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光を掲げて ~レオナルド木村と同伴者の殉教~


 
「西の方に見えるあの光はなんだろう。」
1600年も前に学者たちは東の国では見たことのない光を求めて旅を始めた。その光は幼子の上にある星であった。彼らは光に導かれ救い主と出会った。
 


 
・迫害の始まり
1616年、元和2年に家康が死去し秀忠が本格的に幕府の実権を握る事となった。日本には34人のイエズス会士、フランシスコ会士5人、ドミニコ会士56人、アウグスチノ会1人、教区司祭5人が追放を逃れ潜伏していた。秀忠は権力を見せんとして先代に増して迫害の度を強め、日本に残っているわずかな宣教師、そしてキリシタンを根絶やしにしようと考えた。しかし実際には江戸と都に限ったことで長崎へ対しての取り締まりはまだ緩い現状だった。この時の長崎の領主は大村純忠の孫にあたる純頼であった。彼は棄教者である大村喜前の家督を継ぎキリシタン弾圧を行っていた。しかし長崎にはキリシタンがあまりにも多く、加えて地下組織により巧妙に弾圧を避けて潜伏し手に負えなかったのである。
ある日、豊臣秀頼軍についていたキリシタン大名の指名手配が行われた。もちろん長崎にも調査官を派遣されることになった。キリシタンを野放しにして制圧できていない長崎にしびれを切らしてた幕府はこれを絶好の機会と考え、純頼に揺さぶりをかけた。領地を失うことを恐れた純頼は特に目立った行動をしていた大村に使者を送り宣教師狩りを命じた。
フランシスコ会のペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父とイエズス会のジョアン・バティスタ・マシャド・デ・タボラは宣教師狩りにより捕縛され大村の帯取で斬首の刑により殉教の栄冠を受けた。1617年、元和3年であった。この頃からキリシタンにとって暗く闇の中を歩いていくような迫害の始まりとなった。暗い道は灯火がなければ道を見失い、時に自分自身すら見失って進んでいけない。二人の殉教は残されたキリシタンの灯火となり、彼らの目前の暗い道にそっと点った。
 

・迫害の嵐
二人の殉教を機に各地方で潜伏していた宣教師達は背中を押されたように、これまでよりも一層迫害の嵐の中を命を顧みずキリシタン達に秘跡を与え、異教徒や棄教者への洗礼に尽力していた。同年1617年、元和3年大村湾に浮かぶ鷹島という島でアウグスチノ会士エルナンド・アヤラ神父とドミニコ会のアロンソ・ナバレテ神父は自ら斬首される刀に祝別を与え殉教の栄冠を得た。命より大事なモノを命を持って証明した。
キリシタン達の勇気を与えたのは宣教師だけではない。布教していた外国人宣教師は土地勘や言語の不自由さがあったが宿主の道案内や通訳、身の回りの世話により円滑に宣教活動が行えていた。要するに行動を共にする世話人である。彼らの多くは各会の信心会に属しており地下組織の先導役も担う人物でもあった。よって彼らも宣教師同様目立った行動により宣教師と同様に他のキリシタンの影響力が大きいとされ捕縛された。特に影響力が強いとされた宿主の中でも中心人物とされる者は見せしめとして刑に処され殉教し栄冠を得ている。抑止力と考えた代表者の処刑も期待と裏腹にキリシタンの勇気と希望に変わっていた。
迫害は全国で行われていた。都にはフランシスコ会の本部があり福祉事業が充実され、キリシタンも増え細々と暮らしていた。キリシタンを脅威とは思っていなかった京都所司代板倉勝重はキリシタン達を黙視していた。キリシタン嫌いの徳川秀忠は都に時々訪れてはキリシタン根絶に釘を刺していた。1618年元和4年に奉行所で「Laudate dominum omnes gentes(主をほめたたえよ)」が高らかに響き合った。奉行所で行われる死刑の宣告の時間は欲望、憎悪、恐怖、不安、無念、絶望など色々な感情が混在する。この様々な感情の混在する空間が一瞬にして静まり返った大聖堂で響くような希望に満ちた透き通った歌声に包まれた。その後ファン・デ・サンタ・マルタ神父は役人に首を差し出し神のもとに帰った。影響力の大きかった彼の処刑により都のキリシタンも衰退していき幕府からの圧力から解放されるだろうと安堵の顔を浮かべた。しかしファン神父の奉行所で響かせた歌声と神へのすべての献上とも言える処刑は、絶望を希望に変え、キリシタンは衰退することはなかった。
徳川秀忠は都に寄生虫のごとく生存するキリシタンの存在と、未だにキリシタンを制圧しない板倉勝重についに激怒しキリシタン全員処刑する命令が下った。1619年元和5年、信仰を棄てないという理由で老若男女問わず55名のキリシタンが処刑された。京都で行われた元和の大殉教の一つである。この当時の処刑では、一般の罪人は斬首、極悪人には火刑を処されていた。斬首は一瞬の苦痛により処刑されるが、火刑は苦痛を長時間与えるということで一般の罪人より重い刑だったのだ。この55名はキリシタンであるというだけで重い刑を与えられたのである。この頃からキリシタンにはキリシタンということだけで重罪という認識が強くなり、全国各地で実際の炎で光が点されるようになったのである。
 
