社会の問題は認識している主体が曖昧であることが多い話




タイにいってきました。
搭乗までに時間がすごくあったのでまとめてみました。

タイにいったきっかけ
超ドメスティックに生きてきた23歳が急に海外に行きたくなった話

死に近づくことで生を認識したい話と体験や思考の限界を取っ払う為に非日常体験を意図的に積みたくなって海外にいくことにした話

1本目
今、タイに生きます

タイと日本の違いについて、行動原理や社会構造に大差がなく、あったとしてもそれを誤差の範囲として認識することができそうという話


2本目
あれ?なんでおれタイにいるんだっけ?って思った時の話
体験をファッション的に味わう現代人とそれ自体が自己認識の方法のひとつとなっている話


今回は2本目で下記損していた内容、
富める階級もしくは覇権の傲慢と普遍の押し付けが平和と呼べるのかを本気で考えてしまったときの話なんですけど。
格差社会っていうじゃないですか。僕も平気で使うんですけど、この格差社会って言葉、実は認識している主体を曖昧にしたまま使われているのがとてもミソなんじゃないかと思うんです。
とその前にどうしてそんなこと考えていたかってところなんですけど、
この前チェンマイっていう日本で言う京都みたいなところに行ってきたんですけど、そのときに急に北にいきたくなって、ミャンマー国境を見に行ったんですね。
その道中って、だいたい2km~5kmくらいの感覚で、集落というか、農村というか、とりあえず人が住んでいるところがあるんです。
ほんのたまにセブンがあるくらいちゃんとした街みたいなのもあったりするんですよ。あたらめてセブンすげーっておもったりしたんですけども。
それで、そのそれぞれの村って、大体おっさんたちが家かなんかつくってるか、個人商店のような、日本でいうおばあちゃんが商店街でコーラとか売ってるああいうかんじのやつ、薬局みたいな。
ああいうのがたまにあるんですね。こんなん誰が買うねん!って思いながら僕が買ってるんですけど、そこには確かに貨幣経済が流通している(ようにみえるんです)
さらに移動手段としてのバイクは存在しているし、スマホを使っている人も存在しているんです。
しかしよく考えてみると、スマホをふっつーに使っていることが実に奇妙な状態にみえるわけなんですね。

経済発展段階的にみると社会インフラの成熟と共に、個人の扱うパソコン+スマホが普及されてきたのが僕達の国を含めた先進各国だったと思うんですけど、社会インフラの成熟していない地域において、その順序が逆行している(ようにみえる)んです。
これはもちろん、日本でももしかしたら起きている現象かもしれないんですけど(日本の集落においてさえ、まるで断絶されたような地域は存在しているので)

この現象からわかることは、公共財よりも先に経済の生産物のほうが世界中の人々に届けることができる実証という点でもあるのですが、それはとても皮肉なことでもあるなあと。
あの地域に住んでいる人たちでもテレビや洗濯機や冷蔵庫は余裕でつかってるし、電波届いてるっぽいので。。

んで、じつはそういうのがまったくない地域も存在しているんですよね。これびっくりなんですけど。
まじでびっくりするくらい、えっここのひとたちどうやって生活しているんだろう。みたいな、まるで戦前にタイムスリップしたかのような錯覚を起こすほど、
僕の見える範囲にはなにもない。ない。なっしんぐ!
バイクはある。。。
あ、多分ここ、かなり独立した地域になってる。。。
って思ったんです。
※多分なんですけど文化的な背景として、ビルマから亡命してきた人たちが移り住んでいるところ、とかそんな感じに近いのかもしれないです。詳しくはわからんのですが

そこで、どうにかして直接聞いてみたいんだけどタイの人英語通じないことあるし。。。。自分英語力が2だし。。。。
一体全体どうやって生活しているんだろう。みたいな。
どっかの先住民みたいな感じを想像したらもっとスっと理解できたのかもしれないけど、その時の僕にはそこまで冷静に考えられるだけの脳みそがなかったっぽく
うはあすごいな、ってただ思うだけでした。すごくチープな感想。
大前提として人の世で苦しみから解放されることはないとしても、
どうしてこの人達はこの地域に住んでいるんだろう。
この人達の困ってることはなんなんだろう。
というのをしきりに考えていました。

