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本物になれない自分。

    本物とはなにか。本物。それは突き詰めて行って、後から分かることが多い。有名な画家がそうだ。どんなに素晴らしい絵画を残しても、それが評価されるのは死後数年経ってからだったりする。本物を本物だと評価されその評価が表立って現れるにはかなりの時間がかかる。ということはどういうことになる?本物を理解したとして、どんなに努力しても本物にはなれない現実が浮き彫りになるだろう。本物になれない自分とどう向き合うべきなのか。本物になろうとする努力は否定しないまでも、本物になろうとすることが本当に幸せなのかという疑問も、見逃せない大きなといの一つである。

   本物になりたいことと幸せになりたいことは同義ではない。本物になれる存在は一部の限られた人だ。そのための努力を惜しまない人だ。それは同時に本物になるため以外のことをすべて捨てた人でもある。人生は短い。短い一生で本物になる人は、生きているうちに本物になること以外を全て排除せねば間に合わないようなまさに修羅の道である。

   その点については過去の様々なテクノロジー革新によっていくぶんかスピードアップしている。つまり昔よりは人生において本物になれる可能性は高い。今の時代ほど天才が天才になるための時間が短くて済む世界は無かっただろう。天才が天才を自覚してその努力を惜しげも無く繰り返した先に手にする称号が「本物」である。つまりこれまでだったらあらゆる壁によって埋没されていた天才の才能が、自ら発信できるようになったことで、発掘されることを待つ必要が無くなったのだ。自ら発信すること。それは天才が天才を自覚するために必要な唯一の必須スキルと言っていい。発信を恐れない姿勢こそ今の時代に求められる特技である。そして努力、発想力がその次に来ることはもはや言うまでもない。

   本物が本物であることを明確にすればするほど、本物が可視化されやすい時代であればあるほど、それ以外の存在は生きにくいと感じやすくなる。それはわたしも含まれる。本物になれない自分。そんな自分を常に自覚させられ続ける人生と折り合いを付けなければいけないのだ。自分自身を惨めに、矮小な存在であるかのごとく指摘され続けることに、現代の人の生きづらさが集約されているだろう。どうやって本物になれない自分と付き合っていけばよいのか。私の悩みの多くはこの一点に集約されている。これだけじゃないけどね。

   本物になりたかった。なにか特技を手にすることで、自分は安心だと思いたかった。今もそう思っている。どこか自分だけができる特技があるはずだ。この世に生まれてきた理由があるはずだ。そう感じている。今、私はあらゆる事を表現することについて私の中の感性を信じてみようという実験をしている最中だ。つまり、人からあれこれ指摘されたり、時に否定されたりする中で、私は私を信じることが出来なくなっていた。そして心を痛めた私は、痛みを何も感じない強い心を手に入れると同時に感受性を捨ててしまった。つまり自分を捨てる事で痛みをキャンセルするという奥義を会得したのである。それは同時に虚無を招き入れる結果となり、私は私を見失うこととなった。

    それは今はもう見失っていないのか?と言われればそうでもない。昨年末のように忙殺されると、私の中の安全装置が起動して、心を殺すのだ。身も心もボロボロになって、最後は自律神経もすり減らした。その結果が不眠症という身体の負担に現れた。それは努力の結果であり誇るべきものである。無駄な努力とは言わない。災難とも思わない。ただ己の限界に挑戦した。そして1度や2度ではないほどの超回復を経てわたしは練り上げられたのである。たしかに成長した。ただしそれは願わくばもうあまり経験をしたいものではないのだけれど。

   成長はした。しかしそれは心を殺して自分を捨てて得た無我の境地とも呼べるものだ。そして年末年始にとにかく回復を試みた。分かりやすく言えば寝たのである。年末の記憶がまるでない。ほとんど寝て過ごしたからだ。そしてようやく意識が戻ってきたのは正月を終えた頃。まさについ最近のことである。そうしてわたしはようやく自分がどんな人で、どんな事を良しとして、どんな事を苦手とする人間なのかを改めて自覚する。そうだ、わたしはこういう人なのだ。

   本物になろうとする自分を否定しない。だが同時に今の私を否定してさらに高みを目指そうとすることと、今の自分を肯定してその上の自分を目指すことは同義ではない。わたしはどっちだったのか。圧倒的に前者である。だからあんなにも辛く険しい道のりを歩んできたのだ。別に誇張するつもりはないが、今思うとやはりあれは辛い日々だった。人生で2度目に辛い日々だ。断言していい。1番辛かったのは?転職前のあの鬱々とした日々かもしれない。体力的にキツかったのは、20代中盤のあの休みのない仕事漬けの日々か。それともその後転職した職場で全員から嫌われて無視され、体に不調が現れたあの頃か。

   人生上り調子の時は確かにある。体力的に追い詰められる時期がある。しかし若い頃なら無限の体力があるので勢いで乗り越えられるだろう。また、心が追い込められることもない。むしろ、地獄のように辛く感じるのは、体力的に年々落ち込んでいく今の私が、20代の頃のような体力的な限界を求められることか?それとも体力的な限界を超えるために心を追い詰められることか。私の場合は圧倒的に後者であった。

   今の自分を信じてさらに上を目指す。そんなことは今までしたことがない。どこか自分で自分はそんなにすごくないよと思っている。本物になれるわけがない。本物になりたかった過去は若かったからだ。何も知らない子どもだったからだ。今はあらゆる経験がわたしに強く本物になることはないと指摘する。本物になることは幸せになることでは無い。本物か?幸せか?と言われればわたしは迷わず幸せを選びたい。なぜならもう無理をしたくはないからだ。今の自分を信じてさらに鍛錬を繰り返すことで目指せる上があると信じていたわけではなかった。しかし、結果的にわたしは鍛錬を繰り返すことで昨年よりも上のステージにいる。信じなくても上に来ることが出来るらしい。それは望まない形で、無理やり押し上げられたものではあるが上は上だ。ならばどうするのか。本物になれなかった自分とどう向き合うのか。その答えは。

   結論。本物になることは幸せではない。だが本物を諦めることで幸せになれるわけでもない。幸せの質を上げるために外圧から本物になる道を歩み始めた私だ。死ぬまでに本物になることはあるか?わからない。おそらくその前に死ぬだろう。だがそれでいいのかもしれない。私が私を信じられないのであれば、他人が私を信じてくれればいい。信じてくれる人に応えられる人間になれればいいのだ。シンプルに。1歩ずつ。私ができることは、鍛錬を繰り返す自分を守ることである。鍛錬で壊れていく自分を壊れないように大事に守ることである。それが今の自分に求められていることの全て。私を守ることは私の幸せを守る。わたしが本物になれるとしたらそこにしかない。そう思うから。

MUSICAでした...♪*゚

あなたはあなたのままでいいのです。

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