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ひとつの意見。ひとりのあなた。

意見は人の数だけある。似ているようで違う。だから100%納得できる意見に出会うことなどない。納得できそうな部分があっても、ある一方で納得できない。可能性を無限に広げるために設けられた「揺らぎ」。人間の多様性とは、つまり生存の可能性を高めるためのシステムだ。

過去に悪い事をした人がいる。Aさんとする。とある名誉ある仕事に抜擢されたとする。しかし、過去に行った悪い事が誰かに暴露された。そのことを知れば知るほど、名誉ある仕事に相応しくないことが露見する。そしてAさんはあらゆるバッシングを受けて謝罪した。しかし最終的にそのことを踏まえたまま仕事を受諾することは許されず、結局、今回の仕事を辞退した。よくある話だ。良くなかったのは、その過去の内容である。許されることではない。だから辞退という結果になった。しかし、問題はそれだけで終わらなかった。その後、Aさんの家族や子ども、そして関係者に誹謗中傷が及んだ。ボイコットのようなことを声高に主張する人もいれば、かなり強い口調で避難する人もいた。1連の事件は許されることではないだろう。それはその通りだ。当事者は一生消えない傷を負っている。そのことを今指摘されたAさんは、口で謝罪をしたところで浅いと判断されても仕方あるまい。だが、Aさんは自分で立候補したわけではないだろう。あくまで、抜擢されたというだけだ。

もちろん、結果として相応しくない人だったことは周知の通りだ。私もその点については仕方がないと思っている。Aさんは酷いことをしたのだ。だから例え浅かったとしても謝罪したし、辞退した。その上で今行われている家族や関係者に誹謗中傷が及んでいることはなんだろう。どう説明すればいいのだろうか。まるでAさんは悪人であるから、酷いことをしてきたのだから、同じような目に遭わせるべきだという世論が蠢いている。社会的な制裁を、鉄槌を誰も下さないのなら、私が下そうと言わんばかりにあらゆる憎悪がAさんに集中している。これはどういうことだろう。

わたしは擁護したいわけではない。ただ事実として、Aさんは酷いことをした。今回の決定に相応しくない。だから辞退した。そのことはとてもシンプルに事実として正しい。しかしさらに本人を攻撃し、家族や関係者を攻撃することは本当に報復として正しいのだろうか。もちろん被害に遭った人側からするとこんなものでは無いほどの苦痛を味わっている。心の中では溜飲が下がる思いもするだろう。だが1連の報道で忘れていた当時の記憶が蘇りまた辛い思いをしてしまうのではないか。今回の報復で壮絶なイジメの話が流布し、いままさに同じような境遇にある人が、目や耳を塞ぎたくなるような現実をまざまざと見せつけてしまっているのではないか。もちろんAさんのような酷いことをする人には天罰が下ればいいという気持ちは分かる。だがそれは天罰であって、私刑ではないはずだ。

今回のケースで暴かれた過去の事件によって本人はかなりの社会的な罰を受けることになるだろう。日本で暮らせなくなるかもしれない。そのくらいに大きなペナルティを負うことになる。もうアーティストとして活動することすら難しいのかもしれない。Aさんはまだ50歳そこそこである。Aさんにも息子さんがいる。まだ人生は続く。しかし、相当なハンデを持って今後を生きていかねばならなくなったAさんである。

わたしは彼のことが好きだった。好きだった人がこうも分かりやすく非難され、社会的な罰を受けている事にわたしはどうやって折り合いを付ければいいのか実はまだよくわかっていない。一応、彼の何が好きだったのかと言っておくと、彼の、何にも縛られない自由な作風と、あらゆる流れに対するアンチテーゼがオシャレなほど利いていたからだ。つまり、洒落が利いていた。意見は人の数だけある。しかし人はある一方の流れや意見におもねる事がある。それは世論だったり、世の中の雰囲気というあやふやなものだ。その流れになんとなく流されてしまう感覚に真っ向から対峙する急先鋒。それが彼だった。今思えば外界のあらゆる嵐に対してビクともせず、自らの信念を信じて、自らの感覚のみを頼りに世界の荒波に立ち向かっていくその姿はまるで、世界一周なんてできないと周りにバカにされつつも、世界一周を実現したコロンブスのようであった。例えが良くない?申し訳ない。自分の感覚を信じられなかった子ども時代のわたしにとってそれは暗闇を照らす灯台に等しかった。彼のように自分を信じて道を切り開けばいいのだと勇気づけられたのである。

あれから十数年。わたしは大人になった。あらゆる理不尽と出会い、時に戦い、時に迎合しながらわたしは成長してきた。それは諦めと呼べるものだったかもしれない。だが、同時にうけながすことも覚えた。それを、彼は出来なかったのではないだろうか。歳をとって誰もがみな覚えた、うけながすというスタンスを彼は取ってこなかった。そしてスタンスの変化を極端に嫌ったように思う。彼は彼らしさという檻の中に囚われたまま、これまで来たのかもしれない。現に十数年前から彼の作る音楽はまるで変わっていないのだから。それは彼の中の信念が変わっていないことを意味している。そして、どこかで、そんな自分がいてもいいのではないかと思っていたのではないか。不完全で、意地悪で、意地汚くて、狡くて、小賢しいじぶんという檻。大人になると狡猾にいい人を演じるものだが、彼はそれをしてこなかった。いい人を演じる中で、過去の自分を顧みることが少しでもできていれば今回の抜擢を最初から辞退できていたかもしれない。それが狡猾さである。だがそれをしなかった。名誉ある仕事をできるという自分に酔っていた部分もあっただろう。その部分が透けて見えてしまうから、だからここまでネット民をはじめとする世論はバッシングをかけているのではないかと思う。

彼は悪い。抜擢されたことは悪くは無い。だがそれを辞退せずに引き受けたことがまた悪い。それを指摘され口だけで謝ったことがさらに悪い。記者会見でもして正式に謝ったらまだ変わったかもしれない。だがそれを良しとしなかった。それが、彼の中のおこがましさとして逆効果となって世界中に広められてしまった。

彼はこれからどうするのだろう。
彼の家族、息子はどうなるのだろう。
オリンピックはもはや嵐しか生まない。
スポーツ選手は少しも悪くない。この日のために頑張ってきたスポーツ選手の皆さんの活躍を心の底から応援したい。
Aさんは悪い事をした。
同時に彼を抜擢した組織委員会も良くないだろう。オリパラという競技に1番ふさわしくない人選である。そのことは誰の目から見ても明らかだ。

今日はこの辺で。一言。切ないです。

MUSICAでした...♪*゚

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