contamination of points of viewなしには決して起こらない、ということである……つながることとはつねに、他ならぬ諸項の異質性を通じ、距離を越えてコミュニケートすることなのである」(224-225)。

ドゥルーズのこうした「関係」概念は、ストラザーンにおける「関係としての分離separation-as-relation」と並行的であり、単純化すれば、視点の交換にして関係的な折り込み/展開の過程としてのメラネシア的社会性という記述は、他=人類学的な「分離的綜合」理論の原型をなしているということができる。また、リゾームの加算的というより減算的な多数性は、リゾームを部分/全体論的でないnon-merological、ポスト多元(論)的post-pluralな「対象」にするものであり、ストラザーンが人類学的分析にとっての罠であるとする一と多のジレンマから逃れる道を示す(225)。

多様体の比較においては差異こそが異なるものなのでありit is the differences that differ、ワグナーがダリビの人々との初期の関係について、「彼らが私を誤解している仕方は、私が彼らを誤解している仕方と同じではなかった」と述べているように、差異というものはけっして同一ではありえない以上、道は両方の方向で同じではありえず、多様体の比較――多様体の生産としての比較――はつねに分離的綜合である(225-226)。

[部分的な二元性Partial Dualities]
ドゥルーズの著作には対概念(差異/反復、強度的/外延的、遊牧的/定住的……)があふれているが、これらは実際には、二元論を解除し「多元論=一元論」にたどり着くための手段・経路である(226-227)。ドゥルーズにおける二元性はまた、「部分的二元性partial dualities」とでも呼ぶべき最少の多様体として規定されており、外延的extensive・現勢的actualな第一の極と強度的intensive・潜勢的virtualな第二の極がまず設定されるのだが、分析により、前者から見ると後者との関係は対立oppositionのそれ(外延的・モル的・現勢的な関係)だが、後者から見るとそこにあるのは「強度的な差異intensive difference」、前者の後者への「折り込みimplication」あるいは「分離的綜合」であることが示される(227)。2つの極のこうした関係は、因果関係やミクロ=マクロの変換関係、表現の関係などではなく「相互的な前提reciprocal presupposition」(『千のプラトー』)の関係であり、人類学的にはこれを、ワグナーにおける「創造invention/慣習convention」や、ストラザーンにおける、つねに一方が他方の変容として記述される諸々の対(cross-sex/same-sex、mediated/unmediatedなど)と関連づけたくなる(227-228)。

〔『千のプラトー』における〕リゾーム的な地図と樹状的な複写の関係がそうであるように、相互的前提は非対称的な関係であり、そこにはつねに、潜勢的なものの現勢化actualization(差異が外延、経験的事実へと展開されることによって消失する)と反=実現counter-effectuation(差異の創造、折り込み、すなわち出来事あるいは生成変化)という2つの異なる運動があることになる(228-229)。こうした非対称性は、ワグナーにおける「創造=差異化」と「慣習化=集合化」という象徴作用の2様態の関係や、ストラザーンにおける贈与と商品の関係に類似していると思われる(229)。

II
本章の第二部では、ドゥルーズの概念体系において主要な位置を占める「強度的なものthe intensive」と「外延的なものthe extensive」の区別(非対称性)が、『資本主義と分裂症』でなされる、古典的な人類学的親族論の2つのキー概念、すなわち「縁組関係alliance」と「親子関係filiation」の再解釈に対してもつ意義について論じる。これらの概念の扱い方には、『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』の間で生じている重要な理論的ずれが明示されており、またそこには、人類学的親族論を、他領域における近年の「非人間論的non-humanist」展開に沿ったものへと変容させる可能性が示唆されている(229-230)。問題は、伝統的に〔親族関係を通じての〕「ホミニゼーションhominization」〔人間が人間になること〕の社会的座標とみなされてきた縁組・親子関係の概念を、人間を超えたものextra-humanへと開かれたものへと変容させることである。もし人間性がもはや本質ではないならば、親族関係から何が導き出されるべきなのか?(230)