 
・種まく人
「ヤジロウの話を聞くに、ジャポンという国の人々は東洋の中でとても優れた国民だと思う。彼のあの熱心な姿、探求心、理解の良さ、この短期間で真理を知ることのできる人物であること、確固たる証拠であろう。」
「しかしザビエル神父。日本人は気難しく、理屈っぽく、表情もないので何を考えているかわかりませんよ。日本には天竺の宗教も根付いているようですし。前にどこかの原住民に違う宗教だからと毒殺されたと聞いたことがあります。」
「アルバレス船長、心配はいりません。神の思し召しを感じたのです。種をまく人は神の言葉を蒔く。良い土地に蒔かれたものは迫害が起きても躓かず、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは百倍の実を結ぶ。日本人というのは実を結ぶ人種だと信じています。それに一粒の種のままでないなら本望でしょう。」
フランシスコ・ザビエルは友人でもあるジョルジュ・アルバレス船長を心配させまいと冗談交じりに答えた。アルバレス船長は「冗談じゃない。」といった心配そうな表情であった。
 時は天文19年、1550年アジア布教を志したイエズス会のフランシスコ・ザビエルはヤジロウとの出会いを機に日本に帆を張り、平戸に布教活動の拠点を置いた。平戸への布教が後に日本のキリシタンの歴史の発展の転機となった。
ザビエルは鹿児島から来日して日本での布教活動が始まった。日本での布教の許可を得るために京都に出向ったが叶えられず鹿児島に留まった。ポルトガル船が平戸に入港した情報を得て向かった。イエズス会の手紙等を受け取る目的だった。フランシスコ・ザビエルは平戸当主松浦隆信に謁見し布教の許可を得ることができた。松浦隆信は熱心な仏教徒であった為改宗しなかった。平戸の貿易発展の為布教活動をさせることは重要であると認識し、家臣の籠手田氏と壱部氏を改宗させた。2人の領地であった平戸島の西海海岸地域と生月島の住民は一斉改宗が行われ、ザビエルは平戸にはわずか20日間のみの滞在であったが多くの人々を信者に導いた。その後再び日本での布教の許可を得るために京都へ向かい、平戸布教は同じイエズス会士のコスメ・デ・トーレス神父に任せられた。
松浦隆信の家臣であった木村という侍がいた。木村は主君の命によりザビエル一行に宿を貸し、身の周りの世話を行った。ザビエルとの出会いによって木村一家全員洗礼を授けられキリスト教に改宗した。そして平戸布教を引き継いだトーレス神父の布教活動の支援を行った。情勢の悪化により平戸での在住が困難となった木村家は長崎に移った。平戸に蒔かれた種は成長して枝分かれしていきやがて実を結んでいった。1575年天正3年にレオナルド木村は長崎で生を受けた。
 


・レオナルド
 1620から22年に教皇パウルス5世宛てに書簡5通が届いた。全部で80名の署名があり、最も共通した霊名はジュアン、次にトマス、パウロ、レオンの順に多かった。キリシタンの教育に聖人伝を用いられていた。聖人160名、聖女28名の名前を持つキリシタンの名前が17世紀の書簡に確認することができる。よって教育等によりそれ相当の聖人・聖女の紹介がされていたようだ。聖人160名のうち最も頻出しているのがやはりジュアン、次いでミゲル、トマス、アントニオ、フランシスコ、レオン、パウロ、ペトロであった。洗礼名の選択の経緯は様々だろうが、キリスト教伝来当初は一般的に慣用されていた霊名、つまり12使徒といった初代教会時代の聖人・聖女の洗礼名を採用していた。後に実に日本的と言うべきだろうか、洗礼名に漢字を当て縁起を担ぐような選択がされるようになった。ヨハネのことであるジュアンだが壽安、如安、壽庵などの漢字が当てられた。寿、安らか、など縁起いい漢字が当てられている。また宗教の基本的な考えは仏教の考え方であった為、出家という考えで法名を受けることと洗礼名を関連付けて洗礼名の選択もあった。その為壽庵の「庵」の漢字が当てられる「アン」のつくユリウスであるジュリアン、レオやレオナルドであるレアンやリアン、クリストファーであるキリシトアンなどがあった。この2つの点で「・・・アン」とつく霊名は多く選択されていた。レオナルドであるレアン、リアンにあてられた漢字は「連安」「利安」「理安」「理庵」などがある。縁起を担いだり、様々な思いを乗せた漢字が当てられている。
 レオナルドの名を持つ聖人は数人存在する。ローマ教皇でも大教皇でも知られるレオナルドである「レオ」のローマ教皇も多い。フランスの聖人で聖レオナルドという人物がいる。彼は戦争の中、生き残ったら全てを神に捧げる事を誓った。無事に帰還し洗礼を受け司祭となった。ある日彼の人徳が認められ国王から司教の推薦された。しかし推薦を辞退し改心した囚人の解放を願い、囚人達は解放された。彼はその後修道院を開き、宣教により多くの人々を導いた。
レオナルド木村の両親や洗礼を授けた司祭の記録などはない。よって霊名がレオナルドを選択されたかは不明だ。日本的な縁起を担いでか両親や洗礼を授けた司祭の様々な思いと、受洗場面の心から喜びの表情が想像できる。
 


