大久保嘉人 ~川崎フロンターレでの最後の大仕事~ 【追記あり】

先日、大久保選手のシーズン終了後の移籍が決定的との報道がながれました。新聞やネットなどの情報だけでは信憑性は低いですが、大久保選手が自身の公式ブログに移籍を示唆する内容を書いたことから移籍の話は現実的となりました。

まだ川崎フロンターレにはチャンピオンシップ、天皇杯が残っています。なので、公式に発表されるのは当分先の話だと思います。

個人的には大久保選手の移籍はとても悲しく寂しいものがありますが、こればかりは仕方ありません。ですが、やはり川崎の絶対的なゴールゲッターは”大久保嘉人だ”というイメージをたった4年間で作り上げたのは素晴らしいと思います。

フロンターレでの最後の大仕事。それは、”悲願”の初タイトルの獲得です。今季はタイトルの可能性がまだ2つも残されています。両方獲ることができれば一番ベストですが、最低でも1つは取ってほしいと思います。

”悲願”の初タイトル。大久保選手の足で決めてほしいです。

今回は大久保選手が移籍してきた2013年から順番に書きました。読みごたえはあると思うのでぜひご覧ください!

それでは!


~新天地での才能開花~

 2013年1月9日。川崎フロンターレはクラブ公式HPにて前年度J2に降格してしまったヴィッセル神戸から大久保嘉人の完全移籍での獲得を発表した。世間からは「旬を過ぎた選手」といわれ、誰もこの年の得点王を獲るとは想像していなかっただろう。

 大久保は早速スタメンとして開幕戦から出場を果たした。結果は奇しくも1―3と柏に敗北を喫した。そんな中、本来の本拠地である等々力陸上競技場がメインスタンド改築工事により使用できないためホーム開幕戦は聖地国立で大分を迎い入れることになった。結果は1―1と引き分けてしまったが大久保個人としては移籍後初ゴールを決めることができた。だが、チームは中々勝てずにいた。第1節から第6節までに得た勝点はなんと3しかなかった。第7節ホームベガルタ戦は大久保のシーズン初マルチ弾を含む4―2でようやく長いトンネルから抜け出せた。大久保は前年度の4ゴールという記録に早くも並んだ。そして、その後も決して失速せずにコンスタントにゴールを積み重ねていく。

 第16節浦和戦で大久保は1つの節目を迎えることとなる。J1リーグ通算100得点に王手をかけていた大久保はしっかりとPKを決め大台に乗ることに成功した。これを機に敵のネットを揺らす感覚が戻ってきた大久保はその年、26得点を奪い自身初の得点王に輝いた。そして、前年度26試合しか出場できていなかったがこの年は33試合と出場数を伸ばした。一見、数字だけ見ると「あまり差がないのでは」と思われがちだが時間にして見ると前年度が1975分、2013シーズンは2967分と約1000分もの違いがある。これは当時の大久保にとってキャリアハイの記録であった。この年、大久保の活躍もあり、風間監督就任以降、初の3位となり、AFCアジアチャンピオンズリーグ(以下ACL)の出場権を獲得した。

 加入当初は「終わった選手」と言われていたが、大久保は川崎に移籍し眠っていた得点感覚を開花させた。

 ~自身初の前年度得点王として臨む勝負の年~

 2014シーズン。フロンターレは前年度3位でリーグ戦を終えたためACLの出場権を獲得していた。ACLはチームとしては2010年以来だったが、風間体制となってからは初のことであった。そして新加入選手では大久保のかつてのチームメイトである森島をはじめ着実な戦力補強に成功した。毎年のことだがACLに出場するチームは過密日程になる。その結果、フロンターレは約3か月間で21試合も試合を消化することとなる。

 大久保の“2年連続得点王”の道は3月15日第3節ホーム大宮戦でスタートする。当時、大久保の日本代表復帰待望論はピークを迎えていた。何としてでも最終メンバーに入るためにも大久保に求められた物は“ゴール”だった。リーグが中断する前までに8ゴールを記録しあとはW杯メンバーの発表を待つのみとなった。

 その時だった。ザッケローニ監督が「オオクボ」と言った瞬間、記者会見場にいた報道陣の「おぉ―」という驚きの声が会見場内に響き渡る。同時に大久保を乗せたバスの車内では他の選手の驚く声などが携帯電話のビデオに残されていた。だが、大久保の表情は極めて冷静なものだったと思う。