50~70年代の人類学において親族関係の2つの対立的なとらえ方を表していた縁組関係・親子関係の概念は、かつての意義を失ってしまっているが、以下では、古典的な親族理論のいくつかの部分を復活させうることを示唆する。問題はもちろん、かつての親族理論に戻ることではなく、親族のリゾーム的な概念化の外形を示すことである。出自理論が実体と同一性の観念を、縁組・婚姻連盟の理論が対立と全体化の観念をその抽象的な原型としてもっていたとすれば、ここで示唆されている視点は〔これらに対し〕、ドゥルーズ哲学に差異と多様体としての親族関係(包摂的分離としての関係)の理論のためのいくつかの要素を求める(230)。

[交換に抗してAgainst Exchange]
〔『アンチ・オイディプス』における親子関係/縁組関係〕

『アンチ・オイディプス』における人類学的親族理論の再構成は、レヴィ=ストロースの構造主義を主な対話の相手、論争の対象として多くの文献を動員している。この著作は、親族理論という限られた視点から見ても革新的なものであり、欲望を直接に社会的なものであるとし、家族を欲望の第一の参照点とすることを拒絶することによって、当時多くの人類学者たちに擁護されていた反外延的anti-extensionist・反系譜学的anti-genealogistな立場を哲学的に正当化しており、この議論は今日なお重要である(230-231)。

『アンチ・オイディプス』における問題は、関係性の構成的=強度的な概念と統制的=外延的概念化の対比だが、インセストの不可能性についてのドゥルーズ、ガタリの議論は、インセストの禁止のトートロジー的な性格についてのワグナーの指摘と一致する。構造主義的な親族論は、インセストの禁止を社会の生成sociogenesisの条件とする超越論的な推論に立脚していたが、ドゥルーズ、ガタリは、これをオイディプス的思考の人類学的一般化として退ける(「交換主義的社会概念exchangist notions of society」の唱導者としてのレヴィ=ストロース)(231)。

しかし、『アンチ・オイディプス』における親族理論の反オイディプス的再構成は部分的あるいは不完全である。それは社会性の「人間論的」あるいは人間中心主義的な概念化につなぎ止められており、「ホミニゼーション」という経験的=形而上学的問題につきまとわれている(一種の「精神分析的理性批判」としての『アンチ・オイディプス』の限界)(231-232)。『アンチ・オイディプス』における「交換主義的諸概念」への批判は、縁組関係と交換ではなく親子関係と生産を第一義的であるとするオイディプスの対抗理論に立脚しており、そうした意味で『アンチ・オイディプス』は反構造主義的な著作となっている〔『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』への変化・転換はこの限界に関連〕(232)。

[強度的親子関係Intensive Filiation]
対立する利害の綜合としての交換の主題に対抗して、『アンチ・オイディプス』は、欲望の流れをコード化する社会的機械(コード化された「欲望する生産」としての社会的生産)という公準を前面に出している(「すべては生産である」)。『アンチ・オイディプス』第3章では、「未開の領土的機械」とその「縁組関係と親子関係の語形変化declension」が論じられ、「親子関係は、未開の機械によって二重に屈折させられる」とされるが、ここでは縁組関係は親族関係、あるいは禁止としてのインセストに先行して存在する親子関係を拡張(外延化)しコード化する、すなわち現勢化するために現れるとされる(232-233)。

この議論は、主にグリオールらによって収集されたドゴンの起源神話の解釈に依拠しており、この神話は親子関係を原初的な要素とし、縁組関係を、リネージ間関係を差異化する付随的な次元として規定している。ここでわれわれは古典的な「アフリカニストの」言説の中におり、そこでは、強度的で原初的である親子関係にもとづくリネージが、縁組関係による「抑圧」によって社会という物理的空間へと展開あるいは現勢化されるとされる。これはあたかも、ドゴンの人々が、潜勢的・強度的な水準においては出自理論的で、現勢的・外延的な水準においては縁組理論的であるかのようであり、そこでは、強度的な条件から生まれた外延のシステムが〔逆に〕前者〔強度的な条件〕を抑圧し、前者には神話的な表現しか与えられないことになる(233)。