・少年レオナルド
「私は皆を神様の道に導く人になりとうございます。」
元服とは男子の成人の儀式のことを指す。つまりこれまでの子供ではなく大人として生きていくことであるが、男子は12歳前後で成人となっていた。少年レオナルドは自分自身の道を定め、13歳頃から親元を離れ同宿として教会に仕えた。同宿とは司祭や修道士と行動を共にする一般の信徒である。同年1588年天正16年に八良尾にセミナリヨが移された頃にセミナリヨに在籍した。セミナリヨではちょうど赴任したばかりの宣教師のジョバンニ・ニコラオに出会った。彼は画家でもあり美術をセミナリヨの生徒に教えていた。さらに以前岬の教会であった被昇天のサンタ・マリア教会の大時計の制作にも携わった人物である。彼の元で勉強し多くの聖画の模写を行っていた。
「西洋の絵画はこれほどまでに素晴らしいのか。」
日本にはなかった技法を巧みに使い、少年レオナルドは絵画の中の御子や聖母、各聖人達があたかも目の前に存在しているように感じた。そしていつしか憧れをも描いていた。セミナリヨでは同じぐらいの年の男子が在籍していた。教養のある武家出の子がほとんどであるが向き不向き、器用不器用は様々である。少年レオナルドはジョバンニ・ニコラオから美術の才能を見出されていたようだ。もちろん上には上がいる。
「私たちはここを去った後はそれぞれの道を歩いていく。君と私のいづれが先に天に帰ったら、残った方が御ミサで祈りを捧げよう。そして絵を描いてくれ。ゼズス様やマリア様やベアトス様(聖人)のあの御絵とまで畏れ多いが。戦乱の世、私は生き様や生きた証を残すのも良いものかと思うのだ。」
「レオナルド、縁起でもない。しかし誓おう。君の方が先生に褒められるほどの腕前なんだ。私よりも長く生きてもらって立派な御絵を描いてもらおうじゃないか。」
同期生と夢を語り合う、まだ世の光に向かって伸びる双葉のように萌え始めた少年時代だった。
 
 