 選ばれた瞬間大久保の家族、チームメイト、そして川崎フロンターレのサポーター、全ての人たちが“やっと”と一息つくことができた。

 6月7日。日本代表はW杯本戦前の親善試合でザンビア代表とアメリカ合衆国のタンパで戦うことになっていた。

 試合は3―3のまま90分が経過しようとしていた。誰もが「引き分けかな」と思い始めていた瞬間だった。途中交代でピッチに入っていた青山(現広島)が前方の大久保にロングパスを配給する。大久保は外国人顔負けのトラップからそのままゴールネットにボールを突き刺した。見事、4―3で白星を飾った。大久保は本戦であまり目立った活躍をすることができなかったがこのザンビア戦のゴールでインパクトを残すことができた。

 大久保の勢いは帰国後も決して失速することはなかった。帰国後一発目の試合の相手は愛着のあるC大阪だった。結果は2―1で勝利し、大久保もPKを沈めて1得点を記録した。

 9月23日。NACK5スタジアムで行われた大宮戦。大久保はこの試合で2004年以来のハットトリックを達成する。2年連続“単独”得点王にむけて大きな得点となった。

 なぜ、“単独”なのか。それは前田遼一(現FC東京)とケネディー(現役引退済み 最終所属は名古屋グランパス)が2009年~2011年にかけて記録したからである。2010年に2人は17得点で並んだため“単独”という二文字が付くことはなかった。

 最終節、この時の対戦相手も大久保にとって古巣のヴィッセル神戸であった。この試合は神戸の本拠地であるノエビアスタジアムに乗り込んだ。大久保はやはり世間の期待を裏切らなかった。2得点を決め、2年連続“単独”得点王を確定させた。

 見事、2年連続“単独”得点王になった大久保だが30歳を過ぎてここまでゴールを量産し続けられる能力を持っている選手は希少な存在だ。そんな選手を他クラブは放っておかない。数クラブからの正式なオファーがあった。大久保は2014シーズンで契約満了となり移籍金は0だったこともあり去就が話題となったが大久保は残留を決断し2015シーズンも川崎フロンターレで戦うことを決め、激動の2014シーズンは幕を閉じた。

~史上初の快挙~

 大久保の2015年のスタートダッシュは完璧だった。2013年は第2節に、2014年は第3節にそのシーズンの初ゴールを決めているが、2015年は開幕戦で決めることができた。しかも、その相手は隣町のライバルチームである横浜Fマリノスであった。大久保が開幕戦のゴールを記録したのは2012年以来だった。

 大久保は昨年に引き続きコンスタントに得点を記録していった。だが、他のチームが2年連続“単独”得点王を野放しにするはずがなかった。大久保に対するマークはより一層厳しくなっていった。

 大久保はセカンドステージ第11節の名古屋戦で2年連続のハットトリックを達成し、チームも6―1と大勝した。

 10月17日、フロンターレはチャンピオンシップ(以下CS)進出へ生き残りをかけた大一番を控えていた。相手はサンフレッチェ広島である。試合は、前半を0―0で折り返すと後半50分、かつてフロンターレに在籍していた柴崎晃誠(現サンフレッチェ広島)の強烈なシュートを浴び先制されてしまう。一方、フロンターレは83分、大久保が圧巻のミドルシュートを放ち同点に追いついた。その流れを勝利に繋げるため攻め出していたフロンターレはかつての仲間に息の根を止められることとなる。山岸智現(現大分トリニータ)だ。引き分けで試合が終わると思われていたその時、山岸に決勝弾を入れられてしまい、CS進出はほぼ絶望的となった。だが、選手たちに下を向いている暇はない。いかに上の順位で終わるのか。4位で終わった場合、1位~3位のチームが天皇杯で優勝すれば来シーズンのACLの出場権が回ってくる可能性もあるからだった。

 サッカーというスポーツはなにがあるのか全くわからないスポーツである。この次の試合。大久保に赤紙が提示されるのを誰も予想してはなかっただろう。等々力で行われた神奈川ダービー。マリノスに先制され、苦しい展開が続く。90+4分悲劇が起きた。アデミウソン(現ガンバ大阪)との接触によって両者ともにイエローカードが提示された。大久保はこの日、既にイエローカードを1枚もらっていたため、大久保にはレッドカードが提示された。これには大久保もひざまずくことしかできず、他の選手も必死に抗議するが判定は覆らない。大久保はそのままロッカールームへと姿を消していった。もちろん、チームにとって大久保の不在はものすごく大きく、しかも次の対戦相手が浦和レッズだったのも今回の退場は痛手だった。

 大久保自身もこの退場はかなり痛いものだった。史上初の3年連続得点王まであと少しのところまで迫っているストライカーにとって1試合というものはとても大きかった。だが、サッカーの神様は大久保を見放さなかった。セカンドステージ最終節のベガルタ仙台戦。0―0で迎えた後半80分。見事、素晴らしい弾道を描いたボールはゴール左隅、いわゆる“神様コース”に突き刺さった。そして、フロンターレはその年最後の公式戦を勝利で終えることができた。

