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元和大殉教 ~イザベルとイグナチオの物語~ Bento

はじめに神は天と地とを創造された。
 
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
(創世記一章一の三十一)
 
朝焼けのころ、静寂が鳥のさえずりと共に空を青く徐々に染め、山々から黄金に輝く光を放ちながら地を明るく照らしていく。
野は青々を茂り、我先へと背丈を伸ばし地や丘を緑に染めていく。
緑の葉の間に色とりどり花は赤や黄色と着飾る者もいれば、ひっそりと咲く者もいる。
蜜集めに虫たちが花に集まり、さらに着飾る蝶も羽ばたきに陽に反射して輝く。
地の獣は美しい毛皮を身に包み、種の為に食を求めて気高く大地を動く。
命が尽きた後も小さな生き物たちがひたむきに働き、亡骸は地に返る。
空には鳥たちが大きな翼を広げ、森から森へ移動し、自然のオーケストラに加わる。
海には魚たちが泳ぎ、天に向かってクジラは潮を吹き空に宝石を散りばめさせる。
空に掛けたキャンバスは風と雲と光と時々虫や鳥たちとで、同じ物は存在しない作品を作る。
今まで白か黄色にしか輝かなかった太陽も時間と共に空と山々を赤く染めていく。陽が沈むと静寂の闇夜に変わるが、陽の光で気付かなかった遠い星の輝きが静寂の寂しさを感じさせない。
光を受けて光る月は毎日表情を変えてこの地を見守る。
神が造ったすべての物は、神が認めた「よし」とされた物、皆それぞれに美しいと感じているのであろう。
人もまた神に創造された。地を管理するようにと最後に創造された。
人は憎しみ、争い、殺し合い、妬み、悪口、騙し・・・・
人はどの部分をとって美しいと感じていただけるだろう。
 
 
「はあ、はあ、はあ、はあ・・・」
立山を駆け上り、地面に落ちた自分の汗が乾く間もなく顔を上げ、長崎の港が眼下に広がる。赤く染まり始めた立山から、人々の目線は岬の方を向いていた。皆の目線の先には天国へのハシゴをかけたような黒煙を天まで立ち上がらせていた。
 
「ゼズス様、マリア様。ゼズス様、マリア様。」
 
西坂の丘に植樹された26本の椿の木に見守られながら、馬込の刑場に出でた5人の同志は火の中に立ち、まるで光の中にいるようだった。刑場から遠く離れた立山に大勢の人が集まり手を合わせている。一つ一つは微かな息のような声だ。その微かな声も合わさると御名と御母の名がまるで合唱のように長崎の港を響かせた。男の子を抱擁した一人の女性は決心の顔で、御名の合唱を聞きながら光の先を見つめていた。
 
 
元和大殉教 ~イザベルとイグナチオの物語~ Bento
 
 
「あなたに洗礼を授けます。名前はイグナチオ。」
ロウソクの揺れる炎の光が額に注がれる水に反射して、まるで天からの恵みが注がれているようだった。産まれて間もない赤子は天からの恵みが注がれ声を潜めて笑っていた。その子父ドミンゴ・ホルヘと母イザベラ・フェルナンデスは見つめ合っては笑顔が零れていた。イエズス会の創設者であるイグナチオ・ロヨラの列聖運動は帰天後すぐに開始されていた。この列聖に賑わっていた頃に玉のような男の子が産まれた。産まれてすぐに両親はイエズス会のカルロ・スピノラ神父の元に出で、神父は男の子に「イグナチオ」の洗礼名を授けた。1618年、元和5年であった。
 
