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水槽の中の生命体

 何匹もの魚がひらひらと優雅に泳ぐ水槽を売りにしているバー。その水槽を挟むように立てられている棚に、見たこともないようなウイスキーの瓶が綺麗に並べられている。ぼんやりと薄暗く光る照明。ジャズ調のJ-pop。そういった一つ一つのものが、バー特有の特別な雰囲気を醸し出しているのだろう。

 出されたハイボールを飲みながら、そこの店主がしてくれた色々な話を聞いていた。子どもの頃の話に今の奥さんと結婚に至った話。中でも、ヤクザになった兄弟のせいで、自分の元に取り立てが来た話は今まで聞いたことのない話で、刺激的で面白かった。


 店主がキッチンに向かって1人になった後、カウンターの一角で、私はまじまじと目の前の水槽を眺めていた。

 美しい色彩の、ファインディング・ニモに出てくるあのオレンジの魚が、優雅に舞いながら、目前の小さな水槽に閉じ込められている。みな一様に尾ひれをぱたぱたと動かして進み、壁に当たったら体をくねらせ、また反対方向に尾ひれをぱたぱたと動かして進む。それの繰り返し。
 彼らは自分たちに、あの広大でこの地球を覆い尽くす海の中で自由に尾ひれを動かす権利があったことを知らない。理不尽に権利が剥奪されていることに気づかない。
 まるで、この小さな水槽の中で何よりも美しいあの色合いの尾ひれを動かし続けることが自分の使命であり役割であると疑わないようであった。

 これから社会という小さいのか大きいのか分からない水槽の中で、馬車馬のように舞い続け、それに疑問も持たなくなっていくであろう私とオレンジの彼らが重なって見える。

 1人でバーに行き、大好きなお酒を飲みながら、そこでしか会うことのできない人とお話をする。そんな少し背伸びした刺激的で素晴らしい思い出も、年を重ねていくと色褪せたものになってしまうのだろうか。

 考えたくもないそんな思考を無かったことにするように、氷が溶け切ったハイボールを喉に流し込んで、ゲホゲホとむせた。

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