~ストライカーの共存~

 川崎フロンターレには、ストライカーが2人存在する。それは、大久保と小林だ。ここ数年は小林も怪我が重なりなかなかシーズンを通して戦うことができなかった。そのため、必然的に大久保へラストパスが回ってきた。だが、2016シーズン最終的に15得点と例年に比べればスコアが少なかった。本来ならば、十分な成績であるがこれも“3年連続得点王”の宿命なのかもしれない。一方、小林は今季15得点と自身の最多得点記録を更新するなどチームからの信頼は以前よりも増していた。小林自身もファーストステージ第3節の名古屋戦を除いてほとんど試合に出場していた。だが、セカンドステージ第16節の鹿島戦で負傷交代を余儀なくされる。診断結果は左ハムストリング肉離れとCSや天皇杯を控えるチームにとって大きな離脱であった。

 大久保はファーストステージでPKなどを含み11ゴールを奪ったが、セカンドステージは4ゴールと納得できる成績を残せなかった。一見、数字だけを見るとなかなか結果を出していない。と思われがちだが、今季後半の大久保は神戸時代のようなプレーが多かった気がする。1トップの位置に入っているもののなかなか真ん中にボールが入らず、以前のようなミドルシュートの本数は確かに減っていった。小林に出しても点が入るため、チーム自体が真ん中でボールを奪われることを恐れるがためにサイドで展開するというのが1つの形として定まってきていた。そのため、大久保は降りてきて、試合の組み立てをしたりするなどゲームメイクに関わることが多くなる。2013年は“ゴールを奪う”ことにだけ集中すればよかったため、攻撃に専念できた。だが、完全にその時とは変わりつつあった。ただそれでも、小林と並び得点ランキング4位タイ(日本人トップ)の成績を収めることができた。

 2016シーズンフロンターレは、ファーストステージ2位、セカンドステージ3位とステージ制覇は出来なかったものの年間順位を2位で終えたため、クラブ史上初のCS出場権を獲得することができた。しかも、決して僅差で掴んだわけではない。ファーストステージ優勝を争った鹿島アントラーズはセカンドステージで11位と勝点までもファーストステージの勝点39からセカンドステージでは勝点20とファーストステージの約半分しか勝点を積むことができず“大失速”したため、結果的に年間順位では浦和が勝点74、フロンターレが勝点72と上位2チームは接戦だったが、3位の鹿島は勝点59だったため大きな差をつけCSに進むことができた。

 11月8日。大久保の公式ブログに「気持ち」と題された内容が更新された。その内容は、“移籍”についてだった。大久保はブログで『環境に甘えるというか、あぐらをかいて過ごすのは、オレらしくないし、今までも常に挑戦する気持ちを持ち続けてきたから、これからも挑戦し続けたい。自分でいろいろ道を作っていきたい。その気持ちが何より強くなりました。』と今季終了後の移籍を示唆した。だが、大久保は決して試合中に手を抜くということはしない。契約が切れるまで“川崎のヨシト”である。

 J1通算100得点、3年連続単独得点王、J1最多ゴール記録の更新。たくさんの輝かしい功績をフロンターレで達成した生きるレジェンドは『フロンターレでタイトルを取りたい。』とブログに綴った一言を必ず成し遂げてくれるはずだ。

(RYUJI ICHIYA)

【追記】

2017年1月4日。

川崎フロンターレの公式サイトで大久保嘉人のFC東京への完全移籍が発表された。

"既知の情報"ではあったが、やはり寂しいものがある。

彼がいたから、たった4年間で川崎の"超攻撃的"スタイルが全国に根付いた。

史上初3年連続得点王・J1最多通算ゴール数の更新。

Jリーグ史にまさに"川崎のヨシト"として名前を刻んだ。

これで13番の席は一旦空席になる。

だが、川崎の13番が4年間で残したものは"残像"として等々力のピッチに残り続ける。

彼がサッカーの"本質"をチームに伝えてくれた。

大久保は天皇杯決勝戦の試合後、流れてきそうな涙をこらえながらサポーターに向けて最後のお礼を言った。

『優勝はできなかったですけど、また頑張りたいと思います。

4年間ありがとうございました。』

これ以上ない、最高で最幸なストライカー。

大久保嘉人。

いつかまた等々力で。



今回このコラムを書く上で、川崎フロンターレ公式HPを使用させて頂いています。

川崎フロンターレ公式HPはこちらから

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