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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 13

国家総動員法と新聞雑誌用紙統制委員会

 戦争の影響は、作品の内容だけでなく、雑誌や書籍の流通にも影を落としていく。1937(昭和12)年11月、商務省は雑誌各社に20%の用紙削減を申し渡す。そして、翌1938(昭和13)年、第一次近衛文麿内閣のときに国家総動員法が成立。出版に関するのは第二十条である。

政府は戦時に際し国家総動員上必要ある時は勅令の定むる所により、新聞紙その他の出版物の掲載について制限、または禁止を為すことを得。
政府は前項の制限または禁止に違反したる新聞紙、その他の出版物にして国家総動員上支障あるものの発売および頒布を禁止し、これを差し押さえることを得
この場合においては、あわせてその原版を差し押さえることを得

国家総動員法 第二十条

 国家総動員法の成立により、政府は合法的に出版物の統制ができるようになった。以降、およそ4年間に1万点以上の図書が発禁処分とされる。

 さらに1940(昭和15)年、内閣の情報部(のちの情報局)に新聞雑誌用紙統制委員会が設置され、軍国主義的な国策PRを行わない雑誌には紙を回さない方針が打ち出される。紙がなければ出版できないのだから、新聞や雑誌は紙の配給を確保するために政府に批判的なことは書けなくなり、戦争を礼賛する記事を書かざるを得なくなってしまった。

 新聞雑誌用紙統制委員会による紙の配給は「前号と同数」が基本であったという。つまり、どれだけ人気があっても部数を増やすことはできず、反対に部数を落としたら回復できない、という方針だ。これにより雑誌や新聞は、事実上、売り上げを伸ばすことが不可能になった。
 また、出版社はページ減も余儀なくされた。『のらくろ』シリーズが掲載されていた「少年倶楽部」の1号あたりの総ページ数は、1937(昭和12)年には500ページ以上を誇っていたが、1941(昭和16)年には60ページ台にまで落ち込んだ。

『のらくろ』の打ち切り

 こうした状況下でも、「少年倶楽部」の売り上げは、なかなか落ちなかった。そして、1941(昭和16)年、田河は情報局から呼び出しを受ける。『のらくろ』の執筆を禁止するという命令であった。「少年倶楽部」の部数が落ちないのであれば、看板作品の『のらくろ』を禁止にすれば部数が減るだろう、との意図であった。

今にして思えば侵略主義のお先棒を担いでいたわけだが、当時にしてみれば国策に協力しているつもりだったのだ。ところが情報局はこれを商業主義にこれを商業主義に協力するものと解釈して連載の禁止を通達してきた。ファンが多いから雑誌が必要以上に売れることがいけないのだそうだ。のらくもも不可ん、田河水泡も不可ん、とあって作者までが漫画から締出されてしまった。そういうことを事務官の個人趣味でやるのだから随分野蛮な時代があったものだ。

「文藝春秋臨時増刊 漫画讀本」(文藝春秋)1954年12月号収録の「のらくろ始末記」より
(『日本の銘随筆 別巻62 漫画』南伸坊編(作品社)収録)

 このときの田河は「これでも国策に協力しているつもりです」と抗議した(『私の履歴書 芸術家の独創』日経ビジネス人文庫)と書き残している。まがりなりにも国策に協力をしているという自負があればこそ、戦後になって「今にして思えば侵略主義のお先棒を担いでいた」と自責の念があったのだろう。

 しかし、そうした本人の思惑とは裏腹に、むしろ軍部は田河の態度を「非協力的」と感じていた。情報局の担当官は「あんたのは商業主義に協力しているだけだ」と、田河の抗弁を一顧だにしない。
 かくして10年以上にわたって連載を続けてきた国民的人気作品の『のらくろ』は、いとも簡単に打ち切られてしまった。同じ雑誌に掲載されていた作品でも、大衆小説の場合、吉川英治ら作家たちは情報部の肝いりで従軍作家となり、日本文学報国会を結成して情報局の宣伝普及に協力するのだから、漫画と大衆小説では随分と扱いが異なっていたようだ。