 ポルトガルの片田舎に生れたドミンゴ・ホルヘは貿易商人として長崎に訪れた。長崎の地を足にしたのは1600年頃、長崎はキリシタンの町へと急速に発展していった頃であった。岬の教会を中心として各地に和風建築の教会が立ち並び、彼の眼には懐かしさを残しつつ日本という異国で日本独自にキリシタンの町へと発展する長崎に大きな期待を胸に抱いていた。白亜の教会である山のサンタマリア聖堂はポルトガル人によって建てられ、異国へ来た人々の大事なコミュニティーであった。ドミンゴ・ホルヘはポルトガルの商人として働き、ロザリオ信心会として教会の仕事にも大いに参加していた。さらに信心会でもヌメロと呼ばれる役に選ばれキリシタンや宣教師の大きな支えとなった。そしてこの長崎の地でドミンゴ・ホルヘは生涯を共にするイザベラ・フェルナンデスという最良の女性と出会うことになる。
1597年慶長2年秀吉の伴天連追放令によって当時の司教マルティネスはマカオに追放された。長崎を任されたのは準管区長ペドロ・ゴメス神父であった。イザベラはこのペドロ・ゴメス神父から洗礼を受けた。当時列聖運動が盛んであったイザベラ女王にあやかって「イザベラ」の洗礼名を受けた。イザベラ女王はミゼリコルディアの組の基礎を築いた人物であり、その意志は遠い長崎の地にも根付いた。イザベラ・フェルナンデスも洗礼名と共に慈悲的奉仕の精神を受け継いで成長していった。ドミンゴ・ホルヘとイザベラは教会共同体で互いに惹かれ合い、迫害の嵐が吹き抜ける中、共に歩いていく契約を結んだ。
「パードレ様、私の家をお使いください。我々ポルトガル商人の家にパードレが出入りするのを見られても誤魔化しがききます。」
 江戸幕府が開府されたのが1603年慶長8年の時である。征夷大将軍徳川家康も残された時間はなく、2年後に息子秀忠に二代将軍を引き継がせた。先代家康はキリシタンに対して豊臣秀吉が発布した伴天連追放令の政策を取っており、この政策での伴天連追放令の中には貿易等で外国人の商人の出入りは認められていた。宣教自体は認めてないが、貿易はしたいから黙認という下心が含まれた政策とも言える。これにより布教活動は自由とは言えないもののポルトガル商人やスペイン商人に変装して宣教活動を行えていた。
 ドミンゴ・ホルヘはポルトガル商人であった為、外国人が出入りする事はあまり不自然ではなかった。これを利用して自身の家に神父達を迎えていた。彼の家はかなり広かった為、宣教師の隠れ家や舶来品に混ざって密輸された聖品の保管に大いに活躍した。
 
1564年イタリアの伯爵の家に生れたカルロ・スピノラは、19歳でイエズス会の門を開き、聖なる信仰を未だ知らない、未知の国の人々に伝えることを夢見て日々修練を続けた。日本という国はまさに彼の情熱を注げる地であった。1594年にミラノで司祭に叙階し、ジェロニモ・デ・アンジェリス神父と共に日本に向けてリスボンを出港した。彼らの航海は彼の求める地へすんなりと導くものではなかった。喜望峰を通過する時にブラジルに流され、船が故障しサンサルバドル島で立ち往生。いざ出向の時に海賊に襲われ捕虜となりイギリス連行。マラッカやマカオを経て、やっとの思いで日本に上陸した。来日してからは有馬で日本語を学び有江の教会を担当し、ミヤコに移り数学や天文学を神学生に教授した。1611年慶長16年に管区の財務責任者に任命されて長崎に行った。長崎ではドミンゴ・ホルヘの自宅を拠点に、日中は家で隠れ、日が沈んでから近辺の信者たちに秘跡を授けていた。
 イザベラのお腹には神様からの贈りものがあり、すくすくと大きくなってきていた。毎日スピノラ神父からお腹に祝福が受けられその度にお腹の子は喜び踊っていた。
「生れてくるこの子も、あなた様のようにパードレになれるでしょうか。」
イザベラはお腹をさすりながらスピノラ神父と話していた。
「神様の業は計り知れない。私も導かれた者ですので、この子が召命を受けるのであれば、それがこの子の道なのではないでしょうか。」
「それに、不思議なものです。私はイタリアで生を受け、遥か海の向こうだった日本にいます。何度も、ここで私の道は終わりか、と思うことが多々ありました。しかしまだ続いて日本にいるのです。故郷にいた時や神父になる前には想像もつかなかった人生です。神の業は計り知れない。神が望まれる使命に生かされています。これから神はどのような道を私に示していただくか、私の希望としては・・・」
スピノラ神父は咳払いをし、
「すべて、神の導きです。」
イザベラに何か言いかけたが濁すように、襟まで届く長く真っ白な髭から見える口角を上げて笑顔で誤魔化した。イザベラはスピノラ神父の心情を聞きたい気持ちで開いた口だったが、スピノラ神父の笑顔で声も出せず息を含んでぎこちなく笑顔を返した。
 
 
 