・イルマン・レオナルド木村
トードス・オス・サントス教会。1569年永禄12年、大村純忠の家臣で肥前長崎村領主の長崎甚左衛門がルイス・デ・アルメイダに与えられた土地に建てられた長崎に最初の教会である。1602年慶応7年に修練院が併設され、27歳になったレオナルド木村は他16名の同志達と一緒に最初の修練者となった。2年の修練期間を経て誓願を立ててイエズス会の修道士として働いた。レオナルド木村は長崎のコレジヨに属し修道院長の助手を勤めていた。修道院の来客の世話役も担っていた為、一般のキリシタンから教区や他の修道院の宣教師からも馴染みの存在となっていた。
1614年慶長19年に出された禁教令によりすべての宣教師は追放される事になった。しかし追放から逃れることができ、レオナルド木村は迫害下の信徒達の為に日本に留まった。他のイエズス会士も日本への潜伏を試みたが尽く失敗に終わった。イエズス会管区長も潜入することができなかったが、副管区長のジェロニモ・ロドリゲス神父が潜入に成功し長崎に留まることができた為、管区長代理を務めた。ロドリゲス神父は京阪地方も任されていた為、京阪地方のキリシタンの様子と潜伏している宣教師の支援にはレオナルド木村が任命された。長崎から京阪地方へ向かう途中、広島に着いた事に大阪冬の陣が始まり容易に京阪地方に近づくことが困難となった。広島は迫害が起きておらず宣教師達にとって安全な潜伏の場となっていた。広島に滞在中、ロドリゲス神父はレオナルド木村に今後の伝道活動について情勢調査を依頼した。宣教師の数は著しく少なく、情報のやり取りも乏しく何処が安全か把握するのが困難な状態である。ついで、宣教師を匿うキリシタンも必死だがとても危険な状態であるとレオナルド木村は調査結果を報告し指示により長崎に戻った。
1616年元和2年、家康が没した年に大阪夏の陣でジョアン明石掃部が戦死した。彼はキリシタンで多くの宣教師を支援していた。彼の長男パウロ明石内記も大阪夏の陣で参戦していたが、燃え上がる大阪城から逃げ出した。彼も宣教師やキリシタンとの深いつながりがあり、残党およびキリシタンの重要人物として指名手配となった。筑前筑後では明石家と関係のあるキリシタンが次々を捕縛され処刑された。長崎の調査も厳しくなり内記とつながりがあったロドリゲス神父も居場所が判明された。信徒達の努力により捕縛は免れたが日本を離れてしまう結果となってしまった。彼の代理としてコーロス神父が任命された。コーロス神父も明石家と繋がりがあったこともあり、迫害の悪化に拍車がかかり多くの宣教師が逮捕されるきっかけとなってしまった。そんな激化する迫害の中一人のキリシタンが捕縛され拷問に耐えきれずレオナルド木村の居場所が明らかになり、レオナルド木村は捕縛され1616年元和2年12月にクルス町の牢屋に導かれた。しかしキリシタンや修道士だからという理由ではなく、縁も所縁もない人物の殺害容疑として捕縛された。安全区域だとされていた広島もついには捜査が入り、キリシタンの処刑が行われ、アントニオ石田神父も捕縛された。彼は山口から広島を中心に宣教活動を行い、年に数百人から千人の人々を信仰に導いた人物である。レオナルド木村とは修練院の門を共にくぐった同志であった。レオナルド木村が広島滞在時にも匿ってくれた。残念なことに同じ時期に捕縛されでアントニオ石田神父は広島の牢屋に投じられた。別々の場所であったが二人は手紙を通して牢内のでの生活を励まし合った。
 


・クルス町の牢屋
 大村純忠によって開港された長崎は開港とともに新しい町が誕生した。岬の先端は教会を建設するために土地を残し、道を隔てて6町が作られた。これらは内町と呼ばれ、1593年天正20年には23町ができた。最初の6町はイエズス会に寄進され、長崎はキリシタンの町と発展していった。この内町に墓地があり、墓地の中心に大きな十字架があったことからこの墓地辺りの町はクルスの町と呼ばれていた。長崎の発展と同時にこの墓地は山のサンタマリア教会と炉粕町の間辺りに移されサン・ミゲルという新しい墓地となった。この跡地には「クルス町」の名前だけが残り、ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父の着手によってこの地にフランシスコ会の修道院が建てられた。付属教会のサン・フランシスコ教会の建設が計画されたが1614年慶長19年の禁教令によって建設途中で取り壊されてしまった。その後この跡地には牢屋が作られ「クルス町の牢屋」と呼ばれた。クルス町の牢屋ができて最初に投獄されたのがレオナルド木村であった。
 レオナルド木村が入牢した時は、まだ牢屋は小さく一般的な罪人も一緒に収容されていた。レオナルド木村が投獄された理由はキリシタンとではなったことや迫害の初期であったという事もあり、ある程度自由があった。よって面会や手紙を送ることもできた。
激化していくキリシタン圧制に伴い宣教師の宿主や協力者などクルス町の牢屋に次々と捕縛され連行されてきた。牢屋は囚人が増えたことにより増築が必要となった。増築の際に禁教令によって取り壊された教会の木材が使われた。1614年慶長19年に出された禁教令で全国の宣教師は長崎に連れて来られマニラやマカオなどに国外追放された。福岡の教会も禁教令によって破壊された。長崎に福岡の宣教師が連行される際に福岡の教会の解体された木材も運ばれた。異教徒にとっていわくつきの廃材といった感じだろうか、その木材は特に使われずに放置された。牢屋の増築の為に運ばれた。禁教令によって破壊されたミゼルコルディア付属のサンチャゴ病院の廃材も牢屋の増築の為に使用され、クルス町の牢屋は祝別された木材で作られた。同じ信仰を持った人々が集まった建物はまるで教会や修道院といった場所のようにレオナルド木村は感じた。
増築された牢屋だがそれでも飽和状態だった為、一般の囚人とキリシタンはクルス町の牢屋に残し、宣教師たちを鈴田牢へ搬送することになった。レオナルド木村は修道士であったが当初は殺人容疑で捕縛された為クルス町の牢屋にそのまま収容された。捕縛されて当初は尋問程度であったが、次第に修道士であることや潜伏して布教活動を行っていたことについての事情聴取へ変わった。これにより度々棄教を強いられる拷問が行われた。レオナルド木村は決して屈する事はなかった。それどころか、祝別されたクルス町の牢屋を得た彼は素晴らしい構想を持っていた。
 


