超ドメスティックに生きてきた23歳が急に海外に行きたくなった話

こんにちは。最近影響力の武器という本を読んでいるのですが、コミットメントと一貫性の法則というのがありまして。
どういうことかと言うと、"自分がすでにしてしまったことと一貫していたい(そして一貫していると他者からみてもらいたい)という欲求"というらしいです。
なるほど確かにこれはあるなと、最近就職することを決めて、あれやっぱ違うんじゃねーの?みたいな悩みがフツフツ出てきてもいやここは腹括らねばみたいな心境に似ているなと。

そんでもってこの前「りゅういち海外いきなよ笑」っていわれて思わずえっ、なんで?って聞いたら「りゅういちが海外いったら面白そうじゃん」という雑な煽りを受けまして。
なるほど確かにそれはあるなと。生まれてこの方海外に行ったことがなく、be動詞をアルファベットのB動詞だと勘違いしながら高3夏にyou is という中学生でもしないミスを平然とし、大学入試の模試で30台を叩きだし、大学入学後のTOEIC最高スコア595点で(しかも失効済み)入社先の同期に730点くらい簡単なんだから取れよwと煽られるという体たらくの僕が、海外に行って英語が全く話せず四苦八苦しながら腹痛に涙している様は確かに面白いなと。そういう芸風も確かに言われてみるとアリかなと思いまして。
ちょっと酔っ払った勢いに任せてTwitterでつぶやいたらなんか本当に海外に行きたくなりまして。
海外に行くことに意識が向くと、入ってくる情報が自然と海外渡航に関するものになっていくわけなんです。この前某友人がタイでチャイチャイしてきたという話を聞いた時、どうやら航空代が往復で2万と。
これはもしかしたら福岡や岩手(母方の実家)に新幹線で行くより安いんじゃないかということで。

この勢いでなんか文章に興したら一貫性の法則とコミットメントで本当に自分行ってしまうんじゃないかと笑

というわけで最近考えていたこととどうしてそういう風に思うようになったかをつらつら書いていきたいと思います。

そういえばこれ影響あったなその(1)
人って戦争を経験すると人格変わるらしいよ

これは冬のインターンで優勝した時に沖縄に行きまして、
その時に知り合った別タームの優勝チームのメンバーとお互い就職先を決めたくらいのタイミングで飲んだ時の話なんですけど、
リスクの許容範囲は今までの人生における最悪の状態と最高の状態のコントラストとニアリーなんじゃないかと。
つまり今まで自分でチャレンジして成功または大失敗した経験がある人ほどリスクに対する耐性がつくけど、リスクというものを感じないまま順風満帆に大学に入り就職する人はなかなかリスク耐性がないと。

その時お互い、自分達はリスクテイカーになれていないよねっていうところと、じゃあなんでそういう状況下においてリスクを取ろうとしないのかという論点になった時、究極的に言えば、
リスクを取らなくてもそれなりに生きていけてしまうから
なんじゃねーの?という結論になりました。
確かにこれはあるなぁと思います。多分無意識のうちにリスクをとった場合の報酬(これはお金であり名声であり、いろいろ複合的に存在すると思うのですが)とリスクを取らなかった場合の報酬を勘定しているような気がして。
要するに小賢しいわけなんです。

うわああこれはどうしよう。
自分達はなんだかんだ、死ぬ気で、本気でやらなくても生きていける。
でもそこのリミッターを外さないことにはより高く跳ぶことができない。

ってなった時に、本当に死ぬ気で生きている人っていうのは、なんかこう、死と隣合わせに生きているよね って話になったんです。
これは自分自身が明日本当に死ぬんや。っていう体験をしたのもそうかもしれないし、特に身近な人の死に触れたときかもしれないし、要は「ああ自分もいつかこうして死ぬんだ」っていう感覚を持っているかどうかなんです。
言ってしまえば僕は死というものを認識していないが故に、生というものがどういうものか理解できていなくて。理解していないのであまり詳しく書くことができないんですけど、これはすごくショッキングな気付きでした。
なんかちょっと真面目に生きてきたつもりだったのに、自分ってただ慢性的に寿命を消費しているだけだと気づいた時に、ちょっとやばいかも。って思ったのがきっかけです。
その時にぽろっとその友人が「人って戦争を経験すると人格が変わるらしいよ」って言ったんですよね。
これがすごく印象に残っていまして。確かにそうか。逆に言えばそれくらいの経験をしなければ劇的に変わることはないのか。なんてことを考えていると
もっと自分は非日常的な経験や体験を積まないと、なんかわからないけどダメなんじゃないかって思うようになったんです。普通であることであったり、自分の人生がすごく限定的で、認識した世界以外を認識できない恐怖といいますか。なんだろうよくわからないけど、ダメだって思うようになって。