嵐の中の小さな灯火
 
地方の大名のキリシタンへの改宗、神仏勢力の抵抗活動、イギリスやオランダなどの日本への貿易権争いにより、次第にキリシタンへの慎重な対応が必要となってきた。そんな中ポルトガルとの貿易の揉め事やキリシタンの贈収賄事件などが発生し、これを機にキリスト教の禁教令が発布されることに繋がった。1612年慶長17年に発布された江戸幕府の最初の禁教令により江戸・京都・駿河などの幕府領の教会や布教が禁止され、キリシタンの家臣を尽く改易処分の処置が行われた。翌年1613年慶長18年には全国に禁教令が命じられ、宣教師やキリシタン達はマカオやマニラに国外追放された。長崎の教会や関連施設は残らず破壊されてしまった。そして1616年元和2年に家康が死去し秀忠が本格的に幕府の実権を握る事となった。日本には34人のイエズス会士、フランシスコ会士5人、ドミニコ会士56人、アウグスチノ会1人、教区司祭5人が追放を逃れ潜伏した。カルロ・スピノラ神父も日本に留まった宣教士の一人であった。
もともとキリシタン嫌いの秀忠は権力を見せんとして先代に増して迫害の度を強め、日本に残っているわずかな宣教師、そしてキリシタンを根絶やしにしようと考えた。長崎へ対しての取り締まりはまだ緩い現状だった。この時の長崎の領主は大村純忠の孫にあたる純頼であった。彼は棄教者である大村喜前の家督を継ぎキリシタン弾圧を行っていた。しかし長崎にはキリシタンがあまりにも多く、加えて地下組織により巧妙に弾圧を避けて潜伏し手に負えなかったのである。
ある日、豊臣秀頼軍についていたキリシタン大名の指名手配が行われた。もちろん長崎にも調査官を派遣されることになった。キリシタンを野放しにして制圧できていない長崎にしびれを切らしていた幕府はこれを絶好の機会と考え、純頼に揺さぶりをかけた。領地を失うことを恐れた純頼は特に目立った行動をしていた大村に使者を送り宣教師狩りを命じた。
1617年元和3年フランシスコ会のペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父とイエズス会のジョアン・バティスタ・マシャド・デ・タボラが宣教師狩りの後、殉教の栄冠を受けた。この殉教はこれから長く続く大迫害の始まりとなった。
 
1618年元和5年、迫害の嵐の真只中である。ドミンゴ・ホルヘの家に産婆が走って入っていった。慌ただしい空気が流れ、一瞬、澄み切った青空が音を消すように静寂の中産声が響いた。
「おー付いとる付いとる。男ん子たいね。頑張ったね、あんた。」
産婆が男の子を抱え上げ、イザベラに子供の顔を見せた。
「あなたが産まれてくるのをどれだけ待ち焦がれたか。」
イザベラは涙を流して神に感謝した。
その日の夜、
ロウソクの揺れる炎の光が額に注がれる水に反射して、まるで天からの恵みが注がれているようだった。産まれて間もない赤子は天からの恵みが注がれ、長崎の町を襲う嵐を悟っていたのか、声を潜めて笑っていた。その子の父ドミンゴ・ホルヘと母イザベラは見つめ合っては笑顔が零れていた。二人の顔もまた天からの恵みの光に照らされていた。
「あなたに洗礼を授けます。名前はイグナチオ。」
スピノラ神父は男の子に「イグナチオ」の洗礼名を授けた。
 
 
Bento
 
 「町中にこう言う噂を流すのだ。『キリシタンの隠れ家が判明した。近いうちに捜索に入る。』とな。」
長崎奉行長谷川権六は部下に町民に扮して噂を流すように指示をした。幕府の禁教令も本格化し、大村の宣教師狩り起こりキリシタンを捕縛したら処刑が必須となった。流血嫌いの権六はどうにかしてキリシタンを町から追い出そうと考えた。長崎の町に存在する事は確かなのだが、捜索するにも組織ぐるみの巧妙な潜伏に尻尾を出さないキリシタン達の動きを出させるために嘘の噂を長崎の町に流したのである。
 長崎に流された噂はすぐに広がり、各地で現在の隠れ家から場所を変えてそれぞれ隔離していた宣教師を守る動きが計画された。ドミンゴ・ホルヘ宅へ隠れていたスピノラ神父は逃がし役のキリシタンにすぐに避難するように言われた。
「パードレ様、いかれるのですか。せめて翌日にお願いできないでしょうか。」
イザベラは逃がし役に懇願した。
「すまない。彼らに御ミサを捧げる約束をしているのだ。」
スピノラ神父はイザベラの心中を察し逃がし役の興奮をなだめた。話し合いの結果翌朝夜明け前に御聖体拝領が終わってから出かけることとなった。
 それぞれ休息を取り、夜が深くなった。突然権六の家来が大勢やってきて騒ぎ立てながらドミンゴ・ホルヘ宅へ入ってきた。屋根裏の部屋にいたアンブロシオ・フェルナンデス修道士は初めに捕縛、一番奥の部屋にいたスピノラ神父も大して時間もかからずに捕縛された。
「これ、そこまできつく縛らなくとも私は逃げない。」
役人は逃がすまいと皮膚の色が変わるほどスピノラ神父の手を縛り、涼しい顔でスピノラ神父は役人をなだめた。
 イザベラはスピノラ神父の方を向き、動揺のあまり口を動かすも震え、声が出ない。瞬きも出来ず神父を見るが後悔の念で涙も出ない。
「イザベラ、すべて神の導きです。」
スピノラ神父はイザベラに笑顔を見せた。「あなたのせいではない」と言わんばかりに神父の優しさがイザベラの心のしこりを小さくした。1618年、元和4年12月13日スピノラ神父はイルマン・アンブロシオ、ドミンゴ・ホルヘと共に捕縛された。
 
