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【書評】國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究ー』

「責任」という言葉、社会に出るとよく使われるイメージがあります。
政治や芸能の報道でもよく「責任をとれ」と言われ、痛々しい謝罪会見がテレビに流れています。

でも、時々不思議に思うことがあります。
責任をとるために、謝罪したり辞任したりする方をよく見かけますし、周りもそれを求めていることが多いのですが、謝罪や辞任という行為が本当に「責任をとる」ことになっているのか、甚だ疑問です。心から反省できてないうちに体裁を守るためだけに謝罪したり辞任という形をとってしまっているパターンも多いのではないかと思いますし、そもそもその人が行ったことはそんな重大な責任問題だったのか、と思うこともあります。

「責任」って言葉、簡単に使われていますが、考えてみると難しいですね。

今回は哲学を研究されている國分功一郎さん、当事者研究のパイオニア的存在である熊谷晋一郎さんによる対談本『<責任>の生成』の紹介をさせていただきます。哲学や当事者研究からみた「責任」とは一体どんなものなのでしょう。

本書の基本情報

基本情報

タイトル:『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』
著者:國分功一郎・熊谷晋一郎
出版社:新曜社
ページ数:429p
価格:2,000円+税
ISBN:978-4-7885-1690-8

紹介文(帯)

わたしたちが<責任あるもの>になるときー

『暇と退屈の倫理学』以降、お互いの研究への深い共鳴と応答、そしてそこから発展する複数の思考を感受し合いながら続けられた約10年間にわたる共同研究は、堕落した「責任」の概念/イメージを抜本的に問い直し、その先の、わたしたちが獲得すべき「日常」へと架橋する。
この時代そのものに向けられた議論のすべて、満を持して刊行。

引用元:『<責任>の生成』本の帯より

おすすめポイント・感想

「中動態」と「責任」。”意志”はどこからきているのか。

「責任」というものについて考えるとき、國分さんが本書で再三使われている「中動態」という概念が役立つかもしれません。

能動態、受動態に関しては国語や英語の授業で学ぶと思うのでよくご存じだと思います。簡単に言ってしまえば「する」か「される」かということです。

基本的に、日本語や英語では能動か受動かの二択になってしまうのですが、これだけでは「一部のマイノリティにとっては自分の経験を解釈したり他人と共有したりするためのツールとして使い勝手の悪いものになっている」と國分さんは仰っています。

中動態って何?と思われる方が多いと思いますので、本から引用しつつ解説したいと思います。

バンヴェニストさんは中動態をこのように定義されています。

「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」

引用:エミール・バンヴェスト『一般言語の諸問題』

これだけでは分かりにくいと思うので、國分さんの「私は欲する」という言葉を例にした中動態の説明も引用します。

現在の言葉ではこれ(「私は欲する」)は能動態として表されます。しかし、「私は欲する」は能動でしょうか?というのも、欲するという過程においては、私が欲するというより、私のなかで欲望や欲求が働いて何かを求めるわけです。「私」はその欲望や欲求にむしろ突き動かされており、欲望や欲求が働く場所になっていると言ってもいい。しかし、現在の言葉ではそのことはうまく表現できません。主語が過程の場所になっていることを示す中動態ならばこれをうまく表現することができます。

引用:『<責任>の生成』p.98

これで、「中動態」についてはなんとなくお分かりいただけたでしょうか。完全な能動でも受動でもない、いわば能動と受動が混在したような状態というのも存在する、ということを理解してもらえたらと思います。

しかし、私たちはいつも私たちの行う行動を「能動」と捉えられ、自分の行動は全て自分の意思でやったことだからと解釈され、「自己責任論」を持ちかけられ、責任をとらされます。

自分の行動は全て、自分の意志によるものなのでしょうか。
「行為の源泉としての意志」という考え方があります。
このことについて本書ではこのように書かれています。

自分の意志で行為するというのはどういうことでしょうか。自分が他の人にそそのかされたり、誰かに強制されたりしたのではなく、自分の意志で行為するということは、その行為の出発点が自分にあることを意味します。そして意志を行為の出発点と見なすとは、その意志がピュアな源泉と見なされていることを意味します。つまり、行為に先行する原因は存在せず、何もないところに意志がむっくりと現れて行為を生み出したということです。

引用元:『<責任>の生成』p.110

そして、「行為の源泉としての意志」に関して、熊谷さんはこのように語られています。

人間の精神のなかにそのような無からの創造などあり得るはずがありません。われわれには過去があってそれに影響されているし、外界からも完全に隔絶することはあり得ないわけですから、つねに外部からの刺激を受け続けている。ピュアな源泉である、無からの創造としての意志というのは不可能なのです。何ものからも自由で、何ものにも先行されない意志というものはあり得ない。にもかかわらず、僕らはこの意志という概念を日常的に利用している。

引用元:『<責任>の生成』p.111

自分が無から作り出したピュアな意志というのは存在しえない、という考え方には私も同意です。構成主義的な考え方ですね。

このように考えてみると、それはあなたの行動は全てあなたの意志によるものだからと、自己責任論を持ちかけてくるという行為は、その「あなた」になんらかの影響を与えているかもしれない「わたし」を顧みようとすることなく、問題が起きたときにその責任の一切を「あなた」だけに押し付けるという非常に無責任な行為に思えてきます。まあ、実際に自己責任論はとても無責任だと思います。

