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国際的って

なんとなくですが、日本の人にとって、国際的というのは、うまいこと英語を話して、とにかく海外に出て行って、というようなことではないかと、長く言われてきていた気がします。

わたしも、アメリカかぶれの20代を過ごし、アメリカに長く暮らすことに憧れていたこともあり、それすなわち国際的な感じもする、という風に考えたりしていました。

今は、そういう風には全然思えなくなってしまいました。国際的という言葉を、いい意味に捉えて、実際に何か行動に移すなら、自分としては、たぶんこれからは、こういう感じ(国文学を学ぶこと、来てもらえること)ではないかと今は思っている、と雑談をしていたら、ある研究者(私の尊敬するドイツの先生)が同じようなこと言ってたんだよ、と教えてもらいました。

なので今晩は、その記念に、何か好き勝手に書いてから寝ます。

ほぼ日本人だけの研究グループに、外国から来た研究者が少人数いるのは国際的か。普通は、国際的な研究グループというのならば、メンバーの出身の国は基本的に様々で偏りはなく、日本人も少数いる、というようなことなのでは。

参加者全員が英語で研究発表をするとして、聴衆は日本人ばかりで、外国からの参加者が少人数なのは国際的か。英語を発表言語にするのは悪くない。国際的かどうかは、そういう英語の利用とは別の話。前に国文学の国際シンポジウムを垣間見て、単純に驚いたことがありました。参加者の多くは外国人だけど、発表は日本語。外国人のみなさんは流暢に日本語で話しておられた。

海外に飛び出して、その色に染まるのが国際的か。まずは、その前に自分の土台の文化を他人に誤解なく説明できる程度まで、割と真剣に学んでおく、ということが、確かに国際的であるために必要だろうというのは、それはそうなんだろうと思います。他の国のことを吸収して学んでいくためにも、土台は必要。

なので、自分の土台のことのほうを、よく学ぶことこそ、真に国際的であるための最も基本的なことのように思えるわけで、今は、それもあって国文学をできるだけ深く学びたいと思うし、そういう学問には、国際的な未来を感じています。

英語が流暢になって海外に出るのは別に悪くない。それよりも、多くの優れた海外の人たちに、単なるお客様でなく、本当に思う存分に力を発揮できる形でこちらに来てもらい、お互いの学びを深められるように実際なっているのか。お世辞が上手だけど鵜呑みにせず、そういう観点での準備や支援や努力は十分だったか。逆に滞在に合わせて日本語を学んでもらうことも大事なこと。

英語がアメリカ風の発音で流暢であることは、日本の人にとってはそこまで大事なことではない。発音がベリー日本風の英語でも、それは大した問題ではなくて、それよりも相手の言うことを理解して、ときおり適度なギャグを投入したりして笑いあうこともできるか否かということが、基本的には大事なことで、国際的をうたう場の人びとには、そのような日々の訓練が必要なことか、とも思うのである。

オチはなし。いよいよ眠くなってきました、おやすみなさい

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