この〔ドゥルーズ、ガタリの〕分析において決定的なのは、強度的な親子関係が分離的綜合――多様体の体制の特徴――の操作子として、縁組関係が結合的綜合あるいは(2つのもの・人の)組み合わせpairingの操作子として規定されていることである。もし、親子関係という強度的な秩序において、〔ドゥルーズ、ガタリの言うように〕個人や性別のいかなる区別も形成されていないとするならば、そこでは種のいかなる区別――とくに人間と人間ではないものの区別――も知られていないということになる。神話においては、すべての行為者が、存在論的に異質であると同時に社会的に連続的である単一の相互作用の場に配備され、「そこ」には人間というものは存在しない。あるいはむしろそこではすべてが「人間」なのである。そしてすべてが人間である場合には、人間とは何かまったく別のものである〔ことになる〕(234)。

問題は〔『アンチ・オイディプス』の議論とは逆に〕分離的綜合としての、強度的で非オイディプス的な縁組関係の概念を想像することであり(234-235)、そのためには、レヴィ=ストロース的な親族論から『アンチ・オイディプス』以上に距離をとり、かつ交換の概念を適切にドゥルーズ的な、あるいは「倒錯した」解釈に供さなければならない。このことは少なくとも、親族関係の原子を排他的な選択肢によって記述する(この女性は私の妹か妻のいずれかであり、あの男性は私の兄弟か私の妻の兄弟のいずれかである、というように)ことを放棄し、包含的あるいは非制約的な選言によって言い直す(この女性はたしかに私の姉妹か妻なのだが、しかし「その双方に同時に属し」、姉妹たちの側においては姉妹であり、妻たちの側においては妻である)ことを意味する(235)。

〔ストラザーンの用語を借りて〕人類学的に言い直せば、私の妹が私の妹であるのは彼女が他の男性の妻である限りにおいてであり(逆も同様)、私と私の義理の兄弟の同性関係は私と私の妹/妻の異性関係によって生み出されるというように、異性関係はその内的な差異の可能性を同性関係へと伝える。関係する〔それぞれの〕項がもつ2つの側面は、〔それぞれの〕項にとって「つねにすでに」内的であるような分割をつくり出し、すべてが二重化する(235)。こうした複雑な二重化は、ドゥルーズ、ガタリがプルースト論において、同性愛とジェンダーについて論じているものである(235-236)。

[悪魔的縁組関係Demonic Alliance]
〔『千のプラトー』における「縁組関係」概念〕

縁組関係の強度的な解釈の可能性は、『千のプラトー』で事実上打ち立てられているが、『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』への多くの変化の中でも本章の視点から見てもっとも重要な変化は、生成変化becomingの概念が展開される10番目のプラトー「1730年:強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること」において導入されている。生成変化というベルグソン的概念は、レヴィ=ストロースの構造主義における関係の2つのモデル、すなわち系列的・供犠的論理(人間と動物の想像的同一性)と構造的・トーテム的論理(社会的差異と自然的差異の象徴的対応関係)のいずれにも還元されえない現実的で分子的・強度的な関係として導入されている(236)。生成変化は生産でも親子関係でもないとされており、われわれはもはや『アンチ・オイディプス』にいるのではない(237)。

『アンチ・オイディプス』における「生産」と同様、『千のプラトー』における反表象的な(表象の働きを封じる)概念の最たるものが「生成変化」の概念だが、生産と生成変化は、ある意味では同じであるがまたある意味/方向sensでは同じでない。〔『アンチ・オイディプス』において〕生産が人間と自然の同一性が実現される過程であり、自然は生産の歴史的過程として明らかになるのに対し、生成変化は人間と自然の非自然的な融即unnatural participationであり、異質なものの間の瞬間的あるいは非過程的な捉え込み、共生、横断的なつながりの運動である。生成変化は反生産的である(237)。

「宇宙は親子関係によって機能しているのではない」(『千のプラトー』)とすれば、筆者は、宇宙は縁組関係によってのみ動いているのだと結論したくなる(237)。事実〔『千のプラトー』では〕、「樹木は親子関係だがリゾームは縁組関係である」、あるいは「生成変化はつねに親子関係とは異なる秩序に属する。それは縁組関係に関わっているのだ」と述べられているのである(237-238)。