都合のいい時は責任を共有して、都合が悪くなればその問題と「わたし」を切り離して責任を誰か一人に押し付ける。何らかの責任を問われ、記者会見を開いている方のニュースを見てどこかもやもやした気持ちが残ってしまうのはこれが理由なのかもしれません。

大袈裟かもしれませんが、私たちはほとんどの問題に加担していると言ってもよいと思います。それは「わたし」だけでなく私たち全員です。全ての人に多からず少なからず”当事者性”というものがあって、その問題の当事者であるという意識を持っておくのは大事だと思いますし、また何らかの問題が起きたときに、それは個人の問題だけではないので責任を皆で引き受けるということが必要なのではないかと思います。全ての問題に加担していると考えるとしんどい気もしますが、全ての問題を全員で引き受けると考えればほっとしませんか?多分、そういう感覚がこれからの社会にもっと必要になってくるのではないかと私は考えています。

「モル的」「分子的」な処理とコミュニケーション

熊谷さんと一緒に「当事者研究」の研究をされており、発達障害の当事者でもある綾屋紗月さんの話で興味深いものがあったので、それも紹介しようと思います。

綾屋さんは「空腹(感)がよく分からない」ということを言われていて、そのことについて熊谷さんは本書でこのように語られています。

僕らは、おなかが空いているのだということをいろいろな情報あるいは刺激で知るわけです。僕は、おなかが空くとよく気持ちが悪くなります。今朝も少し気持ち悪かった。一瞬「風邪かな?」と思ったりもする。腹の音が鳴るとか、脇腹が痛くなるというのもある。空腹といっても、それを告げるサインは多種多様であり、その多種多様なサインをまとめ上げる形で「空腹感」は存在する。
ところが、綾屋さんはそのようなまとめ上げがなかなかできないとおっしゃっています。多種多様なサインをいわば非常に高い解像度で受け取ってしまっているから、それぞれが無関係に思えると言ってもいいかもしれません。まとめ上げるとは、異質なものを同質のものとして扱うということです。綾屋さんはそれができない。異質なものを異質なまま保持してしまう。

引用元:『<責任>の生成』p.202-203

なるほど。細かく見ていけば”異質なもの”であるはずのものを、私たちは意識的にあるいは無意識的に同質なものとしてまとめ上げている。おそらく綾屋さんとは違う感覚だとは思いますが、私自身も「空腹が分からない」と昔からよく言っていたので、この話には妙に納得させられました。

ドゥルーズさんとガダリさんは、綾屋さんのように、異質なものを異質なまま保持することを「分子的」、熊谷さんのように異質な要素をまとめ上げることを「モル的」、という言葉で表現されているようです。

・分子的:複数の異質な要素がバラバラなままの状態

・モル的:異質でバラバラな分子をまとめ上げることで現れる状態

人によって様々な分子的/モル的な処理が行われている、と知ることは、もしかしたら私たちにとってとても大切なことかもしれません。

綾屋さんはこのモル的な処理と分子的な処理の違いがコミュニケーションに大きく影響されているのではないか、と考えておられます。コミュニケーション・社会性の障害と言われている「自閉症(自閉症スペクトラム)」ですが、それは本当にコミュニケーション障害なのかという問題提起が本書でなされています。

モル的に処理している人同士であれば、コミュニケーションがうまくいくこともある。またその反対に分子的に処理している人同士でも、コミュニケーションがうまくいくことがあり得る。ということは、どう考えてもコミュニケーション障害が自閉症の根本にあるとは言えないでしょう。単に、処理の仕方の違い、あるいは処理する対象としての粒の大きさの違いにすぎないのではないか。

引用元:『<責任>の生成』p.205

この視点、かなり面白いですよね。
こう考えると自閉症は”障害”ではないのかもしれませんし、その他の障害も多数派や今の社会を基準にして考えているから障害という扱いを受けているだけなのかもしれません。

趣味が同じ場合でも、向いている興味の方向が違って話が合わない場合もあります(いわゆる「解釈違い」もそれに該当します)。趣味だけを見ると同じ(モル的)かもしれませんが、その楽しみ方まで目を向けると違いが見えてくる(分子的)。人によってモル的・分子的な処理の違いがあることを頭の隅に置いておくと、もう少し差別意識やコミュニケーションのストレスが減るかもしれません。

まとめ

國分さんの「中動態」と熊谷さんの「当事者研究」が合わさることで、「責任とは何か」が浮き彫りになってくるところが非常に面白かったです。
2021年最初に読んだ本なのですが、すでに個人的に今年1位の本になる予感がしています笑

取り扱っているもの自体は難しいのですが、対談形式で極力平易な表現で語ってくださっているので、非常に読みやすいと思います。また、各章の最後に質疑応答コーナーがあるのですが、そこでの質問もとても鋭いものが多く勉強になります。

この本を読んで、今一度「責任とは何か」を考えてみてはいかがでしょうか。

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