ボクはボクの今日を暮らす。アナタはアナタの今日を暮らす。
ボクはボクの今日を暮らす。
アナタはアナタの今日を暮らす。
ボクはアナタを喜ばせたり、アナタの期待にこたえたり、アナタを幸せにしたり、アナタのために生きてるわけじゃない。
アナタだって同じ。ボクの期待にこたえたり、ボクを喜ばせたり、ボクのために生きてるわけじゃない。
アナタはアナタ、ボクはボクだ。
アタリマエだよな。
でも、そんな独立した、まったく別の人間であるボクらが、この広い地球の上で、この長い歴史の中で、奇跡的に出会って、
目が合って、言葉を交わして、同じ時間を過ごしたり、
あるいは笑顔を見せあって、肌が触れあって、
抱きしめたり、キスをしたり、一緒に暮らすようなことがあれば、
それはもうサイコーだし、涙が出るほど幸福なことだよね。
でも、そんなボクらが、この広い世界で、お互いを見つけることもなく、ただ道端ですれ違って、気づきもせず、それぞれの人生に足を踏みいれることがなかったとしても、
あるいは、一度は同じ人生を生きて、愛を交換しながら、ヨロコビやカナシミを分かち合ったり、長い時間を共有したのに、
ふたたび離れ、それぞれの違う道を歩むことになっても、それはそれで、__ケセラセラ、まあ、しょうがないことだよね。
* * * * * * * * * * * * * * * *
これは、フリッツ・パールズという精神分析医の〈ゲシュタルトの祈り〉という言葉を、ボクがかなり自分よりに(笑)、意訳したものです。
Gestalt Prayer
I do my thing. You do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations.
And you are not in this world to live up to mine.
You are you and I am I.
If by chance we find each other, it’s wonderful. If not, it can be helped.
この夏、大好きな家族と別れ、独りになったボクは、気持ちの混乱を鎮めるために、自己の内面を掘り下げたり、様々な本を読んでいるときに、この言葉に出会いました。
そこでボクは、この数年間、自分が〈無境界〉という状態に陥っていたことに気づくのです。
生まれたばかりの赤ちゃんは、自分と母親との間に〈境界線〉を持っていないのだけれど、成長していくうちに、〈私〉と〈あなた(母親)〉は、別個の存在なのだと気づいていくんですね。
そうやって、二人の関係に境界線を引くことが成長であり、自立するということ。
今振り返ってみると、ボクはある出来事があってから、次第に、
__自分のことを信じられなくなり、他者や世界に怯えるようになり、奥さんや家族にばかり寄りかかるようになっていました。
あまりにゆるやかで、自分でも気づかないうちに、ボクはそのようにして、自分と彼女との間の境界線を失っていき、自分の感情と相手の感情を混同していきます。
ボクがウレシイことは彼女もウレシイはず、ボクがツラいことは彼女もツラいはず、と同化してしまうと、そうでない現実に混乱し、やがて相手をも信じられなくなり、尊重することができなくなる。
自分では、大切にしている、愛しているつもりなのに……。
コレはとてもとても、おっかないことです(笑)。
今は(笑)なんてつけられるようになったけど、とても笑えるようなことじゃなかった。
けれど、別離を迎えたことで、ボクはふたたび、自己と他己の間に境界線を引くことができた。
そして、自分と世界と他者を信じられる自分に戻って来れた。
ボクにはいろんなことができて、世界は基本的には明るくて、人生はだいたいにおいて楽しい。
ボクはボク、アナタはアナタ、彼は彼、彼女は彼女、みんなそれぞれが、それぞれの人生を生きる、というアタリマエのことに、立ち返れた。
__でも、そう思えるようになった時には、もう、彼らはココにはいない。
そんな歌もあったっけな。どうやら人生ってのは、そういうもんらしい。
痛みとやさしさを同時にもらったような、切ないけど、ありがとう、のような気持ちで、ボクは今日もボクの今日を暮らしています。
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