 捕えられるとすぐに奉行に連行された。
「日本国のお上である将軍様はこの地に宣教師を残さぬように命じたこと、うぬは知っておるか。」
権六はスピノラ神父に尋ねた。
「もちろん承知でございます。しかし私は神の御言葉を必要としている人々の為に働きたくございましたので変装して隠れておりました。」
「さて、いろいろと移り住んでいたのであろう。隠れ家にしていた家を申し述べよ。」
権六はさらに詰めよってきた。
「お陰様で確かに青空の下で寝る事はございませんでした。もちろん留まった場所を明らかにすることはありません。私はそういった者でございます。無用な質問でございます。」
「宣教師は日本人を救う為に来たと言うが、私が思うに滅ぼしにきたのではないか。実際彼らのせいで多くの者たちが殺されているではないか。」
「救いとは、どの救いをおっしゃっておいででしょうか。人は長くても短くもいずれ命の灯火は消えます。一番大切な物は終わることのない魂の救いです。イエス様の教え以外に救いはありません。もし、それを理解する人がこの理由で命を捧げるのは喜ばしことです。すべて神の導きです。私がお奉行様の前にいる事も神の導き。その後自分達に訪れる事も導き。将軍様や御奉行様にも良いお導きがありますように。」
初めの方にクルス町の牢屋に収容されたスピノラ神父らは、次々と捕縛されては収容されてきた宣教師やキリシタン達を出迎えた。権六の思惑は長崎の町から追い出すどころか、クルス町の牢屋を御降誕のミサのように神父、修道士、同宿、キリシタンを集め、溢れさせた。牢屋は飽和状態となった為、神父や修道士は大村の鈴田牢へ搬送されることが決定された。同宿や一般キリシタンはクルス町の牢屋に留まらせた。スピノラ神父はクルス町の牢屋に残されたキリシタン達に別れを告げた。
「あとのことは任せましたよ、レオナルド。」
スピノラ神父は修道士レオナルド木村に残されたキリシタン達を支えるように先導を任せた。レオナルド木村は修道士であったが、捕縛の時に修道士としてではなく全国指名手配のパウロ明石の重要参考人として捕縛されたので大村行きのリストから漏れクルス町の牢に残った。
大村へと引かれる一行を一目見ようと人だかりができていた。スピノラ神父はすぐに群衆の中のイザベラの存在に気付いた。
「Bento (祝福がありますように。)」
群衆に向かって十字を切り、ポルトガル語で祝福を与えた。
 