・クルス町の修道院
17世紀頃の刑罰は、死刑、遠島、追放、罰金、敲き、謹慎であった。容疑で捕縛された者は奉行所に連行され吟味を行われる。牢屋は未決囚を収容する拘置所であった。定期的に奉行所に呼び出されては吟味が行われ、刑が決まると牢屋から出ていくという流れである。牢内での生活は刑務所ではないため労働を強いられるようなことはない。吟味の為に呼び出される以外は特に何もない。食事は日に2回、玄米5合と具なしの汁物や漬物などが与えられていたようだ。場所によっては牢内での独自の制度があった所もあった。囚人内で選挙が行われ牢名主が選ばれ序列が作られた。序列の高い順に寝床の範囲や食事の量が貢物として優遇される。殺人や詐欺など極悪人ほど序列の高い者として選ばれることが多い。新入りが入ると嫌がらせが始まる。その嫌がらせが度を増して死亡する事例もあった。序列の低い囚人や新人は隅に追いやられ、食事も取り上げられ十分に取れなず刑が下る前に牢内で病気や衰弱して死亡することもあった。よって投獄される時は挨拶代わりの金品等を渡すことで安全な牢内生活を過ごすことができた。
レオナルド木村は日課を作り、朝の祈り、一時間の黙想、一時間の声を合わせて祈祷、正午まで連祷を精神的な読書、午後には四時間の読書、習字や手工を行った。聖書の朗読、聖歌などの順序を決め、断食の日を設け、厳格な苦業が行われた。祝別されたクルス町の牢屋を得たレオナルド木村は慈愛と熱意で牢屋を修道院に変えた。牢内だけでなく外部まで説教を行った。断食した分は牢外の貧しい老人に恵んでいた。その結果彼が投獄されてから96人の人々が洗礼を授けられた。この徹底した修道院と化した牢内生活は精神を崩壊を免れる以上に何にも屈しない心を身につけることができた。レオナルド木村は洗礼名の名の如く、レオナルド木村に出会った囚人の心はすべての苦痛から解放された。
 
 

・クルス町からカルワリオの丘への道行き
1619年元和5年、徳川秀忠の命令により女子供を含めた大勢のキリシタンが炎を身にまとい殉教した。京都で大殉教を目の当たりにした長崎奉行長谷川権六は江戸に戻り、背教者のトマス荒木を連れて今後の処置を幕府に仰いだ。荒木から宣教師や宿主、その他明石の関係者の捕縛したことを幕府に報告した。返答として明石の問題で逮捕した人を釈放し、宣教師を匿っていたキリシタンを処刑するというものであった。レオナルド木村も釈放されるはずだったが、権六の意向により修道士という理由で処刑が決定された。そしてカルワリオの丘への道行きにレオナルド木村と同行する宿主が選ばれた。モラレス神父の宿主であった村山等安の長男のアンドレス村山徳安、ファン・マルティネス・デ・サント・ドミンゴ神父とアンヘル・フェレール・オルスッチ神父の宿主のコスメ竹屋長兵衛、アロンソ・デ・メーナ神父の宿主のジョアン吉田正右衛門、カルロス・スピノラ神父とアンプロジオ神父の宿主のドミンゴ・ホルヘの4人であった。
 


・アンドレス村山徳安村山次郎八
長崎奉行は当時代官と呼ばれていた。村山等安は尾張出身であったが南蛮貿易で栄えた長崎に野望を抱いて移住した。彼は自分の商売に役に立つという目的で洗礼を受けキリシタンとなった。朝鮮出兵の時の成果を出し長崎代官まで上りつめた。禁教令前の長崎で等安はモラレス神父と知り合い、ロザリオ信心会の設立に協力した。やや素行に問題のあった等安はまさに最適ともいえる誠実な妻ジュスタを娶り、多くの子供に恵まれ皆誠実で善良なキリシタンとして成長した。アンドレス村山徳安村山次郎八は10人の兄弟の長男として出生した。生年月日は不明であるが、等安の6番目の4男の久四郎は等安が30歳の頃1596年に出生している。年子としても徳安は1590年以前に出生したと考える。
ドミニコ会のロザリオ信心会組頭を務めていた。慎み深く徳の高い人物であり、教会の分かち合いに熱心で祈りを大事にしていた。1614年慶長19年に出された禁教令により追放を逃れたフランシスコ・モラレス神父の宿主となって宣教師を自宅に匿うなどして協力を行っていた。迫害の厳しい時代、仲間内で殉教する者も増えていった。煉獄の霊魂の為に皆で集まって毎日祈りを捧げ、アンドレス村山徳安は中心となって皆を支えた。聖遺物の回収時にも指揮をとり、鷹島で殉教したエルナンド・アヤラ神父とアロンソ・ナバレテ神父の聖遺骸の回収を尽力した。妻マリアの叔父にあたる棄教者の長崎奉行末次平蔵により1619年元和5年3月にモラレス神父と共に捕縛された。
 


