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何故デモに参加?意味はあるの?(下)

1.デモ参加に実利的な意味など求めていない

 「デモに意味など求めていない?…どういうこと?強がるな。」こんな意見もあるだろう。しかしこれは本音なのだ。
 例えば「共通試験」に関しては筆記試験が導入されることにより、得点を付ける者の不正や得点を付ける者によって点数が多少変わる可能性、ひいては、各家庭の経済力が与える子供の学力への影響が大きくなり過ぎる可能性(これはまた気が向いたら書きます)により、僕の目の前で頑張っている生徒が不利益を被る可能性がある。その可能性がある限り、講師は動かないといけないだろう。僕はそう考えてしまうタチなのだ。正直、僕のような誰にも知られていない予備校講師に出来ることなど何もない。しかし、ここで動かないと、僕の中に後悔が残るのだ。僕は僕が大好きだ。僕に後悔が残ることだけは避けたいのだ。
 ウクライナ問題もそうだ。
 僕はポーランド語という特殊言語を大学で学び、ポーランドという国に留学へ行った。ウクライナには僅かながら話をしたことやSkypeを共にしたことがあるウクライナ人が居る。そして、そのウクライナの真西には僕が大変にお世話になり、数多くの迷惑をかけ僕を何度も笑顔にしてくれた、ポーランド人と日本人、そしてポーランドという大好きな国がある。
 「そんなことしても意味ないよ」と言われても僕は動くしかないのだ。
そうでもしないとこの悲しみや怒りは抑えられないのだ。正直に言う。ここ数日、僕はずっとニュースを見て生活に必要なことは本当に最低限しか出来ていない。
 しかし僕のような一市民に出来ることなど、開かれているところで声を上げること、寄付をすることしかないのだ。戦地に行っても僕のような者は無駄死にするだろうから、僕の目の前に居る、デモ地に行けば存在する名も知らぬウクライナ人に、遠い地のウクライナで起きていることを一緒に悲しんでいる日本人が1人でも居るよ、と伝えたいのだ。
 そう、僕が今まで参加したことのあるデモ(ここに書いていないものもあるのだが)に僕が参加したときは全てが全て「ここで何もしないと後悔する」という気持ちだけで、特に実利を求めていないのだ。というか、ポーランド語を勉強するような人間が実利を求める訳ないのだが。

2.身体が動かざるを得ないときに参加する

「身体が動かざるを得ないときに参加する」というのが、僕の中の帰納法的に導いたデモに参加する理由だ。
 多分僕と過去の経験を同一としない人からすると「ウクライナがなんだ、降伏すればいいじゃん、てか密だよ!コロナコロナ!!」という人も居ると思うのだ。それはそれで僕は全然良いと思う。
 僕は冷たい人間だ。同じようなことが例えば中東で起きていたとき、僕は何も動かなかった。そう、僕の過去や現在に、動かざるを得ないと思えるものがあったから、デモというものにまず参加するし募金もする。そういう流れでしかないのだ。

3.想像力と共感力を養う=教育?

ただ、自分が経験したことないからといって、例えば「ウクライナに友達?嘘つくな、居る訳ないだろ(笑)」のような、自分の世界だけを良しとする考え方は、極めて好きではない。
 まぁこの手の問題においてどの問題にも付随するものなのだろうが、結局は「想像力」と「共感力」というものがあると、多少は目の前の世界の見え方も変わるのかな、と感じている。
 その「想像力」や「共感力」というものを養うための1つが、僕は「教育」なのではないか、という1つの強い想いが生まれつつある。

 僕は公務員ではない。一介の予備校講師に過ぎない。ただ「教育」の重要性を僕は今、強く感じている。
 それは世界中で“Stop Putin!!”や“Stand with Ukraine”を掲げ、声を上げている人々を見ても感じる。もしかすると、戦後の先進国における平和教育のベクトルは、間違った方向には向いていなかったのでは?このベクトルをもっと強いものにしないと。そして次の世代へと繋がないと。
   そういう想いで僕の胸はいっぱいだし、少なくとも僕のような者が存在している以上、デモ=無意味、という等式は成り立たないのかな、とも思う。

4.おわりに

 今回は、偉そうにすみませんでした。しかし、これが今の僕の想いです。
 それが何年後でも良いので、誰か1人でも、この駄文を読み、何らかの気持ちを抱き、何かを考え、調べたり。そういった行動に移してくれたら幸いです。
 また僕は、今のこの気持ちを拡散する術を有していないので、もし共感や肯定的に捉えてくれる方が居らっしゃいましたら(何なら否定的でも良い)各種SNSでリンクを貼って下さると大変に助かります。許可は要らないです。宜しくお願い致します。

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