この想いは私の命とともに――類家海『けがわとなかみ』
「すきです」。好意を端的に伝える言葉です。ですがこの奇妙な関係は何でしょう。被捕食者が捕食者に対しての告白です。
きつねでなくてもこの状況には戸惑います。これから喰らおうとしていた獲物が好意の告白をしてきたのです。戸惑いは疑問と興味を誘発します。きつねの感情はそのまま読者の感情とリンクするのです。キャラクターの造形もきつねが写実に近いのに対して、獲物であるうさぎはカリカチュアライズされています。これがこの作品の1話目です。まさしく狐につままれたこの状況は何か面白いことが始まるという期待感を高めるのです。
今回取り上げるのはくらげバンチで連載中の『けがわとなかみ』です。類家海さんの初作品集になります。
「私を食べて下さいませんか」。極限の状況で獲物は狩るものに対してこう告げる。 仏教説話にある布施をするために焚き火に飛び込むうさぎのごとく自己犠牲に満ちた精神です。この出会いがきつねとうさぎの奇妙な関係の始まりとなりました。自らの死を悟ったうさぎはきつねを活かすためにその身を捧げる覚悟をしました。しかしうさぎは生かされました。見逃されたのではなく生かされたのです。洞窟の中に避難させられ傍らには果実が置かれていました。うさぎはこの行為に感極まります。
うさぎのきつねへの好意の源泉をこの一コマに込めているのです。うさぎがきつねに対して「すき」という感情に説得力を与える強さがあります。さらに必見なのはうさぎが探し求めたきつねをついに見つけたシーンです。
セリフもなくただただ駆けていく。2ページ8コマを使いそれを描く。うさぎの感極まったコマがあるからこそ生きる演出です。うさぎのセリフや内面心理を描かず、わずかにうかがえる表情と必死に走る姿のみでうさぎの持つ感情の大きさが伝わってきます。このシーンが秀逸なのはコミック見開き2ページで読んでも、電子書籍で1ページめくりながら読んでも、インパクトがあるシーンになっています。前者は見開きで目に入ってくる迫力、後者はページを捲ることにより生じる能動感です。
命を助けられたうさぎはついにきつねと邂逅します。そして1話目冒頭の「すきです」というシーンにつながるのです。うさぎの言葉の後ろにはこのバカでかい感情が存在するのですね。掴みどころのない不可思議なうさぎの態度にきつね同様に面食らったあとに、感情が揺さぶられるシーンを挟み込んでくる演出で一気に作品に引き込まれます。さらにWEB連載ならではの利点も存分に生かされています。この1話目は28ページです。4コマ1話目に28ページを使えるのはWEB掲載の大きな強みですね。ドラスティックなストーリー4コマを展開しています。
もう一匹のメインキャラクターであるきつねの感情表現も素晴らしいです。
「がんばるよ」。母親に「幸せになってほしいの」と告げられたきつねの最後のコマでの返事です。
久々に里帰りをして再会した母親は足腰が悪くなり、心配のあまりブン殴られても痛くはなかった。母親の老いをひしひしと感じてしまうきつねは、具体的なことは何も答えられないが、心配だけはさせまいとただ「がんばるよ」と答えてしまう。いくつになっても子供のことを気に掛ける母心とそれに応えることができない息子の会話です。刺さります。感情の機微を表現するのが非常に巧みです。117ページ2コマ目、3コマ目で沈思する表情を描き、4コマ目「がんばるよ」というセリフでは遠景のバックショットで締めています。この応えるきつねとそれを聞く母親の反応は読者個人の人生が投影されるように描かれ、自分自身の心にある感情と向き合うことができるのです。
うさぎ、きつねともに感情があり心があるキャラクターなのでジャンルとしては擬人化作品となっています。この擬人化設定が興味深いのです。『けがわとなかみ』の動物キャラは「個」はあるが「名」は持っていないのですね。名前がなくても個の識別ができるというリアルな動物の設定を組み込んでいるのです。キャラクターに名前が無いと画面がわかりにくくなりそうですが、そうならないのが秀逸です。うさぎが「きつね」というのは好意を寄せるきつねのことです。それ以外のきつねには「あなた」や「友達さん」という呼び方をします。名前という概念がない設定を入れ込んでも読みやすいよう工夫がされているのです。擬人化作品で作者がどんな世界設定を作り込んでいるかを読むのも楽しみの一つですね。
類家海さんの初作品集を取り上げました。人間が出てこない動物、植物のキャラクターのみで描かれるヒューマンドラマとなっています。そうヒューマンドラマなのです。擬人化におけるリアリティラインも絶妙で読み応えのある一作となっています。
画像出典 新潮社 『けがわとなかみ』 1巻P3,P17,P20,P24,P25,P116,P117,P73 掲載順