・コスメ竹屋長兵衛
コスメ竹屋は朝鮮の出身であるが洗礼名と日本名のみ記録に残っている。出生年月日は不明の為年齢はわからない。洗礼名は日本26聖人の「コスメ竹屋」と同じであり混同しやすい。おそらく日本26聖人のコスメ竹屋から洗礼名をもらったと考える。
日本天下統一を果たした豊臣秀吉は中国まで征服を目指して1592年文禄元年に文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮征伐を行われた。この争いの間、多くの朝鮮人が奴隷として日本に連れて来られた。連れて来られた目的は様々だったが、技術者を捕縛して朝鮮の進んだ文化技術を取り入れる目的もあった。特に陶工は日本のやきものを画期的な飛躍をみせ、現在の長崎の伝統工芸や波佐見焼や三河内焼に発展した。大名や領主などに仕える例もおり、ジュリアおたあはキリシタン大名の小西行長に引き取られ育てられた。もちろん奴隷として連れて来られた朝鮮人がいたが、長崎の朝鮮人はイエズス会の計らいで人々は解放され、鍛冶屋町付近に高麗町を作り協力しあって暮らしていた。キリシタン朝鮮人は解放してもらった恩もあり7千の人々が入信し、高麗町にサン・ロレンソ教会を建立した。長崎の中心部の発展により、のちに伊勢屋町付近に移された。
さてコスメ竹屋も日本に連れて来られ、或る領主に仕えた。その後長崎に移住しドミニコ会ロザリオ信心会員となった。この時代には各修道院で様々なコンフラリア、信心会が作られた。1604年慶長9年にドミニコ会のフランシスコ・モラーレスによって「ロザリオの組」という信心会が創設され、会員は2万人にも達していた。信徒使徒職団体から「イエスの御名(ゼスス)の組」という信心会が創設された。さらに「十字架(クルス)の組」という信心会を村山等安の次男フランシスコ村山が教区司祭となった後1614年慶長19年に創設し、迫害下の相互援助を組織化した。その後これらの信心会はドミニコ会のアロンソ・ナバレテ神父に引き継がれ、もともと別に存在したロザリオ信心会と一つの組になり、組員はすべてロザリオ信心会となった。そして「ヌメロのロザリオの組」、通称「ヌメロ」と呼ばれる先鋭部隊が作られた。彼らは300名ほどの構成員で、厳しい審査によって選ばれた人々であった。特に知識経験が豊富で若い堅層が選ばれていた。選ばれた構成員は迫害下の宣教師たちを匿い、宣教先へ安全に案内すること、監獄の囚人達を励ますこと、他のキリシタンに先んじて迫害を受けること、これらの決意を持っていることが必要とされたそして彼ら構成員に対して「ヌメロの組の服」と呼ばれる白い服に黒の衣をまとった格好を着用することが承認されていた素材としてビロードなど豪著な布で作られ、葬儀などに使われる司祭のロザリオの服装のような服装だった。コスメ竹屋もヌメロの組員としてファン・マルティネス・デ・サント・ドミンゴ神父とアンヘル・フェレール・オルスッチ神父を匿い、宿主として働いた。
1618年元和4年12月に長崎奉行所の役人に踏み込まれ彼は宣教師を匿っていたこととキリシタンであることでドミンゴ・ホルヘと一緒に捕縛された。また7,8人の隣人も連帯責任で捕縛され皆クルス町の牢に収容された。
 


・ジョアン吉田正左衛門秋雲(素雲)
ジョアン吉田は京都出身で長崎に移住し洗礼を受けた。出生年月日は不明の為年齢はわからない。染物屋を行っていた。染物屋は紺屋とも言われる。現在の麹屋町と諏訪町の当たりに紺屋町があった。ここは染物屋が多く集まってできた町である。ジョアン吉田はロザリオ信心会でヌメロの組員としてアロンソ・デ・メーナ神父を匿い、宿主として働いた。棄教者に密告されて1619年元和5年3月に逮捕された。
 
