読書日誌2 『木の十字架』堀辰雄 選:山本善行(灯光舎)

 本屋を訪れた際にその本を買うかどうか、それを大きく左右するのは表紙だと思う。いわゆるジャケ買いである。ぼくは1980年代の生まれなので、この「ジャケ買い」という言葉はCDに使うものとしてなじみ深い。シングルなら千円、アルバムなら3千円。当時はスマホもまだなく、店頭で全てのCDが試聴できるわけでもなかった。よってそのCDがじぶんにヒットするかどうかは買ってみなければわからない一種の賭けであった。度胸とお金のなかった幼いじぶんはもっぱらレンタルで済ませていたわけだが、大人になり、小さな出版社の本を好んで買うようになってからはこの手は使えなくなった。本のレンタルといえば図書館であるが、小出版社の本は図書館に置いてあることが少なく、となると後は買うしか手はないわけである。
 一店につき3冊まで、というのがわたしの本屋を訪れる際のルールだ。この上限を設けておかないと、5冊、6冊とどんどんレジに持っていく数が増えていってしまう。それで購入した全ての本を読めばいいのだが、実際に読むのはそのうちの2~3冊でしかない。ぱっと飛びついた本がそのときのじぶんに合っているとはかぎらない。敵もさるもの、本屋の陳列技術というのはすばらしい。ついじぶんが読まない本まで買ってしまいそうになる。
 本は買ったら読まなければならない。いつ刷り込まれたかわからない規則しばられ、いっときは本を買えなくなったこともあった。まだ家に山ほど積読があるのに、さらに本を買ってどうするんだ? と自制心が働く。しかし、これもそのうち経験でわかってくる。買ったけれど読まない本もある。数ページしか読まない本もある。数行しか読まない本もある。でも、どれも読書としては間違っていないのだ。
 これは作家・建築家・アーティストである坂口恭平さんの本を読んで、おお! と触発された考え方で、坂口さんにはずっと昔に買ってまだ読み終えていない本がある。年に数ページしかその本は読まない。だからいつまでも読み終わらない。坂口さんにとってその本は未だに読書中だ。生きている間に読み終わらないかもしれない。でも、それでいい。本を買っって手元に置く、その行為に充分な価値がある、と坂口さんは言う。
 読むか読まないか。
 そういう読むという行為とは別に、表紙や手触り、本のたたずまいを見て、ああ、この本が欲しい、と思わせてくれる本がある。
 本書『木の十字架』は、わたしにとってそんな本だ。
 本書は京都の小さな出版社灯光舎から刊行されているシリーズ「本のともしび」の第4弾だ。

書物を愛する人々へも、これから「読書」を始めてみようと考えている人々にも、気軽に読んでいただけるよう小品仕立てにし、ふと手にとりたくなるようなたたずまいの書籍をめざして、「灯光舎 本のともしび」を発刊いたします。
この活動を通して、人々の心を揺さぶる数多くの作品の魅力を後世へとつないでいくことができたなら、これほどの喜びはないでしょう。本に灯った明かりを絶やさぬよう、蝋をつぎたす活動の一片になれば幸いです。

灯光舎 「本のともしび」について(『木の十字架」末尾より)

 告白すると、ぼくはこの『木の十字架』を買うまで3度同じ本屋を訪れている。一度目は背表紙を見てビビッと来て引き抜き、でも100ページ足らずで1700円(税抜)という値段を見てそっと棚に戻した。2度目はまた手に取り、いい本だなあ、でも読むかなあ、堀辰雄ってジブリの『風立ちぬ』の主人公のモデルになった人じゃなかった? なんかまじめっぽそうだぞ、ううむ、今回は止めておこう、と再び棚に戻した。そして3度目。もうここまで来たら本の魅力にやられてしまっている。おとなしくレジに持って行った。
 実は灯光舎の「本のともしび」シリーズは前作、つまり第3弾の中島敦『かめれおん日記』から知っていて、そのときも躊躇して、結局買えなかった思い出がある。中島敦、堀辰雄。文学の世界では古典と呼ばれる作家たち。どこかで身構えてしまったじぶんがいたのかもしれない。
 実際に家に帰ってページを開いてみると、『木の十字架』の世界はとても風当りのいいものだった。この本の表紙はタイトルに沿い、木肌を模している。題名の部分もプリズム仕様で、光の当たる角度によって色が変わる。木の近く流れる小川をイメージしているのだろうか? 手触りもよく、つい表紙をなでてしまう。
 中に収められている作品は5つ。小説が1つに、エッセイが4つ。中でもじぶんが気に入ったのは3つめの『「青猫」について』で、萩原朔太郎の詩集『青猫』を媒介として、この先輩詩人との思い出が綴られている。綴られているといっても10ページ程度の短編である。すらすらと読み終わってしまう。読み終わり、ぱっと閃く啓示があるわけでもない。どんっと腹に響く重みもない。さらさらと清水のように流れていく。

野中の清水、それが堀辰雄だ。また彼の文学だ。巨大なダムではない。地下の闇黒をはしる下水道でもない。しかしそれはそもそもの水だ。それは飲むことができる。手と足とを冷やすことができる。傷口にそそいで洗うことができる。人はどうしてもそこへと立ち変える。そこからまた出でたつ。

中野重治(『木の十字架』p100)

友人で作家の中野重治が堀辰雄を評して述べた言葉だ。

小川を流れる清水で口をそそぐように、この『木の十字架』のページを開く。
はっきりと明示できるような効能はないのかもしれない。
心にしみるには時間がかかる。
繰り返し、繰り返し、読んでみよう。
あるいは、もう読むことはないのかもしれない。
それでもいいと思う。
堀辰雄の『木の十字架』がじぶんの家の本棚にある。
それだけで、もう充分なのだろう。

木の十字架 堀辰雄(著) - 灯光舎 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

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