この延長線上に「最近シリア行きたいんだよね」っていう言葉の理由があります。でもシリアって外務省の危険情報ページで危険度4なんだよね・・・流石にちょっと厳しい・・・

自分が今経験したいのは、"人が死ぬ"ということの体験なのかなって思うようになりまして。この時はまだ、海外にいこうだなんて思わなかったんですけども。


そういえばこれ影響あったなその(2)
ちょっと那須高原まで日の出見に行ってきた。

僕バイクに乗るんですけど、なんでバイクに乗るのかっていったら、旅というか、知らない街にいくのが好きなんですよね。
それで某インターンでいただいたお金を全額バイクに投下し買ったわけなんですけど(厳密にいうとたけしさんのお金で)
この前久しぶりにカラオケオール的なものをして楽しんでいたら夕方まで爆睡するというTHE 大学生みたいな日常を体験しまして、
なんかこのまま起きてても寝れないし、ちょっといまからバイクでひたすら北上したらどこまでいけんのかなって考えてたらすげー行きたくなってきちゃって、下道をかっとばして宇都宮までいったときに、そうだ日の出をどこかで見たらなんか青春してる感あんぞこれってなって、ぞす!って言いながら那須高原の山頂に一番近い駐車場で朝日を拝んでいました。すげー大学生してる今。ッて感じでした。

確かに景色とかを見るのはすごく好きなんですけど、特に僕が行先でなにに興味を示しているかっていうと、その街や地域に住んでいる人たちのナラティブなんですよね。
だから深夜2時の宇都宮に到達した時、オリオン通りでガンガンに音楽流しながら外で飲んでる人だかりとか、地べたにすわりながらおっぱい揉まれてる女の人とか見て、ああ〜^渋谷も確かにこんな感じかもしれないけどなんかちょっと地方のストーリー感じるなって思ってたわけなんです。あと地方って居酒屋に超でかい駐車場があるんですよね。すげえ違和感あってこれ。
欲を言えばもっともっと現地の人に話しかけてダーツの旅みたいにいろいろ聞いてみるのがいいのかもしれないんですけど、シャイでチキン野郎なのでちょっと敷居が高かったんです。ぞす!
こういうのを体験しながら、地域格差もそうだし、地理的な影響とか、思考の発達を想像してみるとすごい楽しいなって思うわけなんです。こうなんじゃないかな?みたいな仮説を立ててググったり、茨城とか栃木とか意外とすげー稲あるんで、日本人の米の年間消費量と必要な面積を推定しながらバイク運転したり。都心と地方の役割分担みたいなものの必要性とかを考えてみたりとか。専門家ではないので趣味の範疇を超えないと思うんですけど、自分がココで生活していたらどうなるかなーみたいなこととかを考えると結構わっふるわっふるしてきてて。

でも結局今自分が見ているもの体験しているものの限界性をどうしても感じざるを得なかったんです。

言ってしまえば地方といっても、どこの地方にいっても見ている景色が劇的に変わるのかって言ったらいうてそんな変わらないんですよ。よっぽど観光地じゃないかぎり、イオンとかなんかでかいショッピングモールがあって、大通りにファミレスがあって、山がすごく大きく見えるみたいな。
大通りから一本外れた瞬間に畑ばっかりになって、夜は街頭が全く無いから本当に闇に包まれて凄い孤独と恐怖心に駆られるっていう。
地方から上京してきた友達の話も地元に対する認識はそんなに変わらず、
地方の中高生はなぜ東京に出てこないのかっていう話になると、
「東京こわい」という満場一致感と、親元を離れることの親からの反対。
地方に蔓延る国立至上主義と安定神話。

少なくとも同じ日本人をやっている限り経験することや体験することはすごく似通ったものになるのは当たり前で、そうなんだけどそれに対する適切な認知ができていなかったという認知を最近すごくしまして。

じゃあその認知を広げるために情報を得ると思うんですけど、
個人的に人が手にする情報っていうのはおおまかに3つくらいあるんじゃないかと思っていて、
1つ目が 自分で経験、体験したこと または自分で思考したこと
これは自分自身が手にする生の情報という観点で第一次情報なんでしょう。

2つ目が 他者が経験したこと、知っていること
これは対話として得られるものなんですよね。対話のいいところは情報が柔軟性をもつことです。つまり自分が手にしたい情報であったり、相手が自分に対して提供したい、もしくはこの情報がこの人には必要だと判断したものを得ることができること、その人が経験、体験した生の情報を物語として擬似体験できるという点でかなり有用なんじゃないかなーって思います。