・ドミンゴ・ホルヘ(Domingo Jorge)
ドミンゴ・ホルヘはポルトガルのアギアール・デ・ソウザ出身で農家の家庭に1580年頃生まれた。青年になったドミンゴはインドへ渡り植民地駐屯地の兵士となった。後にマカオに移って貿易商を営んだ。1600年頃に長崎に移住しロザリオ信心会に参加しながら仕事に従事していた。日本人キリシタンのイザベル・フェルナンデスと結ばれ1618年元和4年に長男イグナシオが生まれた。ドミンゴ夫妻はカルロス・スピノラ神父とアンプロジオ・フェルナンデス神父を自宅に匿い、宿主として働いた。ドミンゴ・ホルヘもまたヌメロの組員であった。1618年元和4年12月に長崎奉行所の役人に踏み込まれドミンゴ夫妻は2人の宣教師と共に捕縛された。2人の宣教師は鈴田牢に、ドミンゴ夫妻はクルス町の牢に入れられた。
 


・処刑の宣告
レオナルド木村は投牢されて3年間、神に身を捧げる準備を心にとめ日々祈りを捧げていた。1619年元和5年11月18日の朝に奉行からレオナルド木村と4人の同伴の出頭が命じられた。レオナルド木村は歓喜のあまり「Laudate Dominum(主を誉め讃えよ)」を歌い出した。そして
「Nunc Dimittis」を歌い始めた。これはシメオンの賛歌で「今こそ主よ、しもべを去らせたまわん」という意味で、主の奉献の時にシメオンがイエスを抱き、救世主が到来したと神に感謝して歌った詞である。歌い終えると十字架の前に跪き、祈りを捧げた。

5人は綱で縛られ、クルス町の牢から奉行所まで連行された。この道中、どこで噂を聞きつけたか多くの群衆が集まってきた。皆レオナルド木村に世話になった者ばかりで最後の別れを告げに来たのだ。彼らを抱擁し別れを惜しんだ。レオナルド木村は嬉しさのあまり一同に礼を言い、
「死ぬまで信仰とキリシタンとしての義務を持って耐え、そして守れ。主は取り柄のない私にもこうして殉教の恵みを注いでくださった。感謝でいっぱいだ。皆、パライソで会おう。」
群衆に別れを告げて奉行所に歩を進めた。
長崎奉行長谷川権六はレオナルド木村に対して尋問が行われた。
「将軍様の命令を聞かず、なぜ日本に留まったか」
「私はイエズス会の修道士であり、キリストの福音を宣べ伝える為に留まりました。」
「処刑されることがわかってか。」
「無論、命のあらん限り。」
レオナルド木村ははっきりと答えた。
「公方様から5人を火焙りにせよと命ぜられている。明石内記の件で捕縛したが、今回の処刑は公方様の命に背き、キリシタンの教えを説いて回ったからである。異論はないな。」
レオナルド木村は歓喜のあまりしばらく顔を地に伏せた。
そして顔を上げて言った。
「私の処刑は、見ず知らずの殺人容疑でもなく、内記の件でもなく、私がイルマンであり、神の言葉を必要としている人々に告げ知らせた事で間違いないのですね。私は濡れ衣が晴れたことになんと感謝を述べてよいか。」
そして周りの役人、奉行所の周りにいるであろうキリシタンにも聞こえるように言った。
「信仰の堅い者は終わりを全うするように。転びのキリシタンは懺悔するように。まだキリストの言葉を知らない者は真の信仰に入るように。」
尋問が終わり処刑の時間が近づいた。レオナルド木村はイエズス会の修道服を着てバレットと呼ばれる修道士が被る帽子を被った。ホルヘはヌメロの会服を着た。他の三人もヌメロの組であったが財産没収の際に会服も取り上げられた為会服を着ることができなかった。会服を着ることはできなかったが晴れ着を用意され着用した。5人は罪状を結び付けられ西坂へ連行された。市内の大部分は閑散とした。なぜなら西坂の方へ引かれていくキリシタンを見ようと奉行所から西坂の間に多くの見物人が押し寄せた。5人は群衆の間を引かれて通り、勇んで歩を進める姿は凱旋祝いのようだった。群衆の中にはポルトガル商人がいて、同胞のホルヘを見て涙した。
「私たちの大きな幸福を祝って下さい。」
ホルヘもまた彼等を見て慰めの言葉をかけた。レオナルド木村は十字架の道行きの間、見物人に説教を行い最後まで一人でも多くの人々を救おうとした。
 