 大村純忠によって開港された長崎は開港とともに新しい町が誕生した。岬の先端は教会を建設するために土地を残し、道を隔てて6町が作られた。これらは内町と呼ばれ、1593年天正20年には23町ができた。最初の6町はイエズス会に寄進され、長崎はキリシタンの町と発展していった。この内町に墓地があり、墓地の中心に大きな十字架があったことからこの墓地辺りの町はクルスの町と呼ばれていた。長崎の発展と同時にこの墓地は山のサンタマリア教会と炉粕町の間辺りに移されサン・ミゲルという新しい墓地となった。この跡地には「クルス町」の名前だけが残り、ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父の着手によってこの地にフランシスコ会の修道院が建てられた。付属教会のサン・フランシスコ教会の建設が計画されたが1614年慶長19年の禁教令によって建設途中で取り壊されてしまった。その後この跡地には牢屋が作られ「クルス町の牢屋」と呼ばれた。クルス町の牢屋ができて最初に投獄されたのがレオナルド木村であった。
17世紀頃の刑罰は、死刑、遠島、追放、罰金、敲き、謹慎であった。容疑で捕縛された者は奉行所に連行され吟味を行われる。牢屋は未決囚を収容する拘置所であった。定期的に奉行所に呼び出されては吟味が行われ、刑が決まると牢屋から出ていくという流れである。吟味の為に呼び出される以外は特に何もない。食事は日に2回、玄米5合と具なしの汁物や漬物などが与えられていた。牢内で独自の制度があった。囚人内で選挙が行われ牢名主が選ばれ序列が作られた。序列の高い順に寝床の範囲や食事の量が貢物として優遇される。殺人や詐欺など極悪人ほど序列の高い者として選ばれることが多い。新入りが入ると嫌がらせが始まる。その嫌がらせが度を増して死亡する事例もあった。序列の低い囚人や新人は隅に追いやられ、食事も取り上げられ十分に取れず、刑が下る前に牢内で病気や衰弱して死亡することもあった。よって投獄される時は挨拶代わりの金品等を渡すことで安全な牢内生活を過ごすことができた。レオナルド木村は劣悪な環境の牢屋の中、素晴らしい構想を考え実行した。
レオナルド木村は日課を作り、朝の祈り、一時間の黙想、一時間の声を合わせて祈祷、正午まで連祷を精神的な読書、午後には四時間の読書、習字や手工を行った。聖書の朗読、聖歌などの順序を決め、断食の日を設け、厳格な苦業が行われた。祝別されたクルス町の牢屋を得たレオナルド木村は慈愛と熱意で牢屋を修道院に変えた。牢内だけでなく外部まで説教を行った。断食した分は牢外の貧しい老人に恵んでいた。その結果彼が投獄されてから96人の人々が洗礼を授けられた。イザベルは夫の事を心配して2,3日ごとに牢屋に訪れていた。イザベラは他の婦人らと交代でレオナルド木村の慈愛の奉仕の手伝いを行った。この徹底した修道院と化した牢内生活は精神の崩壊を免れる以上に何にも屈しない心を身につけることができた。レオナルド木村はスピノラ神父の思いを見事に応え、レオナルド木村に出会った囚人の心はすべての苦痛から解放された。
 
1619年元和5年、徳川秀忠の命令により女子供を含めた大勢のキリシタンが炎を身にまとい殉教した。京都で大殉教を目の当たりにした長崎奉行長谷川権六は江戸に戻り、背教者のトマス荒木を連れて今後の処置を幕府に仰いだ。荒木は宣教師や宿主、その他明石の関係者の捕縛したことを幕府に報告した。今後の処置の返答として明石の問題で逮捕した人を釈放し、宣教師を匿っていたキリシタンを処刑するというものであった。レオナルド木村は釈放されるはずだった。しかし権六の意向により修道士という理由で処刑が決定された。そしてカルワリオの丘への道行きにレオナルド木村と同行する宿主が選ばれた。モラレス神父の宿主であった村山等安の長男のアンドレス村山徳安、ファン・マルティネス・デ・サント・ドミンゴ神父とアンヘル・フェレール・オルスッチ神父の宿主のコスメ竹屋長兵衛、アロンソ・デ・メーナ神父の宿主のジョアン吉田正右衛門、カルロス・スピノラ神父とアンプロジオ神父の宿主のドミンゴ・ホルヘの4人であった。
ドミンゴ・ホルヘは処刑の命を受け、イエズス会管区長へ手紙を出した。
「私はこの哀れな世界を出る前に皆さまに対する愛のしるしとも証拠ともなるべき手紙を出します。憐れみ深い神は我々が懇願した喜ばしい最期を我々に与えてくださいます。」
死を持って信仰を表し、心から生命を神に捧げる事を報告した。
1619年元和5年11月18日の朝に奉行からレオナルド木村と4人の同伴の出頭が命じられた。レオナルド木村から処刑に至る経緯を発表された。彼はイエズス会士で布教の為に処刑される事を告知されると、歓喜の歌を歌った。ドミンゴ・ホルヘにも質問された。
「お前は将軍の御法度を軽んじてパードレ・スピノラをひそかに匿っていたのか。」
「私は公方様の御法度に背くこととは確かに承知してはいましたが、パードレを匿っていたことは躊躇すべきことではないと考えていました。たとえ死刑を言われたとしても、それを喜んで受ける気持ちでございました。」
ドミンゴ・ホルヘは死刑宣告を喜んで受け入れることを宣言して、ヌメロの組の会服を身につけた。レオナルド木村はイエズス会の修道服、他の三人もヌメロの組であったが財産没収の際に会服も取り上げられた為着ることができなかった。会服を着ることはできなかったが晴れ着を用意され着用した。5人は罪状を結び付けられ西坂へ連行された。市内の大部分は閑散とした。なぜなら西坂の方へ引かれていくキリシタンを見ようと奉行所から西坂の間に多くの見物人が押し寄せた。5人は群衆の間を引かれて通り、勇んで歩を進める姿は凱旋祝いのようだった。群衆の中にはポルトガル商人がいて、同胞のドミンゴ・ホルヘを見て涙していた。
「Bento 私たちの大きな幸福を祝って下さい。」
ドミンゴ・ホルヘは嬉しくなり彼等に慰めの言葉をかけた。レオナルド木村は十字架の道行きの間、見物人に説教を行い最後まで一人でも多くの人々を救おうとした。
 
