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【究極思考00024】

(これは、「ART=・」の作品解説以外は、自分の妄想=虚構である。)

 岡本太郎は、類稀な著作である『美の呪力』や『沖縄文化論』などで、「何もないことのすごみ」、「何もないことのすごさ」という表現をしている。そこでは石があるだけ、石組があるだけ、または木と石の組み合わせだけしかないことが驚きを持って語られていた筈だ。いわゆる絵画や彫刻のようには何も残っていない、そこには祈りや儀式が為されていただろう痕跡らしきものが残されているだけだ。岡本太郎は、そこに何も語らないが多くを指し示している無口な芸術の痕跡を見い出し感動し、それを彼の言葉で表現している。
 愛野アリカは、埼玉県草加市の草加市現代美術館で開催されている「Ryuji Ozawa,Almost Nothing展ver1.0」を見た帰り、そんなことを思い出していた。タイトルに既にあるように「Almost Nothing=ほとんど何もない」と作家が自ら指し示していたではないかと思いつつ、帰途に就いた。口をついて出たのは「何もないに等しい藝術」という囁きだった。いや、まさに正鵠を得ているとしか言いようがないと彼は自分で自分を褒めた、心の中で。
 埼玉県草加市の草加市現代美術展で開催されている「Ryuji Ozawa,Almost Nothing展ver1.0」は、基本的に同サイズ500mm四方の正方形の白い用紙に0.8mmの点が描かれただけの、ほとんど何もない作品が額装されて、これでもかと並べられていた、ある意味では見るものを圧倒しかねない展覧会ではあった。すべて同じ中央の位置に描かれた点のシリーズ、ランダムな位置に描かれた点のシリーズ、左上から一定の距離を移動する点のシリーズ、この3種類と幾つかの立体作品で構成された展覧会だった。
 それは、「何もないに等しい藝術が意味しているのは藝術以外のなにものでもない」作品の展示だった。まさに、「何もないに等しい藝術が意味しているのは藝術以外のなにものでもない」、宮川淳の言説に倣えばそういうこととなる。そして、それが、すべてではないか。点しかない作品群は、まさに現代アートをしか意味してはいないのだ。

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