 それにしても、田河が呼び出されたエピソードには不可解な点がある。情報局の担当官は、なぜ田河水泡個人を呼び出したのか。執筆をやめさせたいなら、版元の大日本雄辯会講談社や「少年倶楽部」の編集部に圧力をかければいいはずだ。それこそ理由が「用紙不足」なら、そのほうが筋が通る。
 もしかしたら、一部の軍人にとっては、軍を茶化していると感じられたのかもしれない。表向きは「用紙不足のため」であるが、本当にそれだけが理由であったかどうかは疑わしい。とはいえ、子供に人気の漫画を一方的に打ち切らせたとあっては、都合がよくない。そこで、田河が編集部に“自発的に”連載中止を申し入れる体裁を取らせた……とも感じられる。

 落語界では、時局にふさわしくないと判断した53の演目を「禁演落語」として自粛対象とした。「禁演落語」に選ばれたのは、「五人廻し」や「居残り左平次」といった廓噺や、「悋気の独楽」や「権助提灯」などの浮気を題材にした噺で、長瀧山本法寺(現在の台東区寿)の境内に「はなし塚」を建立し、53の演目を葬ったのである。実に落語家らしいパフォーマンスといえるが、“業界の自主規制”という体裁を取ってはいるものの、事実上の国家による統制にほかならない。

 いずれにせよ、この時代は、担当者の胸先三寸で物事が決まっていたようで、法的根拠も命令書もなしに、“命令”が罷りとおってしまう。
 真相はさておき、『のらくろ』は1941(昭和16)年10月号で打ち切られた。それまで『のらくろ』のレギュラー回は1話4ページで連載を続けてきたが、最終回となった1941(昭和16)年10月号掲載分は、たった2ページだった。鉱山を掘り進めていた「のらくろ」が、かつての上司(ブル連隊長)の経営する会社の坑道に行き当たり、ブルの働く会社で鉱山掘りをすることになる……といった内容で、唐突に物語は幕を閉じてしまう。
 誰が見ても唐突な印象を抱くはずで、何らかの理由で打ち切られたと感じるものであった。
 『のらくろ』が打ち切られた直後の12月8日、真珠湾攻撃により、日本は太平洋戦争に突入する。

戦時下における漫画の戦争協力

 日中開戦からポツダム宣言受託までの、いわゆる「十五年戦争」の最中には、多くのマンガ家が戦争に加担させられた。1940(昭和15)年に内務省が「部落会町内会等整備要領(隣組強化法)」で銃後組織としての隣組を制度化する際には、「隣組」(作曲:飯田信夫)の歌がさかんに用いられたが、この歌詞を書いたのは「漫画漫文」スタイルの岡本一平である。「トントントンカラリンと隣組」の歌詞は親しみやすく、「隣組」はあっという間に流行歌になり、一平の歌詞は隣組の宣伝啓発に大きく貢献した。

 また、同年に大政翼賛会は「翼賛一家」という、翼賛体制を宣伝するための企画を立ち上げ、漫画や絵本、舞台など多メディアへの同時展開を実行した。舞台や登場人物の設定を用いれば、「翼賛一家」は誰が利用してもよく、そのため漫画界では 横山隆一(『フクちゃん』など)をはじめ、多くの漫画家が翼賛漫画を描いた。1941(昭和16)年に雑誌「アサヒグラフ」(朝日新聞社)に連載された長谷川町子の家族もの4コマ漫画『翼賛一家大和さん』は、この「翼賛一家」企画によって生まれた作品である。 
 横山隆一の『フクちゃん』は、戦時中に『フクチャンの奇襲』(1942年)、『フクチャンの増産部隊』(1943年)、『フクチャンの潜水艦』(1944年)とアニメーション映画が3本つくられ、軍のプロパガンダに利用された。
 しかし、田河水泡は沈黙を守った。

 終戦後、「のらくろ」は1950(昭和25)年に「少年クラブ」(「少年倶楽部」から改題)で連載を再開する。かつてのような爆発的なブームとはならなかったが、その後も掲載誌を変えながら連載を継続した。
 いち民間人の「のらくろ」は、保険の外交員や宿屋の番頭、テキ屋(露天商)など職を転々とするが、相変わらずヘマやドジを繰り返して、何をやってもうまくいかない。やがてコーヒーの淹れ方を修業した「のらくろ」は喫茶店を経営するようになり、焼き鳥屋の看板娘の「おぎんちゃん」と結ばれ、しっかり者の「おぎんちゃん」のおかげで商売は繁盛したところで物語は完結する。1980(昭和55)年12月、戦中戦後の中断期間を含めると、ちょうど50年目であった。
 帰る場所のなかった野良犬は、長い旅路の果てに、平凡で人並みの温かな家庭を手に入れたのである。

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