『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』への、親子関係の位置付けのこうした変化は、分析の焦点が、種内的な地平an intraspecific horizonから種間的な地平an interspecific horizonへと、〔言い換えれば〕欲望の人間的経済――家族的あるいはオイディプス的ではなく世界史的・種族的・社会政治的ではあるが、しかしそれでも人間的な欲望――から、属や種の自然的秩序とその制約的な綜合を無視し、内在性の平面において「われわれ」を離接的に包含する、種を超えた情動affectsの経済へと移されたことを反映していると思われる。欲望の人間的経済からすれば、外延的な縁組関係は強度的で分子的な親子関係を制約するものとしてあったが、〔逆に〕情動の宇宙的経済からすれば、今度は親子関係の方が、根本的に異質な存在の間の、非自然的であると同様に現実的な縁組関係――スズメバチとランの花の共生関係を一例とする――を制約することになる(238)。

『アンチ・オイディプス』で強度的/外延的という2種類の親子関係が設定されていたように、いまや2つの縁組関係が現れる(238-239)。文化的で社会=政治的な外延的縁組関係と、生成変化に固有の、非自然的でコスモポリティクス的な強度的縁組関係がそれであり、前者が親子関係を区別するとすれば、後者は(シャーマンが豹に生成変化する場合のように)種〔の区別〕を混乱させる(239)。生成変化についてのこうした記述は、構造主義的親族理論に特徴的な、一方の親子関係、メトニミー的連続性、系列的類似性と、他方の縁組関係、メタファー的非連続性、対立的差異という(あるいは、自然に属する親子関係と文化に属する縁組関係という)モル的な対比の中間を行くものであり、ここでは新しい縁組関係が問題になっている(239)。

10番目のプラトーの「ある邪術師(魔術師)の思い出、その2」という節〔邦訳281-286ページ〕において、ドゥルーズ、ガタリは、ピエール・ゴードンとカラム=グリオール〔のアフリカ民族誌〕を引いて、動物〔になる〕人間were-animalsとの「悪魔的な縁組関係demonic alliance」について述べている。これはインセストを禁止し親子関係に従属されるような縁組関係に対し、必然的にインセストの立場をとる反親子関係的な縁組関係anti-filiative allianceである(239-240)。またこの箇所から、縁組関係の概念は、制度あるいは構造を指示するものではなくなり、力(power, force)、潜在性、あるいは生成変化になる(形式としての縁組関係から力としての縁組関係へ)。われわれはもはや、トーテミズムの構造的=神話的世界でも供犠の系列的=神秘的世界でもなく、生成変化の現実的=呪術的世界にいる(240)。

これはまた、契約、あるいは交換・利害関係の世界でもないが、しかし、商品経済的な意味で「交換主義的」ではない交換というものがあり、すなわち他ならぬ負債あるいは贈与交換、人々が、目に見える人称化されたpersonified(譲渡しえないinalienable)ものを動かすことによって見えない視点を移す(対抗して譲渡する〔?〕counter-alienate)二重の捉え込みdouble captureの運動がそれである。贈与行為の要点とは、相手を行為させる、他者から行為を引き出す、反応を引き起こすということにあるのであり、すべての行為が他の行為に対する〔を受けての〕行為として「社会的」である限り、すべての社会的行為は「贈与」の交換である(240-241)。

[アマゾン(地域)的縁組関係Amazonian Alliance]
『千のプラトー』で提示された2種類の縁組関係の区別は、アマゾン地域に関して民族誌家たち〔筆者自身〕によってなされてきた区別、すなわち強度的あるいは潜勢的な姻族関係affinity〔用語がここでallianceからaffinityに移行〕と、血縁関係consanguinityに従属させられた外延的あるいは実効的な姻族関係の区別に密接に対応している。アマゾン地域の社会では、地域的かつ双系的な〔集団内部での〕「規定的内婚」が支配的であり、姻族関係という特有の関係は血縁関係(あるいは親子関係)によって隠蔽あるいは中和されており(姻族も双系的親族・血族とみなされる、呼ばれるなど)、「理念上の集落〔居住集団〕の内部には姻族関係は存在しない」とさえ言われる。しかしこのことは、姻族関係がどこか他のところ、具体的には集落の理念上の外部に、「理念的な」(強度的な)姻族関係として存在していることを示唆するものと考えられる。というのも、地域的な関係からより広範な文脈へと視点を移すと価値の配分が逆転し、姻族関係こそが社会性の全体的な様態になるからである(241)。