 
 
光を掲げて
 
西坂の坂を上がり、昔から処刑場として使用していた場所に着いた。ここは1597年慶長元年に26人の尊い血が流れた場所である。5人は敬意を表して十字を切り、それぞれ黙想し深々と礼をした。西坂を経て、この裏手にある二十六聖人殉教地とは別の「馬込」と呼ばれる処刑場に5人は到着した。処刑場には5本の火刑台が設けられ、彼らは一列に並んだ火刑台の前に並べられた。彼らはそれぞれ火刑台の柱に礼をし、お互いに別れの挨拶を告げた。処刑を見ようと多くの群衆が集まった。立山側から処刑が見える場所は人で埋め尽くされ、海からも船を使い見物人が集まった。
レオナルド木村と同志達は柱に括りつけられ薪に火がつけられた。彼らの両手は括りつけられていた為、手を合わせたりや両手を天に掲げることはできなかった。しかし顔を上げ、瞳で見える空の一番高いところを仰ぎ見て、炎を受けた。天国へのハシゴをかけたような黒煙を天まで立ち上がらせていた。
火刑の際には身体を傾けたり、肌を縮めたりして苦しみを少しでも逃げることが通常だが、彼らは誰一人苦しむ姿が見せることはなかった。ドミンゴ・ホルヘはしっかりした声で先導し、使徒信条を唱え始めた。
「天主の創造主、全能の父である神を信じます。・・・」
と唱え始め、
「・・・おとめマリアから身体を受け・・・」
と唱えるや彼らは次々と息を引き取った。
レオナルド木村は同志達の帰天を確認するまで炎を受け続けた。だが体を固定された縄が炎で燃え切れてしまい、レオナルド木村は地面まで倒れこんでしまった。赤く熱された地に倒れこんだレオナルド木村は赤く輝く炭を大事そうにかき集め、レオナルド木村は立ち上がり、そしてこれを捧げ物のように天へ高く掲げた。
「Laudate Dominum、主をほめたたえよ。」
高らかに歌うと、
「ゼズス様、マリア様。ゼズス様、マリア様。」
あらゆる方向から一斉に聖名が唱えられた。一つ一つは微かな息のような声だ。しかしその微かな声も合わさると御名と御母の名がまるで合唱のように長崎の港を響かせた。
レオナルド木村はキリシタン達の声を聞くと安心した顔で目を閉じ、命の限り炎を受け同志と共に天に帰った。1619年元和5年11月18日であった。
イザベラはイグナチオを抱擁しながら、決心の顔で御名の合唱で見送られる光の先の空の方を見つめていた。
 
 
 
元和大殉教
 
台湾近くで平山常陳が船長とする朱印船がイギリスとオランダ艦船に捕らわれた。平戸に入港し密航の疑いで長崎奉行の取り調べが行われた。二人のスペイン人は商人であると言って疑いを逃れようとして2年間もの取り調べや拷問の末、宣教師であることを告白した。スペイン人の宣教師、アウグスチノ会士ペドロ・デ・ズニガとドミニコ会士ルイス・フローレスは平山常陳とその船員全員と共に1622年元和8年に処刑された。平山常陳事件と呼ばれるものだ。この事件により幕府はキリスト教への不信感を決定づけるものとなった。長崎奉行長谷川権六は流血を避けていたことにより、キリシタンの疑いがかけられ、弾圧側の執行人として身の潔白を証明することを強いられることとなった。京都の一斉の大殉教を目のあたりにした権六は大村の鈴田牢に収容している宣教師や修道士を長崎へ移送する事を命じた。クルスの牢屋はその後に多数捕縛され、キリシタン達で飽和状態となっていた。イザベラとイグナチオもそこに含まれていた。
 
