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ロングデイズジャーニーを観たよ

今日の15時半くらいですかね、ふと思ったんですよ。映画観たいなって。

ちょうど就活の面談前の空き時間でね、Twitter見てたら、ロングデイズジャーニーの情報が流れてきて。すぐに19時の回を予約して観てきました。

個人的には好きな映画です。あの分からなさ、とても良い。

Wordで駄文を書き連ねたので、家にいて暇でどうしようもない方がいましたら、読んでいただけると幸いです。

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 父の死をきっかけに故郷の凱里に帰ったルオ・ホンウは、追憶の中に現れる女性に囚われていた。彼女を追い求める中で彼はある場所に辿り着く。

 正直に言うと、わけがわからなった。過去と現実、夢と現、虚と嘘が混ざり合い絡み合い、その境目は消え去っていく。自分が今どこにいて、何を見ているのかがさっぱりわからなくなる。時間の流れもつかめない。辛うじて、1時間9分が経過したことは知ることができる。(3D眼鏡をつけるシーンが1時間9分ごろと示されているので)しかし、それでもストーリーは掴めず、会話もちぐはぐに感じる。登場人物が誰で、何の話をしているのかが、わからない。分かろうとしても、するりと抜けていく。あるのはただ強烈な違和感、不思議、濛々たる雰囲気。霞を掴もうとしているような感覚にさえなる。なんなんだ、これは。ずっと本質が掴めないまま、煮え切らない思いを抱えて映画館を出た。

 そもそも3Dにする意味はあったのだろうか。ワンシーンでの撮影は意味ありげに理解できる。主人公が「映画はシーンを切り合わせるもの。虚構なもの。記憶は不意に現れる真偽が不確かなもの」と語るシーンと対比すれば、あるいはそれまでのシーンの不自然な、時空を飛び回るようなつなぎ方と対比すれば、ワンシーンで映画を終えることはとても示唆的で、有意である。では3Dは?3Dにすることの意味はどこにあったのだろうか。映画の中盤から3Dになることは、映画に集中している観客を現実に一瞬引き戻すことに繋がってしまう。ああ、ここで境目なのだと思考が切れてしまう。それまで境目がない中で霧のなかをもがいていた観客が冷静になってしまう。それは、この映画にとってあまりいいことのようには思えない。そこまでしてなぜ3Dに拘ったのか。単純に技術的な面白さ、奇抜さを狙ったものだろうか。そこが少し気にかかる。

 ただ、この映画の絵画的な美しさはかなり目を見張るものがある。印象的な赤と緑の対比、水の表現(水滴、音、流れ、雨)、鏡や水面、ガラスを通した間接的な人物の映し方は、この映画において印象的に、効果的に作用している。今自分が見ているものが、実は鏡の像であったり、ガラスを1枚挟んでいたりする。実体を見ているつもりが、本質ではなかった。そのような混乱が、ストーリーの混乱を加速させ、一層自分の所在地を曖昧にする。分からない、違和感がある、すっきりしない、でも美しい。捉えどころのない女性を求める男の姿を見ている我々は、その男の姿さえも捉えられずにいる。それが、実は心地良さでもあり、この映画の魅力だと私は思う。

 私たちは、分かりすぎているのである。あるいは、世界は分かりやすいもので満ちすぎているのである。私たちはすぐに本質を知ったような気になれるのである。故に、分からないことの「暖かみ」がどうも欠けてしまう。すべてに極端に意味を求めすぎてしまう。映画を、音楽を、小説を、芸術を、意味のあるものにし過ぎてしまう。それを、破壊しなければならない。かつてシュルレアリスムや構造主義が破壊したのはそういった恣意性や偏見だった。(多分。詳しくないけど。)

 何はともあれ、この作品は美しかった。そう言いたい。パンフレットに引用されていた海外のレビューが言うようにデヴィットリンチ監督の『マルホランドドライブ』を見た後の得も言われぬ感覚と類似するものがある。私はこの感覚がとても好きだ。

 わからない、ただ美しい。その快感に、今は浸りたい。

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推敲くらいはするべきなんでしょうけど、それをやったらnoteに投稿することもできなくなるんですよね。

結構好きでしたこの映画。『マルホランドドライブ』が好きだったからかも。

興味持たれた方は是非に。


そんな感じ。

以上です。

失礼します。

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