3つ目が、資料、データ、本や論文、ネット記事として加工されたもの
これは2つ目とは反対に、情報の柔軟さは少ないのかなって思います。
自分が欲しいと思っている情報を理解してそれを得る為に活用したり、無作為にインプットしたりするときに活用することが多いかなって。それ以外の状況においてはあまり役にたたない印象があります。どうしてかっていうと、人はその時必要としている情報以外を積極的に覚えてくれないからなんですよね。
だから無作為にインプットした内容でもそれを記憶するのはすごく難しかったり。必要なのでよくしますが、その手にする情報すらある規則性にそって選択されていることを理解しておかないと変なバイアス入っちゃうんですよね。だいたい気づけてないんですけど。

この中でもやっぱり情報として一番価値を持つのは1つ目なのかなっていうのを最近考えてました。なんでかなーって考えていた時に、
そうすることでより自分らしい何かが磨かれるような気がしたからだなぁと。
というより、それが全てなんですけど、時代の流れとか関係なしに。
やっぱ独自性や、創造性の富んだクリエイティブななにかを生み出すためには
自分の感性や直感を磨きまくるしかないなってことに最近気づき始めたような気がしたんです。
なんでそういう風に思ったかっていうと、最近特に、インターネットが活用されるようになってどんどん人の思考や考え方が均質化されているなと。
ちょっと声の大きい人の意見なんてすぐ手にすることが出来るようになったし、ホリエモンのNPXの呟きがみれることとか、孫さんの考えていることとかも昔よりはるかに知ることができるようになったし、メタップス佐藤さんなんて自分が得た情報をTwitterで公開しているので、セールストークかもしれないけどだいたいキャッチアップできちゃうんですよね。
これはもう江戸末期の人間からしたら革命的ですよ。
松下村塾に通えなかった江戸の浪人も吉田松陰に感化されて倒幕しちゃう勢いくらいにやばいです。
でもそういう雰囲気が今の日本、特にスタートアップ界隈にすこしあるような気がします。
僕としてはそれは本当にいいことなのか?ってなった時に、なんかちょっとそうじゃないような気がしたんですよ。
言うなれば、みんなと同じことを言えるように努力してしまうと、自分だからできることを減らしてしまうような感覚。
じゃあどうするのが一番いいんだろうって考えた時に、まずひとつは
自分の得意だと思うことを活用してなにかを成すこと。
これは多分よく聞くような話だと思います。行動する!みたいなやつ。
それからふたつ目にとにかく内に篭もること。
僕はどちらかというとこの時間の方が大事かもなって思っているんですけど、外界から隔絶された空間を家以外につくったり、自己反芻をしまくったり、思考しまくったり。
もうひとつは、非日常的体験を意図的に積むこと。
23年も生きていればそりゃ23年分の自分っていうのが形成されているし、それはそう簡単に変化するようなものじゃないです。
なので自分探し的なものも勿論いままで見つからなかった自分と出会うこともあると思います。
ただ一方でしっくりこないのは、じゃあ23年間生きてきた今、もう自分はそこからなにかしらの変化をすることはないのかと考えた時に、
いやぁまだまだバリバリ現役ですよ!☆ 最近になって性欲が増してきたような・・・ゲフンゲフン
みたいな感じなんで、多分そうじゃないんだろうと。
んじゃあ今自分がしなきゃいけないのは自分探しじゃなくて、自分作りなんだろうなって、養老孟司が自分探しなんてするなって言っていたとおりにすごくしっくり自分にきたんですよね。これ那須高原で朝日拝んでたときにそう思ったんですけど。
そうなって自分がバイクで走行した距離、400kmくらい、
それをGoogle Mapsで見た時、おー確かにすげー走ったは、手の甲めっちゃ焼けたし、って思っていたんですけど、それをすこーしずつ広域にしていって、日本を映して、大陸が見えてきて、一番最後までスケールさせていったら、
あれ、オレの進んだ距離、イモムシじゃね?www
ってなったんですよ。
ってなった時に、確かに自分は自分が住んでいる国とは違う国が存在していることや、それぞれの国の歴史を少しだけ知ることができていたり、今それぞれの国がどういう思惑で動こうとしているのかを形式的には理解しているかもしれないです。ですが、そこで生活している人たちが何を考えて生きているのか、そしてなにより、なんで生きているのかについては全く理解できていないような気がするし、それをそれぞれの国の違いを机上の理解以外で体験することができていないんですよね。それはもしかしたら自分が思考できる幅をもしかしたら著しく制限しているな。いうなれば自分の可能性を自らの手で制限しているな。っていう風に思うようになってきたんです。
グローバリゼーションであーだこーだーとかデモクラシーだキャピタリズムだリベラリズムだーとか言っているのはいいんですけど(もしかしたらそういう勉強をしているからこそ思考が外向きになったのかもしれないですが)じゃあそれを自分の体験に落とし込んでいるかっていったら、
せいぜい松屋の店員さんが外人になっていたり、マックの店員さんが外人さんでちょっといらっとしたときにまぁ仕方ないか。って思うくらいで。しかもそれらのグローバル化は驚くほど自然と僕達の生活に融け込んでいて。今や新宿の飲食店で日本人が接客していることの方がレアみたいな感じありますもんね。

