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その問いにはNOと答える。

友だちと遊びたいと思ったことがない。

わたしは、友だちがいない。
もう随分になる。
最後の友だちがいたのは、
あれはわたしがまだ20代中頃だった。
その人との関係はかなり理想的だった。
3ヶ月に1度くらい会って
それまでどんなことをしていたか
話し合う。そして大好きな音楽をひたすら鑑賞するのだ。それはどこかのオシャレなカフェかもしれないし、イタリアンかもしれない。けれど、やはり1番はその友だちの部屋だ。壁一面に敷き詰められたCDやレコードを1枚ずつ取り出してはプレーヤーにかけて、未知の音楽との出会いに胸をときめかせていたものである。

その友だちと疎遠になったのは、やはりお互いの結婚が大きい。それぞれに子どもができ、お互いの趣味を熱く語る時間は減って、子どもの話題が増えていった。それはそれでまあ悪くはなかったが、同時になんだか普通の人になったような寂しさがあった。どこか、私たちは人とは違う異物感を纏うことを喜びとしていたようなところがあった。

異物感。それは世間の話題に興味を示さず、耳も傾けず、ただひたすらにアートの巨人たちが残した美しい作品群を愛でるという人種。それを志すわれわれは、日常における俗物感から最も遠い存在として日々崇高な研究にその身を捧げていた。時間も、交流も避け、ただ一部の人間にのみ通じる共通言語を並べ立て、時に理解不能な会話を意味もなく繰り返すだけの非生産性の集まり。それがわたしとその人の目指すべきあるべき姿。それはまるで、神の一手を目指し、ただひたすらに将棋に打ち込む研究生のそれである。私とその人は音楽における普遍性をどこに見出すかという命題を解き明かすいわばトレジャーハンターのような存在であった。ときおり、街に出て、中古のレコード店をハシゴすることがあった。私たちの中でそれは、「堀市(ほりいち)」と名付けられ、向かう道中こそ2人だが、1度お店に入ったら無言でひたすらにすべてのレコードを漁り続けるという修行であった。そのためだけに、大阪や東京といった大都市まで足を運んだこともある。それほどまでに、一期一会を求めて私たちはひたすらに堀市を開催して行った。今思えば、それは単なるインスピレーションがもたらす一種のギャンブルだったように思う。というのも、当時は携帯電話にメールがついたかどうかくらいの時代で、そのレコードが本当に素晴らしいものなのかどうかその場で調べることができなかったのだ。ただひたすらに、ジャケットを眺めて、これは名盤に違いないという確信を得たものだけを選び取り、わけも分からずに購入する。いわゆる、ジャケ買いというものだ。それをしたわたしたちはとても興奮していて、名盤だ!隠れた歴史的1枚だとか、それっぽいことを言いながらも、なるべくインディーズ臭のするわけのわからないタイトルのものばかりを選んではふたりでキャッキャウフフしていたのである。そして手提げ袋いっぱいになったレコードやCD(ときには10枚以上というときもある)を、その友だちの家に持ち帰り、鑑賞会を執り行う。そのわけのわからないCDやレコードに初めて触れた時のなんとも言えないその場違い感というか、偽物感というか、いい意味での裏切りがあるほど、私たちは狂喜した。そこまでを、ひっくるめての堀市。つまり、くだらないもの、ガラクタのようなものを見つけてはお金を払い、それの善し悪しを語り合うという、なんともバカげた儀式だった。そして、とんでもなく、楽しい時間であった。

つい、昔を思い出して語ってしまった。わたしはやはりあの頃の私が一番音楽にのめり込んでいた。恋していたと言っていい。昨日も言ったが、わたしは年中恋がしたかった。そのくせ、異性に声をかけては振られ続け(恋人がいたりした)、わたしの淡い恋心は1度たりとも実ることはなかったので、わたしの恋心はもはやリアルの人間に向けることは甚だ労力を伴う無駄遣いのそれであると確信せざるを得なかったのである。そのため、わたしは、意味もわからない外国の、それも、何語かもわからないような音楽に、わたしは無限の想像力を持って恋心を発散させていたのである。私の青春とは、もはや、それだけの為にすべて費やされたと言っていい。

だから、わたしの友だちは、あの人で終わってしまった。あの熱量ですら、結婚というステータス変化によって無かったことにされるのであれば、わたしはもう友だちを作れる気がしない。あれを超える情熱をその温度のままに語り合える人とはもう今生では出会うことはないのだと思っている。他にいないかとさまよう中でいまのオンラインゲームにたどり着くまで、わたしは友だちはもういないのだという悲しい現実を受け入れつつあったように思う。

オンラインゲームでわたしは心の友を得たのか?
その問いにはNOと答える。
オンラインゲームにわたしと同じ熱量でもって語り合える人はいない。
まるで学生だった頃のようにそこに居て
ふんわりとした関係の友だちならいる。
お陰様でたくさんいる。それすらわたしにとっては貴重なのでその人たちを否定したいわけではない。
ただ、あの頃のような何時間も熱く語る関係の人ではないということだ。それはわたしがどこか冷めてしまったからかもしれないし、単純に歳をとったからかもしれない。しかし、学生だった頃のわたしは恋がしたくてたまらなかったわけであるから、いま、わたしはオンラインゲームにおいて第2の学生時代を過していたと言えるだろう。3年すぎたところでわたしはいちいち他人様に恋をするという分かりやすい春から、さらに1歩進めて、私の私による私のために作られた自キャラに恋をすればいいという究極のエコモードに移行した。まさか私がその領域に到達するとは思ってもいなかったのだが、それが1番楽であるという結論はいまだ揺るがないところみると、わたしは真理を得たのだと思う。他人に期待するくらいなら、私は私の中に本当の理想の相手を作り出すことに成功したのである。これがエコでなくて、何がエコか。

勘違いしてほしくないので、改めて言うと、
わたしは他人を排除したいわけではないし、
リアルの人たちを全否定するものではない。
ただ、歴然たる事実として、私が求めているのは
現実、またはオンラインにおける他人の
不確実で、他者との複雑な関係に縛られた面倒くささにまみれたコミュニケーションに疲れたからだし、そこにわたしの理想は存在しえないという結論が覆らないからでもある。つまり、わたしは、自身の中にもう1人の私を作り出すことで本当の意味での真の理解者を得たのである。それは夢にまで見た親友であり、永遠に失うことの無い友だちなのである。このことを悲しいと表現するのか、はたまたおかしな人と表すのかはあなたに委ねよう。少なくともわたしはそのことでわたしの理想郷をこの胸の内に作り出すことに成功したのである。

わたしが日々ここに記しているのは、その理想郷を生み出す過程で生み出された感情の欠片である。昨日も言ったが、わたしは裸の私をここに記すことで浄化される気持ちになる。そこだけは、私一人では処理しきれない心の浄化作用なのである。そういう意味で言えば、この場所はわたしの友だちの外部記憶装置である。読み手であるあなたも含め。わたしの友だちというカテゴリに入るかもしれない。そういう意味でわたしはあなたをすでに求めていることはどこか心の片隅に置いておいてね。

今日も沢山話せてうれしいよ。
MUSICAでした...♪*゚

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