 長崎湾に突き出た半島はキリシタンの間から「聖なる丘」と呼ばれた。ここは大黒町から麦の段々畑の坂の長崎街道を上った西坂の高台である。かつて26人の聖なる殉教者が処刑された場所であり、これまで多くのキリシタンが処刑された。殉教者の骨や衣服、さらに血が染みついた土でさえも信仰の対象である聖遺物となった。この聖遺物を求めてここを訪れる者がいた為、警備は厳しいものであった。特にこの日は新しい竹矢来がめぐらされ、陸からも臨海からも警備兵が設置されていた。駕籠が到着した。多くの役人に囲まれて西坂の半島の海岸側の上部の段に設置された番小屋に向かった。
長崎奉行長谷川権六は仮病という謎の病に罹り、助太夫という役人が指揮を命じられ、番小屋の中国風の赤い絨毯に腰を下ろした。大村や平戸など数人の重臣も同席していた。
朝9時ごろ大村からスピノラ神父ら25名が到着した。彼らは並べられた25本の柱の前に立たされ、柱についていた長い紐で両手を緩く縛られた。死を避けようと逃げる者をわざと出し、信徒たちへ軽蔑を煽るためにしっかりと磔にすることをしなかった。柱の周りには囲うように薪が詰まれていた。彼らの向かい側には斬首の為の長い首さらし台が置かれていた。
 
「Laudate Dominum omnes gentes 神をほめたたえよ」
 
スピノラ神父が歌い始めると次々と柱に縛られた殉教者が声を合わせて歌った。あまりにも聖なる風景に立ち会った人々の中に涙を流す人もいた。スピノラ神父は柱に縛られてもなお、役人や立ち会った周囲の人々に熱心に訴えかけた。
「我々は国を奪う為に来たのではない。キリシタンの教えにだけにある救いの道を教える為に来た。また、我々を殺してもキリシタンは滅びない。一人を殺せば神は百人をこの地に送るであろう。キリシタンが火に打ち勝つ時の楽しみをよく見るように。」
 しばらく経ってから、長崎の方からキリシタン一行が到着した。宣教師を匿った協力者、男12名、女13名、子供5名。イグナチオは晴れ着を着せてもらいイザベラと一緒に竹矢来に入った。
 
 
イザベラとイグナチオの殉教
 
「あがん小さか子のおるばい」
「あぎゃんなら産まれてこん方がよかったっちゃなかとね。可哀そか。」
群衆の中でひそひそと右や左の人達と話している。
スピノラ神父は一段下の斬首される同志の中からイザベラとイグナチオを探した。イザベラと目が合い手を上げ、
「よかった、イザベラ。私はここです。」
イザベラもスピノラ神父の顔を見るや安堵の表情となった。スピノラ神父の縛られている両腕の縄の他にきつく縛られた古い縄の跡にイザベラは気づいた。自分のせいで捕縛されたことを思い出し心のしこりが握りつぶされるような痛みが重く走りうずくまってしまいそうであった。
「イグナチオが生まれる前、いつか話した私の希望、私の胸の内の思いを覚えていますか。」
イザベラはまだイグナチオが産まれる前の大きなお腹をさすりながらスピノラ神父と話したあの日の事とすぐにわかった。
「今日という日をどれほど懇願したか。神は私の祈りを聞き入れてくださいました。すべて神の導き。神の導きに感謝です。」
スピノラ神父の言葉にイザベラは今まで自分の背負ってきた物が完全に取り除かれ、崩れ落ちそうな身体は引き起こされスピノラ神父の顔を見ることができた。襟まで届く長く真っ白な髭から見える口角を上げて笑顔であった。その表情に涙が溢れ、空間となったイザベラの胸はみるみるうちに満たされ潤された。
「イザベラ。私のイグナチオはどこにいますか。」
イザベラは涙を振り払い、斬首の処刑場所から、我が子イグナチオを抱え上げて見せた。彼女の顔は強く、そして希望に満ちていた。
「パードレ・スピノラ様。イグナチオはここです。この児は私と共に死することを喜んでおりまする。私はこの地上において自分の身命よりも、貴重な一子を以ってデウスの犠牲に供します。」
イザベルはイグナチオに向かい
「お前は今日よりデウス様の子となり、われらの今失わんとする生命より、すぐれた永遠の生命を受ける。お前もパードレ様に頼み、デウス様の御憐れみを嘆願し、パードレ様の祝詞をお願いしなさい。」
イグナチオは地面に跪き、両手を合わせてスピノラ神父に向かって祝福と祈祷を願った。
「パードレ・スピノラ様。お久しぶりでございます。イグナチオは4つとなりました。パードレ様から頂戴した洗礼の秘跡、感謝申し上げます。この度、デウス様の子として歓迎していただけるよう、祝福をお願い申し上げます。」
4つとは思えないしっかりとした口調で表明した。
スピノラ神父は縄で縛られた両手を上げて、イザベラとイグナチオに向けて十字を切り
 