 
・光を掲げて
西坂の坂を上がり、昔から処刑場として使用していた場所に着いた。ここは1597年慶長元年に26人の尊い血が流れた場所である。5人は敬意を表して十字を切り、それぞれ黙想し深々と礼をした。西坂を経て、この裏手にある御船蔵と呼ばれるゴルゴダの丘に5人は到着した。処刑場には5本の火刑台が設けられ、彼らは一列に並んだ火刑台の前に並べられた。海岸側から徳安、レオナルド木村、次にホルヘ、ジョアン吉田、コスメ竹屋の順であった。彼らはそれぞれ火刑台の柱に礼をし、お互いに別れの挨拶を告げた。処刑を見ようと多くの群衆が集まった。立山側から処刑が見える場所は人で埋め尽くされ、海からも船を使い見物人が集まった。近年長崎でのキリシタン処刑は名物化となっていた。娯楽とまでは大げさであるが怖いもの見たさに集まる一般市民や外国の商人などが多く集まっていた。身分の高い婦人、手を合わせて険しい表情をする人々も見られた。
「・・・友よ。貴殿が先であったか。約束を守るまで、生きよう。主よ、彼らをお守りください。」
涙を堪え群衆に紛れて光景を見守る人物がいた。
 
レオナルド木村と同志達は柱に括りつけられ薪に火がつけられた。彼らの両手は括りつけられていた為、手を合わせたり、両手を天に掲げることはできなかったが、顔を上げ、瞳を見える空の一番高い上げて仰ぎ見て、炎を受けた。火刑の際には身体を傾けたり、肌を縮めたりして苦しみを少しでも逃げることが通常だが、彼らは誰一人苦しむ姿が見せることはなかった。ホルヘはしっかりした声で使徒信条を唱え始めた。
「天主の創造主、全能の父である神を信じます。・・・」
と唱え始め、
「・・・おとめマリアから身体を受け・・・」
と唱えるや彼らは次々と息を引き取った。
 
レオナルド木村は同志達の帰天を確認するまで炎を受け続けた。だが体を固定された縄が炎で燃え切れてしまい、レオナルド木村は地面まで倒れこんでしまった。火刑の際には固定される縄が焼き切れないように泥を塗る。これをすることによって火刑が終わるまで受刑者は固定される。しかしそれ以上の業火だったのであろう。地に倒れこんだレオナルド木村は熱される地から呟いた。
 


「・・・・・光・・・・」
 


赤く熱された炭を大事そうにかき集め、レオナルド木村は立ち上がり、そしてこれを捧げ物のように天へ高く掲げた。
 
「Laudate Dominum、主をほめたたえよ。」
 
高らかに歌うと、
「ゼズス様、マリア様。ゼズス様、マリア様。」
あらゆる方向から一斉に聖名が唱えられた。
レオナルド木村はキリシタン達の声を聞くと安心した顔で目を閉じ、命の限り炎を受け天に帰った。1619年元和5年11月18日であった。
 
「西の方に見えるあの光はなんだろう。」
日本の国の西側にある長崎という町はかつてキリスト教伝来により大きく発展した町であった。まだ人々は暗い世の中で希望の光を求めていた。長崎の西の海岸で大きな光を放たれた。遠く離れた場所でもそれは見えた。日本のほとんどの人は見たことのない光を求めて、暗い世の旅を始めた。その光は後に長崎の大殉教と呼ばれるようになる尊い火刑の炎であった。彼らは光に導かれ救い主と出会った。
 
 
・後日譚
 5人の殉教者が天へ帰り、抜け殻となった遺骸は柱に残り止め焼きによって刑は終了した。役人達は燃え立った薪を集め彼らの遺骸を焼き尽くし、さらに砕いて灰にしようとしていた。見物に来ていた群衆は未だに散ることなくその場に留まり殉教者の最後を見届けていた。群衆の中から颯爽と飛び出し役人の前を横切り、また群衆の中に消えた。一瞬の出来事だったので役人は木を口に咥えた犬かと思った。しかし他の役人が少年が熱せられた殉教者の骨を盗んでいくのを見た。目撃した役人は群衆を掻き分けその少年を捕まえた。
「何ばすっとですか。何も取っとらんて。見てみらんですか。」
少年は両手を広げて役人に見せた。その後少年の持ち出した殉教者の骨はマカオに送られた。細かく砕かれた遺骸は集められ、キリシタンの遺骸破棄場となっていた高鉾島の近海に沈められた。
 マカオのイエズス会修道院に3枚の絵が残された。この中の一つの絵には西坂から銭座町、立山、浜口へ続く長崎湾の風景が描かれており、5人の殉教者が炎を纏った姿がみられる。彼らの表情は勇ましく、優しく丁寧に描かれている。絵画自体はひどく痛んでおり作者の名前などは確認できない。
 レオナルド木村や他の多くの殉教者に貰った勇気の灯火を頼りに、残されたキリシタン達は密かに信仰を守り続け、暗く長い禁教令がついに解かれた。同じ頃、教皇ピオ九世により205人の殉教者が福者の列に挙げられた。レオナルド木村と同志4人は証し人の代表者として205人の中に加えられている。彼が掲げた光は主の光を受けて今もキリシタンの子孫へ照らしている。

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