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ミッドサマーを見たよ

今話題の 「ミッドサマー」、観にいきました。

今朝9時ごろに起きて、何をしようかなと悩んだいたところ、「ミッドサマー」が話題らしいということをネットで拝見。「観よ!」と思い立ち、近場の映画館の一番早い回をその場で予約し、電車に飛び乗って観にいってきました。

評判通りすごい映画で、思考が追い付かなかったところもありましたが、思うところを書き出してみました。

以下は、観終わった直後、カフェでWordに書き記したものです。

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アメリカの大学生五人組がそのうちの一人の故郷、スウェーデンのホルガという村に訪れる。夏至の日、その村ではある祭りが行われる。それに彼らは招かれた。

上映後パンフレットを購入し、すぐにカフェへ。
この鑑賞体験を記憶にとどめるため、この文を打っている。
なんといえば、良いだろうか。気分はかなりしんどい。頭が痛い。それは、暴力的な表現や性的な表現に顔を顰めざるを得なかったからかもしれない。いやしかしそれ以上に、この2時間半に起きた現象。その重みがのしかかっているせいかもしれない。この重みは何だろう。
そもそも、この映画にはストーリーなどあったのだろうか。スウェーデンにいくまでの男女のいざこざや、主人公の妹や両親の問題は、伏線ですらないような気がする。これらはただ、スウェーデンに行くための口実にすぎず、伏線のように思わせて興味を惹く導入の役割の身与えられたもののように思われる。
この映画で表現されたものは、ただ「祝祭」そのもの、その現象のみではないか。北欧の小村が引き継いできた一見惨たらしく、グロテスクな「奇祭」。それを見る時、人が未知の存在と出会ったときに、それを理解しようとする「偏見」のキャパシティを優に超える、「気持ち悪さ」が襲ってくる。この映画は違和感と恐怖と気持ち悪さで満ちていて、しかしそれを疑問に思わず受け止めてしまう自分もいる。それはおそらく「奇祭」だから。自分の理解できないものだと思っているから、それはもうそういうものだと受け止めてしまうしかなくなる。
簡素な木馬のようなものを意味ありげに壊したり、人を鳥のように吊り下げたり、クマだったり、ニシンだったり、性行為を囲む女性だったり、歌だったり、叫び声だったり、ありとあらゆる事物に違和感しかない。説明もされない。道理が通じない。でも、それは「そういうもの」として腑に落ちてしまう。だって、その村の伝統で、風習で、「意味がある」らしいんだから。
いや、そうか。結局のところ、自分たちの身の回りもそうじゃないか。傑作映画を変に普遍的に解釈するような、今まで何度も繰り返されて来た人類学的文化相対主義を持ち出すようなことはしたくないが、そう思わざるを得ない。つまりは、一歩外に出れば、私たちが心底大事に抱えている常識、いや世界認識は、「奇祭」なのである。朝おきて、三食食べて、夜に眠る。それが奇妙ではないのは、それを奇妙だと思う文化圏ではないからだ。どんなに科学が進歩して、様々な現象に理屈がつけられるような社会であろうとも、それは他者によってはいつ根底を揺さぶられてもおかしくない「奇祭」なのである。人が生きることは、社会を為すことは、この映画を観て感じる感情を呼び起こす。
「グロテスク、かつ、美しい」

この映画をみて視界に入るものすべてが細かな気配りと配慮、そして深遠なる意図でもって配されているように思われる。花の映し方、人の動き方、装飾、建物、そのすべてが統一感をもち、無駄がない。そう、無駄がないのだ。いや、無駄にしか思えないものもある。でも、無駄ではない。だって、そう、風習だから。だからこそ、この映画は起承転結のあるストーリーではない。何も無駄がないことは、それ即ちそれが「現実」であるからだ。「現象」であるからだ。これは祭りそのものであって、それ以上ではない。日本人が神社に鳥居は必要だと無条件に思うように、この村にはこの祭りが、この祭りにはあれら種々の行程が必要なのだ。無条件に。その無駄のなさ、それが美しく彩を与える。
後半、祭りが進む中で、言葉数が少なくなるのも(そういう印象がある)、これが「祭り」という現象そのものを映していることに他ならない。理屈は超えられ、すべては祈りに収束する。そして、祭りが成就し、完遂されたのを見届けて、女王は笑う。それは決して、不貞をした(ように見えた)恋人への復讐の微笑みではない。この時彼女はもはや、家族を亡くし、恋人に裏切られた、傷心中の女性ではない。祝祭の主役であり、選ばれしものなのだ。そしてその微笑みは、ホルガの女王としての、安堵と祈りの微笑みなのだ。そして、祝祭はエンドロールへと向かう。

惨たらしくも、美しく、夢と現実が溶け合い、常識が軽々と乗り越えられていく。いや、乗り越えるべき常識などは存在しない。ただ、別の常識があり、そこに移っていくだけの話。素晴らしいとはできれば言いたくない。この気持ち悪さは感嘆し、称賛するものではない気がする。ただ、見事だと、思う。細部まで完璧に配慮された2時間20分。その長さも感じさせないほど、濃密で、満ち足りた映画だった。なるほど、確かに「すべてのシーンが伏線」だ。なぜなら、繰り返し言うが、この映画が映すのは「祝祭」そのものであり、それが「すべて」であるからだ。そこに無駄なものなど、一切ありはしないのだから。

祝祭、また、90年後。


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何はともあれ見事な映画でした。

また機会があったら観ようかな。

いや、耐えられないな。

そんな感じ。

失礼します。

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