アマゾン的社会性において、縁組関係が地域的に集約され覆い隠されているのに対し、超地域的な関係は一定しない混合体であり、種の境界をもまたぎ越え、動物、植物、霊や神々もが人間とのそうした綜合的=離接的関係に加わるが、これらの関係は姻族関係の用語によって表現される。他者(客人、友人、異邦人、敵、動物、霊など)とはまずなによりも姻族affineなのである(241)。

婚姻が(望まれる)選択肢ではないような場合に現れ、親族関係や生殖とは異なる生産性をもつこうした姻族関係は、明らかに、ドゥルーズ、ガタリの言った「第二の種類の縁組関係」に属する。それは親族関係に先行し外在する戦争機械の一部であり、親子関係が超越性(出自集団、起源、祖先)の種子として機能することを妨げるという意味で、親子関係に抗する縁組関係である。あらゆる親子関係が国家を投影するのに対し、アマゾン地域における強度的縁組関係は国家に抗する縁組関係である(cf. クラストル)(241-242)。

アメリカ大陸先住民の神話と文化の起源に関するわれわれの神話論(具体的には、火の起源についての神話)を比較すると、後者において親という立場parenthoodが支配的であるのに対し、前者では姻族関係(妻を与える、あるいは受け取る動物などの形象)がそうであるという差異がまず目に付く(242)。神話は所与の(与えられた)ものについての言説を構成するとされるが(cf. ワグナー)、アメリカ大陸先住民の思考にとって、そうした所与は親子関係や親としての立場にではなく、婚姻や姻族関係、それもとくに動物の、あるいは人間ではない姻族との関係に関わっており、この人間でないものとの縁組関係こそがアマゾン地域における「システムの強度的条件」を定義している(242-243)。

[生産と交換Production and Exchange]
『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』は社会体sociusの「交換主義的」な概念への拒絶に貫かれているが、これらの著作の間の、生産から生成変化への移行によって、こうした反交換主義的な立場はどうなるだろうか。『アンチ・オイディプス』における生産概念は、人類学においても一般的なマルクス主義的生産概念――この概念とそれに付随するもの(支配、虚偽意識など)によって、「交換主義的」な立場が批判される――と同一ではない(243)。生産概念をこのように区別することができるならば、同じように、構造としての縁組関係と生成変化としての縁組関係を区別し、それによって契約論的な縁組関係概念を掘り崩すこともできるといえる。『アンチ・オイディプス』における生産概念が、政治経済学における生産概念を転覆しつつもそれに多くを負っているように、アマゾン的な縁組関係も、レヴィ=ストロースの親族理論の内に潜勢的に存在しているのであり、後者の反オイディプス的で(自己)転覆的な可能性が発揮されなければならない(244)。

問題は究極的には、非契約論的かつ非弁証法的な、他になることbecoming-otherの様態としての交換の概念を想像することであり、縁組関係は、親族関係に特有の「他になること」の様態である。縁組関係の機械的でリゾーム的な水平性は、親子関係の有機的で樹状的な垂直性よりもドゥルーズ哲学に近いものであり、問題は、縁組関係を親子関係の管理・統制から解放して、その「怪物的」すなわち創造的な潜在力を解き放つことである。交換に関して言えば、通念とは異なり、それは生産に真に対立する概念であったことはなく、人類学において交換は〔むしろ〕生産の卓越した形式として、すなわち社会の生産として扱われてきた。そうであるとすれば問題は、交換のヴェールの向こうに生産の真実を明らかにすることなどではなく、交換の概念を、親子関係と主体化に関わる生産の抑圧機械の内部でのあいまいな機能から解放し、その本来の境地である生成変化の境地へと送り返してやることである(交換、あるいは視点の循環・流通the circulation of perspectives、交換の交換、すなわち変化)(244)。

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