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【究極思考00001】

 常に思考は固定も確定もされず揺れ動き振動を繰り返し一定化しない。
書かれた思考の結果と異なり、思考は脳の中で浮遊し、定まることはないかのようだ。しかし、その揺れ動きの中にこそ確かな思考の核心のような何かは存在しているのではないか。その揺れ動きの自体そのものの中にこそ存在しているのではないか。定まっていないとすれば、その最たるものの代表=象徴として考えられるのは、まさに日本の現代アート、アートであると言って過言ではないだろう。
 他国とは異なり、明治時代の文明開化は、ARTを美術、藝術と翻訳し、その概念ともども輸入し、西洋に追い付け追い越せで、特にドイツ19世紀の絵画や彫刻を模倣した地点からスタートした。その後に海外の技術を採用し油彩を中心とする洋画、岩絵の具など日本独自の絵具を用いる日本画(明治より前の日本の絵画とも当然のこと異なる)、それら新しい日本の絵画や彫刻を国が後押しして大衆に知らしめる公募団体展。それらがいかに捏造され、日本のアートを歪めて来たかは、多数の著作で指摘されてもいる事実であり、そのことを今更攻撃してもどうにもならない。たとえば普通にアート後進国であれば、その国独自の伝統的アート、そして新たに輸入され新たに描かれ制作される現代アートがあって、そこで切磋琢磨もしようし、海外へも挑戦に行きもするだろう。
 しかし、日本の場合は、江戸時代までの神道や仏教を背景に、侍や将軍、天皇家などに向けられたさまざまな絵画や庭園の歴史があるにしても、明治時代になって、それらとは全く異なる洋画・日本画・公募団体組織が新しく生れ、第二次世界大戦に敗戦して以降は、新たに現代の美術として現在のアートとして、欧米から新しい動向が輸入されるとともに、日本の美術のガラパゴス化に拍車がかかり、取り残されて行くだろう。それをとやかく言っても始まらないのだけれど。
 しかし、多くは語らないが、日本の美術、現代アート、呼び名はどうでも良いが、現在日本の美術は歪んでしまい、正当な価値をも見い出せず、コレクターも作家も日本という狭い陥穽に多くは疑問さえ呈せず埋もれていると言える。最もひどいのは、欧米の世界標準の現代アートを無視し、江戸時代までの過去の歴史に遡って骨董趣味に陥り、過去を懐古するしかないか、果ては、洋画や日本画や公募団体組織を推奨・擁護して何の疑いも持たない。
 あげくの果ては、世界標準の現代アートなど見向きもせず、ただきれいな絵画しか受け付けない、そんなガラパゴス状態が蔓延している。それを如実に象徴していたのが、トリック・アートや時間と手間ばかりかかる写実絵画、具体的な事物を緻密に写し取ることに専念した切り絵やデッサン、チームラボに代表されるスペクタクルなインタラクティブなプログラムだ。時間と手間が必要な緻密な作品しか評価できない程に思考は衰退してしまったということか。
 そこではゴッホやモネあたりを評価するので精一杯で、デュシャンに至っては無視を決め込むしかないかのようなのだ。そして、そういう層が大勢を占めているのだと言っても過言ではない。それは、公募団体組織が、その存続の価値自体をずっと疑問視されながらも、多くの会員を抱えて、その幾つもが明治時代から昭和時代を通じて令和に至っても存続し得ていることに如実に象徴されている筈だ。美大を卒業して現代アートに興味を示し、また、作家活動を行う者は、どちらかと言うと大学に職を求めてはいないだろうか。逆に現代アートなんか眼中にないと言わんばかりの公募団体組織を支える者は、美大を卒業して小中高の美術教師として職を求めているであろう。
その数から言えば、当然のこと、後者のほうがはるかに多いのは歴然としている。
 そして、彼らは相も変らぬ写実絵画だけを理想とするか、現代風のイラストレーションや日本画の要素を基調として表現しつつ、公募団体組織を支え、デュシャンを教育の場で無視するか、こき下ろすかするだろう。そうして、見事に、きれいなだけの、日本風写実絵画擁護のガラパゴス状態が蔓延する。
 そこには私が理想とする世界標準の現代アートも究極の現代アートも存在を許されない。そう、現代アートは、この日本においては、はるかにマイナーな存在なのだ。そして、デュシャンから始まったと言われる現代アートなどには、ほとんどの美術愛好家には評価さえされず、無視されるだけだ。そこで愛されるのは正確な表現、時間を意識させる緻密さ、驚かせるスペクタクルやトリックだ。それ以外のもの、醜かったり歪んでいたり政治的主張が込められていたりなどもってのほかだ。きれいなものしか彼らには存在を許されはしないだろう。このことこそが日本という現代アートが不毛な異郷の現実であり現在である。そうであるのならば私はどこに向かうべきなのか。どこに行くべきなのか。

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