そんなこんなで、体験的な制限性を感じることもさることながら、
自分の思考の限界性を認識しだした時に、おいふざけんなおい!!!
って気分になってきまして。
ただこれをどうやって解消するかわからなかったんで、海外にいくのはもしかしたらなんかあんのかな。
自分がバイクに乗りながら得たいと思っているナラティブはそこにあるのかな。
みたいな好奇心が妙に湧いてくるようになったんです。



とにかく最近の自分はなぜ生きているのか=幸せになるためにはどうしたらいいのか
ということばっかり考えていて、今自分のwantはどこにあるのかとか、このwantの根本的な出処はどこなんだみたいな事考えて、これを満たしたら自分は幸せになる?んーわかんないけど。
みたいなことばっかり繰り返して、ヤリタイコトッテナンダッケ?
ってなってたんですよね。
ただなんとなく、魂の研鑽と自分が呼んでいるそれだけは日々成し遂げていきたいなと。自分にとってはもしかしたらそれが究極的な目的で、それ以外に発生する結果というのは副産物でしかないのかもしれないなみたいなことをわかんないけど思うようになって。

例えば最近読んだ本で、限界費用ゼロ社会って本があるんですけど、
これは経済合理性を追求していけばしていくほど生産にかかる費用が限りなくゼロに近づいていき、水平統合された協働型社会に変容していくっていう逆説なんですけど、僕この本読んで、
"これで資本主義倒せる!!!!!"
って思ったんですよ。

厳密にいうと任天堂の倒し方みたいなのではなく多分これもう勝ちパターン入っていて、恣意的に破壊と再構築するのではなく自然と、びっくりするくらいなめらかに移り変わっていくっていうのが正しいような気がしているんですけど。
でもなんとなく自分が最もエネルギッシュになれるというか、怒り心頭!みたいな状態になれる時って、
この経済格差によってはじめから出来レースになってる謎のルールであったり、そこから派生する理不尽に対して向けられているんじゃないかなって思ったんですよね。
だから金持ち東大生とかf**k!!!みたいな感じでみちゃうし、
結局お金でしたみたいな結末を期待している自分がいるんですよね。
それを期待して、ほら結局そうなんやっていって自分を慰めたい自分がいるみたいな。
とはいえ僕も資本主義の恩恵に預かっている身分なので、共犯者なんですけど。ただテクノロジーが社会を均質化していくっていうところに自分の人生を預けるのはちょっと楽しそうだって思ったんですよね。

そういう感じの抽象度でヤリタイコト?みたいなものは仮置きできていると思うというか、そんな感じがしているのは確かにあるんですけど、結果として成し遂げたいことにフォーカスするよりも、その過程で自分がどういう自分になりたいかにフォーカスしていきたいなっていうのと、自分が自分だから成し遂げることができたことを大事にしていけたらもしかしたら幸せなんじゃないかなみたいなことを考えながら、この抽象度で試す段階を体験してみたいなーって思うようになりました。まだわからんのですが。

というわけでとりあえず今年の夏にどっかいきたいなって思って、
流石に中東はお盛んだからということで東南アジアらへんで、すこーしだけみにいってみようかなって思っている次第です。
これが必要な経験かどうかって正直わからんです。
海外旅行、みたいなテイストな気もするんですけど、
非日常的な体験を意図的に積むために海外来ました! ダークツーリズムを通じて自分の生を客観的に捉え直しにきました! 禅に触れることで自分を突き詰めに来ました!
みたいな話にあまり触れたことがないので、海外ってそんなもんでしょ?みたいな食わず嫌いがありました。まぁ食べてみないとわかりまへん。
とはいえなんかみんな海外渡航経験があって自分だけないのもきしょいし、
日本の国際競争力が云々とかいうんならじゃあもっと市場とかその発展スピードをその目で収めておけよと。トイレのウォシュレットがどのくらい普及しているのか、トイレットペーパーはきちんと常備されているのかなども含めて。おなかいたいのに定評のある人間なので、重要です。
そして僕はどこへでも行けるっていいながら、僕が今感じていることをアップデートできたらいいなーって思います。

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