「Bento(祝福がありますように。)」
 
ポルトガル語で最後の祝福を与え、イザベラとイグナチオは両手を合わせてスピノラ神父の方を向いて丁寧に深々とお辞儀をした。
この光景を見た群衆の中の人々は眼から鱗のようなものが剥がれ、宗教の垣根を越えて皆の両手は自然と合わさっていた。
 
 
助太夫の指示で斬首刑が執り行われた。無表情の首切り役人は一振りで、次々にさしのべる首を落としていった。精神的苦痛を与える為に柱に縛られた人々の目の前で斬首刑は行われた。イグナチオの前に次々と殉教者の首が転げ落ちた。母イザベラの順番が来た。
「パライソであなたの父と待っています。共に行きましょう、デウス様の元へ。」
イザベラの首が落とされた。側にいたイグナチオは母をまねて跪き、頭を下げて首切り役人の一撃を受けた。静かに、神にすべてを捧げた。計30名の斬首刑は終了し、火刑される者の前に並べられた。精神的落胆を期待して並べられたであろうが、逆に彼らにとって励ましになるものとなった。並べられた殉教者の首には恐怖に満ちた表情はなく、希望に満ちた顔がそこには並んでいたからである。
 
 
道しるべ
 
 スピノラ神父は勇士を見届け、火刑の合図を待っていた。彼は助太夫に向かって忠告をした。
「汝の魂とこの国すべての魂を探し救わんとして、私たちは海の向こうからやってきました。その保証としてこの命を捧げます。私たちが捧げた貴重な賜物を受けてくださらなかった貴方達は、最後の審判を得られます。だが安心されてくださいませ。我々がパライソで貴方達の弁護人となろう。」
「我々の中で苦痛を訴える者がいるかもしれない。一寸の苦痛でも堪えられないような弱い肉体しか持っていないのに、今、この酷く恐ろしい試練にあって、余計に苦痛を感じるのは当然のこと。人間は弱い。だからこそ神を求める。我が天地の創造主の全能の信頼が必要なのである。」 
 
数か所から一斉に火がつけられた。観衆は叫び声をあげる者、悲鳴をあげる者、騒然した光景が広がった。しかし磔にされているスピノラ神父らには祈り以外の声は聞こえなかった。その為彼らには我らの為に祈ってもらう喜びで満たされていた。前日は雨だった。湿潤した薪には十分に燃え広がらず、その上薪が想定以上に足りず非常に弱い火で長い時間彼らの身を焦がしていった。中には苦しみに耐えきれない者もいたが互いに励まし合った。
火刑を受けた彼らは熱さを感じていない表情で天国の方向を向いて栄光に満ちていた。1時間半にも長く続いた火刑はスピノラ神父が先頭に立ち、天国に向かって列をなして帰っていった。セバスチャン木村は皆の旅立ちを見届け、列の最後尾に立って帰天した。1622年元和8年9月10日であった。
 
マカオで保管されていた「元和大殉教図」や現場に居合わせた証言をもとに調査が行われ、1868年ローマ教皇ピウス9世によって、日本205福者殉教者として列福された。数多くの殉教者の代表者となった。残されたキリシタンは彼らの生き様を「道しるべ」として信仰を守っていった。そして代々受け継がれた。
 
はじめに神は天と地とを創造された。
 
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
(創世記一章一の三十一)
 
神が造ったすべての物は、神が認めた「よし」とされた物、皆それぞれに美しいと感じているのであろう。
人もまた神に創造された。地を管理するようにと最後に創造された。
人は憎しみ、争い、殺し合い、妬み、悪口、騙し・・・・すべて人の弱さ。
神に向かって、神に信頼して生き、神に信頼して命を燃やした「道しるべ」はなんと美しかろう。
 


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