なんだけども。
この人たちはどうしてこのような場所で生活しているんだろう不便じゃないのかな。なんて思うのは、自身の生活と比較しているからそう思うのであって、多分現地の人たちってそんな困ってないんですよね。
これは丁度長野の高校生になんで上京しようとは思わないんだろう・・・って思っていても、長野の高校生たちは今の生活で満たされていて、快適だから出ようとしないのとおんなじ感覚なのかなって。
海外にきて思ったことでもあったのですけど、生活環境が変化するというのは非常にストレスのかかることだなぁと思ったし、
自分の知っている人がいないという環境に対して全くストレスを感じない人は多分いないはずなので、その負荷のかかる度合いが
例えば、
東京はおっけーだけど海外はちょっと
な人と
浜松まではいけるけど東京はムリ
な人が存在しているのとおんなじなんだろうなー。


んで、ここからが本題なんですけど、
自分と生活環境がひどく乖離している人たちをみて、
自分達のような生活をすべきだと考えてしまうことってよくあることだとおもうんですけど
その精神性こそが実は病んでいるのかもしれないとふと思ってしまったんです。
つまり、現地の人たちは至って健全なのに、自分達とは違う生活様式であることを問答無用で問題と認識してしまい、
経済欲求に疲弊している自分達へと強引に併合しようとする病理のようなもの
が存在している
ことを否定できなさそう、だったんですよね。こういう現象が起きてしまう原因は多分相互理解の欠如だと思いつつもわからんのですが。

じゃあ格差社会を認識している主体は誰なのかっていうのを考えると、多分2パターンあって
貧しい人々が格差社会だ!という場合と
富める人々が格差社会だ!という場合
このケースにおける主体は、僕達のような経済的活動量が相対的に多い人(どのように形容したらいいのかわからないので今表現できる限界で言ってる感じ)であって、
その僕達が相対的に少ない人達に対して、これは問題だから是正しよう。
といった場合において問題の所在が僕達にうつるような感覚がします。それは見方によるとひどく傲慢といえるし、極端にいうと緩やかな植民地化であったりします。
これは丁度カンボジアに学校を建ててみるんだけどニーズがまったくなくて廃れちゃったよっていうエピソードとおんなじ現象だと認識しています。
勿論、ちょっとくらい強引に推し進めないと前に進まないことも多々あると思うので、割り切りが必要になる瞬間はくるんですけどね。

じゃあどうやって解決すんの!ってなったら、時間はかかるけどまず相互理解、その上で民主的な意志決定に従う。って言う形がいいのかな。
もっと個人の自由が保たれているなら他のやり方があるんですけど、個人の自由!とかも結局欧米的であったりするし、あんまり個人の裁量を重視するとEUの移民問題みたいになりそうな感じもします。本来、形成している社会が膨大していくにつれてどうやってもマイノリティがでてしまうのは仕方ないことなんですけども。

また、僕達は経済合理性を追求していけばしていくほど、テクノロジーと共存しながら、より原始的な生活に近づいていくと思うんです。
そうなったときにその生活様式は元の文明の生活様式と大差ないんじゃないの?みたいなオチになる未来も可能性としては存在しているっぽいなーみたいなことを考えてみると、
もしかしたら僕たちは、経済に干渉されずに(簡単にいうと極小の労働で)生活をしている彼らを暗に"羨ましい!"って思っているんじゃないの?
っていう思考実験をしてみたりしていました。
いずれにせよ、このような方式、すなわち、さも客体に問題があるかのように振る舞っているが、実は主体にこそ問題がありました。みたいな事象は本当によく起こっていることだと思うので、本質を疑うみたいな思考カードの一枚に加えておくと面白いと思います。機会があったら使ってみてください。
上司が部下に、部下が上司に っていうやつも、この思考法が使えそうですね。
このお話は以上です。

ちょっとだけ余談なのですが
この現状を踏まえて思ったことが2つあって(厳密には下記のように思っていたことに対して今回の件をひとつのエビデンスとして活用している感じですが)
まず一つ目は、
あー世界って各々の人々が望んだ形になってるよなー
ということと
社会課題の解決が容易になされないのは、その課題自体も誰かに望まれて顕在化したものであるのかもしれないなー
ということです。

最近思うのは、もし自分が多世界解釈論的にこの世界を選択して生活しているとしたら、多分僕は問題が発生していない世界を望んていなかったのかもしれない。
という変態なことを考えてみたりするんですけど、
世界の問題は、それを問題としたい人たちが問題としていることが基準となって存在している可能性が高そうです。
なぜなら、大多数の人たちにとって、その問題と直接的に関係していることがほとんどないからです。


僕達が社会にできることってなんなんだろうなー
爆発的な勢いで道路や線路が敷設されていくタイをみてそんなことを思っていました。

おまけ
ケツのお話はご飯でも食べながらしましょう。

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