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断章【00006】~【00010】

【00006】

日本の源流をめざすこと。
それは神道や仏教のはるか以前の自然宗教だろう。
縄文時代の、まさに、アニミズム。
同じように西洋の欧米の源流をめざすなら、
ギリシャでもローマでもなく、
ましてや一神教のユダヤ教でもなく、
太陽信仰のエジプト文明にほかならない。
(梅原猛『人類哲学序説』、岸田秀『一神教vs多神教』などを参照)


【00007】

岡本太郎が『美の呪力』や『沖縄文化論」で論じていた
「なにもないことのすごみ」に憧れる。
石や巨石、森や山など、神聖な雰囲気を醸し出す場所への信仰、
特に沖縄では石や木を置く御嶽もあるが、
何も置かない、 何もない御嶽も多い。
また、日本本土でも、何も置かなかったり、
祠のような簡単な木材を組んだだけの、神社とも言えない、
そんなほとんど何もない神聖とされる場所が多くある。
弥生時代以降には、大陸の影響もあり、鳥居が建てられ、
立派な社が建てられるようになった。
まさに縄文時代の、石や巨石、森や山など、
何もない神聖な場所こそ、 沖縄の御嶽も含めて
日本の源流ではなかったか。

それは中沢新一『精霊の王』にも詳しい。


【00008】

何もないに等しい場所にこそ、神聖さが宿る。
何もないに等しい現代アート作品にこそ、
真の究極の藝術が宿るのだ。

今こそ何もないことの凄さ、神聖さを
改めて認識すべきなのではないか。


【00009】


【00010】

岡本太郎が再評価され、彼の過去の著作が全集化されたり、
文庫として復刊されたり、新書や文庫として発言や文章が
新たにまとめられたり、 展覧会が開催されたりと
岡本太郎の功績を回顧する動きは途絶えない。
逆に池田満寿夫はどうだろうか。
エロスをテーマにし過ぎたためか、映画を撮り、
テレビに出続けたせいか、 技法やイメージが一定していないせいか、
素材を変えて赤富士を描き続けたり、 陶芸に凝ったりして、
小説や詩も書き、その活動が多岐に渡り過ぎたためか、
彼の文章自体が今では読むこともできにくい。
文庫も単行本も復刊せず、
彼の主要著作ではないいくつかが発刊されていて、
佐藤陽子編のアンソロジーが出版されているに過ぎない。
ただし数年に1度くらい回顧展が開かれるのが精いっぱいだ。
いや、池田満寿夫は、もっと評価されてしかるべきではないか。
特に初期の色彩銅版画、そして評論などの文章。

池田満寿夫は再評価されるべきである。



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